見出し画像

【ジョージ・ブコビッチ】メジャー時代に地区シリーズで代打サヨナラホームランを放つ勝負強い打撃は西武ライオンズでも健在でシリーズ男となった助っ人は噛みタバコにアイブラックが良く似合うメジャーを感じる男

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はジョージ・ブコビッチを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=BMb98n4TmA0&t=84s

1956年、アメリカ合衆国イリノイ州で生まれた
ブコビッチは南イリノイ大学を卒業した1977年、
MLBドラフト4巡目の高評価で
フィラデルフィア・フィリーズに
指名され入団すると、
1980年にメジャー初昇格を果たし
出場機会は無かったものの
ワールドシリーズ制覇の一員にもなりました。

翌1981年には地区シリーズで
代打サヨナラホームランを
放つなど勝負強さを見せましたが
レギュラー定着とまではいかず
1983年、クリーブランド・インディアンスに
移籍します。

すると翌年、134試合に出場して打率3割4厘をマーク、
外野の守備では自慢の強肩を披露して、
ゴールドグラブ常連だった
ブレーブスのデール・マーフィー以上だと
高く評価されました。

翌1985年のシーズンオフ、森監督が就任し
新体制となった西武ライオンズは
左右両打席から広角に打ち分ける
シュアなバッティングと優れた選球眼を持ち
来日6年で打率3割を5度マークしていた
長年の功労者スティーブの退団にともない、
後釜を探していたところ、31歳と
脂が乗ったブコビッチに白羽の矢を立て交渉を開始、
年俸1億2000万円の好条件で
海を渡ってきたのです。

キャンプに現れた
身長181センチ、体重90キロの助っ人は
取材陣に対して無愛想で口数が少ないうえ
打撃練習では打球が上がらず、
ゴロビッチと失笑されるも
「メディア対応は昔から苦手だからね」と
気にする様子はありませんでした。

キャンプ中、宿泊先のホテルで阪急に
入団したアニマルに遭遇すると
「ラウンジでオレがビールを奢って
やるから付き合えよ」と
上から目線でメジャーの実績は俺の方が
上なんだという
強烈なプライドを見せて迎えたオープン戦、
3試合連続アーチを放ったのです。

世間の注目は18歳の清原に集中する中、
現役メジャーリーガーも負けじと本領発揮、
開幕戦から4番ライトでスタメンに名を連ねると
4月中盤まで打率3割8分5厘のハイアベレージを
マークしたほか
本場仕込みの激しいヘッドスライディングや
外野守備でも球際の強さを見せるなど
躍動していきました。

しかし大砲として30発以上を期待する首脳陣と
左の中距離打者だという自身の認識のズレが
少しづつ大きくなり
「4月は2本塁打で少ない!って言われたけど
そりゃ狙ってないからね。俺はヒットを確実に
打つ事を心掛けていて、その延長がホームランだと
思っているんだ」と意に介しませんでしたが
なかなか一発が出ない助っ人に
指揮官は次第に送りバントのサインを出すようになり
勝負どころで犠打を失敗するブコビッチに
イライラが募ってきたのです。

8月6日の近鉄戦、1点ビハインドで迎えた
八回表、3番ブコビッチ、4番秋山、
5番大田の3連発をかっ飛ばしましたが
最終的には
121試合で打率2割6分5厘、18本塁打、67打点と
物足りない数字に終わりました。

しかしアメリカ時代から大舞台では
集中力が高まってくる
助っ人は3勝3敗1分(わけ)により
史上初めて
第8戦までもつれこんだ広島との頂上決戦で、
金石から決勝二塁打を放ち日本一を決めたのです。

日本の投手に慣れてきた2年目は
期待できると思われましたが
開幕から調子が上がらず、森監督は
「清原が打てなくなったは五番の彼が
ヒドイからだ。使った俺が悪い、
助っ人だと思うから腹が立つ。だから
日本人だと思って使わないようにするよ。
1日でいいからヤクルトの助っ人ホーナーを
貸して欲しいね」
とメディアにぶちまけました。

チームはV3を達成するも自身は
打率2割4分4厘、14本塁打、46打点と
前年より成績を落としましたが
またしても大舞台で無類の強さを見せたのです。

王監督率いる巨人との日本シリーズ初戦、
四番に抜擢されますが4打席連続三振と
大ブレーキ、第2戦はスタメン落ちして
さすがにもう終わりかと思った第3戦で
崖っぷちの背番号24は現役最終登板となった
昭和の怪物、江川から右中間スタンドへ
先制アーチを叩き込みました。

連勝で勢いのついた西武ライオンズは
3勝2敗で迎えた第6戦、球史に残る
伝説の走塁のキッカケも金髪の助っ人から
始まります。

2回の攻撃、ブコビッチの大きなセンターフライで
2塁ランナーの清原は3塁にタッチアップ、
外野手のクロマティが緩慢なプレーをする間に
迷うことなく3塁を回り、一気にホームインしたばかりか、
8回にもツーアウト1塁から秋山のセンター前ヒットで
一塁走者の辻がホームまで還ってくるという
2つの好走塁で2年連続日本一に輝きました。

日本にドーム球場ができる前に来日し
秋山、清原とのクリーンナップを期待された助っ人は
「雨が多いとは聞いていたけど多すぎだね。
インディアンス時代、雨で中止になるのは年間3試合程度さ。
日本のように試合、雨、試合、雨だと調子が狂うよ、
まったく日本の天気はなんてクレージーなんだ」と
慣れない梅雨に悩まされながら、ここぞという時は
無類の勝負強さを発揮しましたが、シーズン終了後は
アメリカに帰国しタクシー運転手の仕事についています。

その名前のインパクトに独特のクラウチングスタイルで
子供達の人気者となり、ファコンソフト燃えろプロ野球では
名前が長すぎて表示できないと「Vコビ」として登場した
長髪ヒゲ面の助っ人は、当時一軍の外国人選手は郭泰源と
二人だけという状況に英語を話せる相手もおらず
無口な仏頂面(ぶっちょうづら)となっていきました。

しかし決勝打を打っても無愛想に表情を変える事なく
デーゲームでは反射防止のアイブラックを張り
口いっぱいに噛みタバコを入れ、バッターボックスで
ツバ吐く姿にメジャーリーガーの雰囲気を漂わせ
妙に格好良く思えたシリーズ男、ジョージ・ブコビッチ。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!