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野球界イチの喧嘩屋 ビリー・マーチン 気性の荒さは世界イチ メジャーリーグの瞬間湯沸かし器 その愛すべき素顔とか

おはようございます。今日は取り上げるのは、
喧嘩屋ビリーと言われた、伝説の喧嘩や
ビリーマーチンについてお話していきます

二塁手としてニューヨーク・ヤンキースなどでプレーした選手でしたが、
ニューヨークのナイトクラブで乱闘騒ぎを起こして、ヤンキースを追放されて、その後は
数球団を渡り歩いて引退した選手ですが、この人は野球の成績そのものよりも
大男を相手に、派手な乱闘をして相手のホホを折って裁判沙汰になったこともある
喧嘩屋として有名な選手でした、
「俺の方から最初のパンチを出したことは無い、相手が殴ってきたら4発返すだけだ」と
言っていたそうですから、相当な気性の荒さですね。
元々、ボクサーを志していただけあって、パンチもあり、相当、喧嘩が強かったそうです。

アメリカ西部劇のヒーロー、ビリー・ザ・キッドにもなぞらえて、喧嘩やビリーと言われました

ちなみにちょっと脱線しますが、ビリーザキッドは、アメリカのアウトローで無法者で
西部開拓時代に、21人を殺害したアメリカ史上最強のアウトローの一人です。

話をビリーマーチンに戻しますね、ビリーがすごいのは、引退後です、
弱小チームの監督をすると、たちまちに優勝させていきます、ツインズの監督になったその年に
前年7位から優勝させます。が、フロントと対立してあっさり1年で退団。
その後、タイガースの監督になり、前年4位から優勝。
レンジャーズでは6位から2位と、その手腕は天才的でした。

ただ毎回、フロントや選手と喧嘩騒動をおこして、すぐに解任されるという喧嘩やスタイルは
代わることはありませんでしたが、

1975年に、低迷する古巣ヤンキースから監督の声がかかり、翌年には優勝させます。
当時、マーチンは監督室に、第一条、ボスは常に正しい、第2条 ボスが間違っていると思ったら第1条を見よ。というスローガンを掲げていました。
そのビリーのボスは、ヤンキースの名物オーナーの、スタインブレナー・オーナーでした、

お互い、ワンマンで気性が荒いことから、ビリーとスタインブレナーは、たびたび衝突し、そのたびに
解雇されたため、なんと、ヤンキースの監督に5回就任し、5回解雇されるという珍記録です。

でもまた監督をお願いするあたり、スタインブレナーとビリーの関係は実は相思相愛だったのかも
しれませんね。

日本でもビリー・マーチンの指導を参考にした監督がいました、あの西武ライオンズを黄金期をつくりあげた広岡監督です。なんとなく、うなずけますね。

そんな喧嘩やビリー、61才のクリスマスに友人とバーから帰宅中に、乗っていた車が、凍った路面で
横転し、マーチンは前方に投げ飛ばされ、首の骨を折って即死してしまいます。

スタインブレナー・オーナーは「そう滅多にいない男だった。家族の一人を亡くしたような気持ちだ」というコメントを残して、ベーブ・ルースの墓と同じ区画に墓を建てるように、取り計らいました。

野球殿堂入りはしてませんがヤンキースは現役、監督を通じてつけていたマーチンの
背番号『1』を永久欠番に指定しています。

メジャーリーグきっての喧嘩や、

ビリーマーチン。いかがでしたでしょうか?

ご拝聴、ありがとうございました。

それではまたお会いしましょう!

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