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【入来祐作】巨人ドラフト1位からチーム最多勝利にリーグトップ勝率 もっと高みを目指したいとメジャーに挑戦 自分には野球しかないと横浜の二軍用具係でもいいと野球に関わり続け、現場復帰を果たした不屈の右腕

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、入来祐作さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=HWp05eL5fTU&t=54s

宮崎県で自衛官の家に生まれ、兄の智と
同じ少年野球チームで野球を始めると
中学では投手として完全試合を3回、ノーヒットノーランを6回
成し遂げるなど、すでにその力を見せつけていました、

全国26校の高校から誘いを受ける中、PL学園に進学、
宮本慎也(みやもと しんや)、坪井智哉(つぼい ともちか)、
今岡誠(いまおか まこと)などプロ入り後も大活躍する
チームメイトとともに、汗を流すと、
卒業後は亜細亜大学のエースとして
後輩の井端 弘和らとともに
東都大学リーグで活躍しましたが、4年時に右肩を負傷してしまいます。

立正大学のエース
西口文也との投げ合いも
演じましたが、手術の影響もあり卒業後はプロでもなく
本田技研への入社を選択した2年目。

ケガも完治し、チームメイト大塚晶文との
2本柱で都市対抗野球でチームを優勝に導くと
1996年ドラフト会議で
読売ジャイアンツから1位指名を受けプロ入りを果たしました。

1997年、プロ1年目から即戦力として
セットアッパー、ストッパー、ロングリリーフ、
さらに先発もこなすなど、潜在能力の高さを示した
シーズン終了後、ハワイのウィンターリーグに参加した事で
メジャーリーグへの挑戦を夢見るようになります。

1998年、東京ドームで開かれた日米野球親善試合に先発、
メジャーの大砲サミー・ソーサを2打席連続三振にきって取り
ますます夢を膨らませていくと
1999年、兄がトレードで巨人に移籍してきたため、
球団史上初めて、現役選手として兄弟で同じチームに在籍したのでした。

2001年、ガルベスから教わったチェンジアップで投球に緩急を
付けられるようになると
前半戦で3連勝を含む8勝を挙げ、オールスターゲームにも初出場、
シーズン通してチーム最多の13勝と最高勝率をマークし
プロ入りから5年、巨人のエースと呼ばれるまでに成長しました。

その2年後にはメジャーリーグ挑戦を容認してくれる条件で
北海道日本ハムファイターズへ移籍。
2005年のシーズン終了後、2年総額2億円という日本ハムの
残留要請にもかかわらず、自分の夢を貫き通して
プロ10年目を迎えた33歳で海を渡りました。

ニューヨーク・メッツと独自に入団交渉を進めて
年俸8600万円で契約、3A(スリーエー)
ノーフォーク・タイズに所属する事が決まると
すぐに参加したスプリングキャンプで入来は驚愕します、

投球フォームがぎこちない名前も知らないような投手が
投げ込んでいたボールの力、コントロール、すべてが日本にやってくる
助っ人外国人投手とはレベルが違っていたのです。

アメリカの選手は好き勝手にやっているようなイメージでしたが、
結果を出したい、生き残りたいという強い思いで、
自分が良かれと思う練習をしていました。
納得すれば送りバントの練習もするし、
データによって極端な守備シフトを敷く事もありました。
と語っています。

シーズン終了後には正確なコントロールに磨きをかけようと
ベネズエラのウィンター・リーグも経験し、
トロント・ブルージェイズの入団テストを受けて合格。

A+(ワンエーアドバンス)のダニーディン・ブルージェイズで
初勝利を挙げると、2A(ツーエー)の
ニューハンプシャー・フィッシャーキャッツに昇格していきなり翌日に初先発。
6月20日には、3A(スリーエー)
シラキュース・スカイチーフスへ昇格、と、順調にメジャーへの階段を
登り始めた矢先、右腕の肉離れにより帰国を余儀なくされました。

帰国後、横浜ベイスターズの入団テストを受験して合格、
3年振りにNPB復帰を果たしましたが、度重なるケガにも泣かされ
10月1日に現役引退を表明、ユニフォームを脱いだのでした、

引退後、兄が飲食店に勤務し、野球界とは別の世界で
苦労していた姿をみて、自分は野球界で仕事がしたいと
毎日のように球団にコーチ就任希望の電話をかけていたところ
先輩の桑田真澄(くわた ますみ)から野球教室を手伝ってほしいと
声をかけられます。

野球教室終了後、これで1か月は生活できるか、と
白い封筒を手渡され、とにかく謙虚でいるんだぞ、と
言われた途端、その先輩の心遣いに、涙がとめどなく
あふれてきたのでした。

野球に関わっているために
巨人のドラ1(イチ)という過去の実績やプライドは
必要ないと横浜の打撃投手を1年間務めた後、
4年にわたって用具係を担当します。

練習で使った1500個のボールを毎日3時間かけて
次の練習のために綺麗にし、試合開始5時間前に球場へ
選手の荷物を運び込むと、試合中はゲーム展開をノートに記録、
終了後は、グラウンドの片づけや用具の修理、
ユニフォームのクリーニング手配まで、多くの雑務を
担っていました。

年収は20分の1になり、巨人のドラ1が可哀想に。という目で
見られた事もありますが、ユニフォームが着られて
野球に携われている事は、有難いとしか思いませんでした。

用具係をしていると、選手の性格がよく分かります。
三浦大輔投手は、ロッカーが非常にきれいで忘れ物もまったくない。
食事をとるときも栄養バランスを考えていて、こっちも
気が引き締まるんです、と、愚直に野球に向き合う入来に
2014年12月、突然転機が訪れます。

黙々と裏方の仕事をしている姿を見ていた
福岡ソフトバンクホークスの工藤監督から、
野球への情熱を選手に伝えて欲しいと、三軍投手コーチのオファーが
舞い込んだのです。

7年振りに現場復帰を果たすと翌年には二軍の投手コーチに。
2019年にはホークスの野球振興部へ移籍して、
小中学生を対象とした野球塾や新垣渚(あらかき なぎさ)や
帆足和幸(ほあし かずゆき)、柴原洋(しばはら ひろし)ら
とともに、
ホークスジュニアアカデミーのコーチを務めるなど
将来のプロ野球選手を育てるために尽力しました。

用具係での経験が選手の性格を見抜く助けになりました、
プロの野球選手として少しは成功し、いろんな経験もしたので
スター選手にも隅っこにいる選手にも、いろんな立ち位置で話が
出来ます、と
2021年からはオリックス・バファローズの
二軍投手コーチに就任、貴重な経験を
若い選手にいろんな形で伝えてほしいと期待されています。

コーチ就任を桑田に報告したところ、
自分が思うようにやりなさい。これからが勉強、
私も巨人にコーチとして復帰して、
楽しんで挑戦します、とアドバイスを受けたそうです。

アマチュア野球のエリート街道を歩み、ドラフト1位で巨人に入団、
契約金1億、最高年棒9000万円をもらい、オールスターゲームにも
選出された巨人のエース。

ときには外国人選手との乱闘も辞さない強気の
ケンカ投法で、躍動感あふれる投球フォームから繰り出す
浮かび上がるストレートと緩急を生かした投球により
最高勝率もマークした右腕は、2億円のオファーを蹴り
メジャーに挑戦。

引退後も何でもいいから野球に関わっていたいと
用具係として懸命に働き、
すべての働く人たちにエールを送りたいという
サントリーBOSSのテーマに合うとCMにも抜擢された
七転び八起きの野球人生、

倒れても倒れても持ち前の気迫で起き上がる
174センチの小柄な暴れん坊、入来祐作。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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