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【城島健司】九州男児の熱き野球人 王貞治氏に憧れて運命に導かれるように師弟関係となり日本球界最高の捕手に登り詰めると本場アメリカにも挑戦し結果を残し続けた日本初の強肩キャッチャー

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、城島健司(じょうじま けんじ)さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=RRUKi8kv-i0&t=120s

長崎県佐世保市(ながさきけんさせぼし)で生まれた城島は、4歳の時、
その後の野球人生において
不思議な縁でつながり続ける
王貞治(おう さだはる)氏の引退試合に影響を受け、
プロ野球選手になる夢を持ちました。

選手の中で1人だけ反対方向を向いていて
特別なポジションだから面白いと、
少年野球チームの頃から捕手(ほしゅ)を務めると、
中学3年時、九州で行われた野球教室のゲストに
現れたのは、なんと憧れの王貞治(おう さだはる)氏。
直接プレーを見てもらい、将来は
巨人に入りなさい。と褒められた事から
巨人入団という強い希望を持つようになります。

別府大学附属高校(べっぷだいがくふぞくこうこう)に進学すると、
自分は捕手(ほしゅ)をやるために生まれてきた宿命、
今までにいなかったくらいの
打って守って走れる捕手を目指そうと決意を固め、
強肩強打の捕手として1年から4番で出場、
高校通算70本塁打を記録しました。

巨人入りを夢見ていた城島は、
当時のドラフトルールで
大学生以上でなければ、希望球団へ逆指名が
出来なかった事から、
推薦入学の誘いを受けた駒澤大学へ進み、
東都大学(とうとだいがく)リーグで力をつけてから
巨人入りという青写真(あおじゃしん)を描いていました。

そのため高校卒業後はプロ入りを拒否して進学を
表明していましたが、ダイエーホークス専務、
球界の寝業師(ねわざし)こと根本(ねもと)氏が1994年度のドラフト会議で、
強行で城島を1位指名した事から運命の歯車が動き出します。

高校時代、3段の腕前である書道の時間に
好きな言葉を書くよう先生に
言われた城島は、迷わず「王」の一文字を書いたほど
尊敬してやまない王貞治氏から自分も来期は
ホークスの監督をやるから一緒にやろうと声をかけられた事で
方向転換、プロ入りを決断しました。

これをきっかけに、アマ球界(きゅうかい)との摩擦を避ける名目で
プロ入り拒否を表明した選手をドラフト会議で
強行指名できないルールが制定されるほどでした。

プロ入りした当初はワンバウンドを捕球(ほきゅう)する事ができず
達川(たつかわ)コーチを始め、野村克也(のむら かつや)氏や森祇晶(もり まさあき)氏ら、
球界に名を残した名捕手(めいほしゅ)から、キャッチャーに向いていない
という声が上がり、非凡な打撃を生かすために
内野手(ないやしゅ)にコンバートしようという案もあり実際に一塁(いちるい)の守備も
経験します。

しかし、のちに師弟関係となる工藤投手(くどうとうしゅ)いわく、
どれだけ厳しく叱っても強靭な精神力で
食らいついてきた。
彼は僕が育てたんじゃなくて自分で育ったんだ、
と語るほど、
何でも吸収しようと貪欲に教えを請い、
球界を代表するナンバーワン捕手となっていきました。

1995年にプロ初安打(はつあんだ)、初打点を挙げると、
1996年にはウエスタン・リーグの本塁打(ほんるいだ)新記録を達成。
9月3日に一軍昇格後はスタメンで起用され、
オフはハワイ・ウィンターリーグにも派遣されます。

3年目となる1997年、開幕から一軍に定着すると
工藤公康(くどうきみやす)、武田一浩(たけだかずひろ)の
両エースに、若菜(わかな)コーチからも徹底した指導を受けて飛躍、
特に工藤は1年間、城島が出すサインに首は振らないと宣言するほどの
英才教育で、オールスターゲームに最年少21歳45日で選出されるなど
最終的に打率3割を記録して不動の正捕手(せいほしゅ)に成長します。

1999年には全試合出場、リーグ3位の打率3割6厘を記録するなど
球団初のリーグ優勝および日本シリーズ優勝に大きく貢献し、
工藤とともに最優秀バッテリー賞も受賞する活躍を見せました。

翌年もリーグ2連覇に貢献すると
2001年、リーグ9位の31本塁打(ほんるいだ)、
2002年、本塁打25本に、打率リーグ10位の2割9分3厘と着実に
超一流への階段を登っていった、2003年。

3割・30本塁打・100打点という
さらに高い目標にかかげて、
子どもたちに夢を与えるスーパーキャッチャーになる!との
宣言通り、打率3割3分、34本塁打、119打点を記録。
チームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献するとともに
MVPに選出されるまでになりました。

進出した日本シリーズでも4本塁打を放ち、
チームの日本一の原動力となった翌2004年、
アテネオリンピック日本代表では4番に座り、
銅メダルを獲得、シーズンでも打率3割3分8厘の好成績を残します。

チーム名が福岡ソフトバンクホークスへ変わった
2005年オフにFA権を行使、
3年1650万ドルでシアトルマリナーズと契約を結び、
4月3日、本拠地セーフコ・フィールドで行われた
ロサンゼルス・エンゼルスとの開幕戦、7番捕手として
ついに日本人キャッチャー史上、初のMLB(えむえるびー)選手となったのです。

自身の入場曲ジミ・ヘンドリックスの「Hey Joe」(ヘイ・ジョー)
をBGMに打席に入ると、デビュー戦でいきなりホームラン、
続く4日も本塁打を放ち、デビュー戦から2試合連発で
日本球界ナンバーワン捕手の実力をアメリカのファンに見せつけます。

9月からは3番に定着。25日のシカゴ・ホワイトソックス戦で
マリナーズの捕手としては最多記録に並ぶ18号本塁打を放っただけでなく、
ア・リーグ新人捕手シーズン最多安打記録146を44年ぶりに更新する
など、メジャー1年目からチームの中心的な選手となりました。

最終的に打率2割9分1厘、松井秀喜(まついひでき)がメジャー1年目に記録した16本塁打を上回る
18本塁打、76打点の好成績を上げ、
新しい投手たちと違う言語でコミュニケーションを取らなければならない
キャッチャーという難しいポジションでありながら、
これだけの打撃成績を収めたのは我々の脳裏に強く焼き付いた、と
USAトゥデイ紙など数々のメディアで賞賛されました。

当時のマリナーズは弱小球団というイメージでしたが
城島の加入で投手力が大幅に上がり、メジャーでは珍しく
捕手というタフなポジションで140試合に出場した事や、
日本でも2001年から4年連続でリーグトップの盗塁阻止率を記録した
ジョー・バズーカーと呼ばれる卓越した強肩を生かして
メジャーでも盗塁阻止率はトップを維持した事で
メジャーリーガーたちを驚愕させます。

打者が打てない球を投げさせる日本流のリードに対して
投手が一番投げたい球を投げさせるアメリカ流のリードなど
その違いに上手くアジャストしながら1年目から正捕手として
定着したのでした。

マリナーズ時代の同僚でWBC(だぶりゅーびーしー)オーストラリア代表にもなった
ローランドスミス投手は、ジョーにはピッチングの基本や
初球にストライクを取る事がいかに大切かを教わり、
投球練習の時には肩が開いているよ、など的確な指摘をしてもらった。
そしてなんといってもあの強肩に助けられた投手は多いよ。
と語っています。

また球団関係者も、相手打者を研究して毎試合、攻め方を組み立てていて
投手陣に気持ちよく投げさせる事を考えたリードで
新風(しんぷう)を吹かせてくれた。
さらに予備動作がなくても強い送球ができる肩は中南米選手のようであり、
あれだけの強肩(きょうけん)を持っている捕手は、
なかなかいないと絶賛されたのでした。

翌2007年も135試合に出場、打率2割8分7厘、14本塁打、61打点。
さらに守備率と盗塁阻止率は両リーグトップを記録して
CBSスポーツの捕手ランキング5位に輝きます。

3年目の4月には早々に来季からの契約更新を打診され、
3年総額26億円で契約を延長すると、
2009年、開幕前に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表として
全試合スタメン出場、2大会連続2度目の優勝に貢献しましたが、
4月に肉離れ、5月に左足親指骨折など怪我に見舞わたシーズンとなりました。

あと2年の契約がマリナーズと残っていましたが、
より自分を必要してくれる環境を求めて日本球界に戻ることを
決断、マリナーズからの7億円を放棄して
阪神と4年契約、年俸4億円で入団する事が決まりました。

メジャーリーグ4年通算、
431安打、48本塁打、198打点という好成績を残して
日本球界に復帰した、2010年10月5日の東京ヤクルトスワローズ戦。
シーズン165安打目を放ち、古田敦也(ふるた あつや)氏が所持していた
捕手のセ・リーグ最多安打記録を更新した事により
セ・パ両リーグの捕手最多安打記録を城島が所持、

さらに史上初のセ・パ両リーグで捕手として
ゴールデングラブ賞を受賞するなど変わらぬ活躍を見せました。

しかし、2011年は左膝の負傷、2012年は椎間板(ついかんばん)ヘルニアや
左ひざ裏の肉離れなど、ケガにも苦しみ、医師から
捕手に戻るのは絶望的との診断を受けた事で王(おう)氏に相談、

他のポジションで頑張ってみてはどうか、という
言葉をかけられましたが、キャッチャーのまま終わりたいという
本人の美学や、これだけ高い給料をもらいながら、1年間
グラウンドに立たないなんて事はあり得ないという責任感から
4億円を放棄、引退する事を選びます。

阪神の和田(わだ)監督から、一軍の引退試合出場を打診されましたが
優勝に貢献できなかった男に晴れの舞台はいらないと
出場せずにユニフォームを脱ぐことを決め、
日米通算2000安打まで残り163本での引退となりました。

引退後は球界から離れ、雀荘(じゃんそう)を営んでいた父親とよく幼少期に
行っていたという趣味の釣りやゴルフに没頭、

野球を好きなうちにやめたい、釣りが1番で
野球が2番と言いながら、あそこまでの選手になる
ジョーは数少ない天才の一人だ、とイチローが
語っているように、

朝4時半に起床して、5時に釣りに出発、6時に
手作りのおにぎりを食べ終えたら12時に帰宅。
クラシック音楽を聞きながら体を休めると
15時からゴルフの練習、18時から釣った魚で
夕食を食べたら21時に就寝するという
大好きな釣り中心の日々を送っていました。

野球からはすっかり離れて
釣りやゴルフのテレビ番組にレギュラー出演などしていましたが
引退後も毎年のように王(おう)会長から球界(きゅうかい)復帰の打診を受けてきた城島は、
2019年、ついにホークスのアドバイザーとして
復帰を決断します。

キャンプイン初日、王会長から、衝撃の一言を
言われたそうです。
「おい!ジョー、ときめくだろう?」と。

60年くらいこの世界にいる人が球春到来(きゅうしゅんとうらい)の瞬間に
今でも、ときめくと表現する野球への愛、純粋に
男として格好いいなと思いました、
やっぱり一番ユニフォーム姿が
似合っていて、野球をしている時の目の輝きが違いますね。
と語っています。

王会長も城島の事を、華があって、やんちゃ、
そして相手が誰であろうとズバズバ物事を言ってくる、
ミスターに似ているんだと高く評価しており、

固い信頼で結ばれた二人がまたタッグを組んで
プロ野球界に戻ってきた事を
野球ファンはチームの枠を超えて歓迎したのでした。

現役時代、ヘルメットに貼られた息子の写真を見てから
首に吊るした結婚指輪にキス、それからバットで家族のイニシャルを
描いて打席に入ると、自分が打てる所が全てストライクゾーンと
公言している通り、とんでもないボール球でも打ちに行く
大胆不敵さと勝負強さを兼ね備え、ベストナイン6回、
ゴールデングラブ賞8回という強肩強打(きょうけんきょうだ)のスーパーキャッチャー。
城島健司(じょうじま けんじ)。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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