舞台降板に至った経緯詳細

2022年4月22日-25日の4日間、私は舞台に出演する予定でした。

しかし、4月19日の朝、私はその舞台からの降板を決めました。

これから、ここでその経緯を説明させていただきます。

今これを書いているのは、降板を決めてから2日ほど経った夜のことで、私はいまだ混乱のさなかにあります。だから、文章は整っていないかもしれないし、冷静でないかもしれないし、3日後にはちがう感情を抱いているかもしれません。

しかし、できるだけ素直で、なまの気持ちを記しておくことが、自分に対して、そしてなにより公演を応援してくださった皆様に対して、誠実な在り方だと思いました。

劇団員の方々はとてもよくしてくださったので、この記事を公開することにとても迷いました。
また、関係者の方々が傷つくことを考えると、本当に良いのだろうか、という気持ちが沸き上がります。

だけど、私のこの経験を記すことで、これから苦しい思いをする人を減らすことができるかもしれません。

長くまとまらない話ですが読んでいただけるととてもとても嬉しいです。

(本当に長いです。自分の話も多いです。目次があるので参考にしながら読み飛ばしてください。)


劇団と出会った経緯と、オーディションの様子

まず、私がその劇団の公演に出演することになった経緯を説明いたします。

私は3月末に、その劇団が主催する6月公演のオーディションに参加しました。
動機は、オーディションの募集掲示板にて、自分の感性に合うような演技スタイルや、演出家の華々しい経歴、劇団出身者による目覚ましい活躍が記載されており、芝居に個性もなくキャリアも浅い自分にとって大切な学びの場になるような気がしたからです。

オーディションは劇団が所有するアトリエで行われました。20人ほどの俳優が円を描くように座り、演出家がその真ん中に座っていました。

彼は、オーディションの開始時刻より前から、おそらく劇団員であろう女性に「そこじゃないだろう、馬鹿野郎」「そんなこともできないなんて、頭がおかしいんじゃないか」などと声を荒げていました。

また、20代後半に見えるオーディション参加の女優に、「あなたのような方は、他の子に比べて年が上だから、恋愛対象だ」などと話していました。

私は、すごく嫌な気持ちになりました。

いま思えば、この時点で「合わない」と感じたのだから、出演しない選択を取るべきでした。

しかし、演出家の歯に衣着せぬ物言いと、社会に対する鋭い洞察、お芝居に対する情熱に惹かれる自分がいました。

また、俳優として成長できるチャンスだと思ったこと、そしてなによりも、目の前のオーディションに合格することに必死で、出演者の候補になったことを単純に喜びました。
私は、自分の信じていた正義や学んできたことを無視し、目先の成功を優先しました。

オーディションが終わった後、6月公演の他に、4月にも2人芝居を企画しており、その参加者を探している、長野で稽古合宿も予定している、という話を聞きました。

長野での稽古合宿が自分にとって心から魅力的だったので、4月の公演にも参加したい旨を伝えました。

(5月に出演予定の作品があり稽古期間がかぶっていた為、6月の公演は後に出演を辞退しました。)

こうして、私は4月公演に出演すること、そしてその公演に向けた10日間の長野合宿に参加することが決まりました。

後に、ダブルキャスト・2人芝居で行われる予定だった公演が2人の劇団員と私の、3人芝居で行われることが決定した、と連絡が来ました。(理由は不明です。)

つまり、長野の合宿に参加する中で、私だけが劇団員ではありませんでした。

長野合宿の始まり

ここからは、長野合宿での出来事を記します。

4月11日の早朝、東京から長野駅にバスで向かいました。

長野駅には、先に長野入りしていた演出家が迎えに来てくれていました。

後のバスで到着予定だった劇団員の方を待つ間、演出家と2人きりで散歩し、話をしました。
この時、彼は様々な話をしてくれました。傲慢で努力を怠る若者であった私を真正面から批判し、一流の俳優にはきっとなれないだろう、と伝えてくれました。

私は、これがとても嬉しかったのです。
自分の愚かさを心から恥じましたが、言葉が制限されるいまの社会で、ここまで痛烈に私を批判し、努力をするよう駆り立ててくれた彼を素直に尊敬し、目いっぱい学びたい、と感じました。

彼の理想が目指す通り、その夜から始まった稽古は厳しく、私のちっぽけな自信や経験は粉々になりました。
最初のセリフを3文字読んだところでダメ出しが入り、3行のモノローグを読むだけで3時間の時間を要しました。

その経験は私にとって苦しく、打ちひしがれるものでしたが、同時に感謝と期待もありました。私はこんなにも演技ができていないんだ、でもここで学ぶことができれば、少しでも上達することができるかもしれない、そう思いました。

稽古は朝から夜までありましたが、稽古の合間に劇団員の方と料理をしたり、天然温泉や水芭蕉の観察に連れて行ってもらいました。

皆さまとても純粋で、心優しく、なによりもお芝居への情熱にあふれていました。
演出家への信頼も厚く、私の芝居のレベルは圧倒的に劣りましたが、その一員として共に稽古ができることが幸せでした。

俳優の体づくり(楽器と呼びます)の為の稽古中、演出家が体を触ることがありました。
五感を解放し、感受性を豊かにするため、ビキニゾーン(胸や、性器など)に頻繁に触れました。

私は、その時、この行為を不快に感じませんでした。

なぜなら、その接触が本当に体づくりに有効だと感じたから、また彼は不純な動機で体に触れているわけではなく、楽器ができていない自分の為に手を貸してくれている、と理解したからです。

(今思えば、これを不快だと思わなかったのは、不快だと思わないようにしよう、と自分を納得させていたのかも、と感じることもあります。
劇団員の方に比べて自分は楽器ができていないくせに、体に触れられるのを拒否するなんて覚悟もやる気もない奴だと思われるのではないか、そう無意識に思ったところもあったような気がします。いや、これは今だから言える後付けでしょうか?私にはまだわかりません。)

とにかく、その時は体に触れられることを不快に感じませんでした。

日々の稽古は本当に厳しいものでした。
ひとつ台詞を言うたびに芝居を否定され、人格や経歴を馬鹿にされました。
ひとつのシーンさえ中断ばかりでやり切ることができず、ストレスと焦りが蓄積していました。

これは、自分の芝居が彼の水準に満たないからであり、仕方がないことだと思っていました。俳優を追い込むのは、良い芝居をお客様に見ていただくためであり、それだけ彼も本気で指導してくれていました。
(俳優を追い込むことに関しては賛否両論ありますが、少なくともその時の私は必要だと感じていました。)

しかしながら、閉鎖的な空間で毎日罵倒されていると、徐々に彼に認めてもらうことだけを考えるようになる自分がいました。

自分は楽しいと思えないけれど、できているとも思えないけれど、とにかく彼が良いと言うように、怒られないように…

そんな風に、恐る恐るお芝居をやるようになりました。


二人きりの部屋で起こったこと

ある日、どうにもシーンの空気を作り出すことができない私のことを見かねて、演出家が「もっとわかりやすい脚本から始めてみよう」と提案してくれました。

彼は劇団員2人に自主稽古をするように言い、私には彼の部屋へ来るように言いました。

私はとにかく早くなにか掴まなければ…と、藁にもすがる思いで彼の部屋に行きました。

その「わかりやすい脚本」では、私と彼が夫婦の役という設定でした。 

部屋のふすまを閉じ、ゆっくりとその本を読みながら、彼はレペテーションの仕組みや重要さなどについて教えてくれました。

読み合わせを行いながら、彼は私の太ももや、胸に触れました。

その接触も、演技に関する理由がありましたが、私はよく覚えていません。

ときどき、肩をほぐしてくれたり、姿勢が悪いことを指摘してくれたので、すべては指導なんだ、と思い込もうとしました。

彼が、私を膝の上に引き上げ、キスをしようとしました。私は初めて拒みました。手を自分の唇の前にかざし、俯きました。

こんな時でも、いやです、やめてください、とは言えませんでした。
芝居に本気じゃない奴だ、と幻滅されるのがなにより恐怖でした。

自分の唇の前にかざした私の手を、彼は払いのけ、キスをしました。
私はすぐに顔を背け、とにかく最後まで台本を読むことに集中しました。

読み終えて、お礼を言いました。

丁寧に教えてくださりありがとうございますと、お礼を言ったのです。

私には怒って部屋を出ていく度胸なんてありませんでした。
起こったことと向き合い、反復して消化する勇気もなく、深く考えないようにしました。

次の日も、朝から2人きりで同じ脚本を読むことになりました。
「もう少しで掴めそうだから」と言われ、断ることができませんでした。

2回目のその部屋のことを、あまり鮮明に覚えていません。
1回目は、それなりに集中して台本を読めたのですが、2回目はほとんど集中できず、脚本に寄り添うことも、感情の昂りを感じることもできませんでした。

早い段階で、後ずさりし顔を背けたにも関わらず引き寄せられ、一瞬舌を入れられた感触を覚えています。

その後も体を触られたり、押し倒されて脚を掴み、広げられたりしました。
恐怖を感じましたが、何も言うことができなかったので、黙って後ずさりしました。

読み合わせが終わった後、また私はお礼を言って部屋を出ました。

お礼を言ったことをとても後悔しています。
のちに、舞台を降板したい、と言った時、演出家から「この部屋で起こったことに感謝してたじゃないか」と言われたのです。

お礼なんて言わなければよかった。
悔しい。

その部屋を出た後は、全体稽古が続きました。

随分良くなった、と言われたけれどまだまだ彼の理想には届かず、私の困惑と焦燥はピークでした。



降板という選択肢がなかった

次の日の夜、私を元々の役(主役のうちの1人)から降板させ、新たな劇団員の人を充てることに決めた、と演出家に告げられました。

私は別の役を与えられました。
何週間も前からセリフを覚え、稽古していたものが、本番4日前に変更になったのです。

これは私の演技の問題だし、仕方ない。

そう自分に言い聞かせました。
実際私の演技は見るに堪えないものだったのだと思います。
やりながら、「これならOKと言われるかな?」ということばかり考えていました。

だけど心の中は複雑にぐるぐる回っていました。

あの部屋で起こったことを考えると、私はただ消費されにきたのではないか。

どうしても何か掴みたくて、その役をやりたくて、耐えてきたのに、その結果がこれか。。

そのようなことが頭を巡り、新しいセリフを覚えようにも、稽古に集中しようにも、涙が勝手に出てくるようになりました。

どうしても集中できない、誰かに話を聞いてほしい、と思いました。

劇団員の方に、演出家についてどう感じているのか遠回しに尋ねました。

もう何度も劇団を出たいと思っている。2回殴られて、唇の形が変わった。次に殴られたら出る。でも彼が言っていることは正しい。あなたも役が変わって悔しい思いをしているかもしれないけれど、彼が言うように自己憐憫に陥るのは俳優として良くない。
嫌なことはやめて、と言えばいいのよ。

そのようなことを言ってくれました。

(要約して強烈なところだけ切り取ってしまいましたが、劇団員でない私に真摯に寄り添ってくれました。)

別の劇団員の方にも話してみました。

ここでも、
「性的な接触はたしかに過去にもあったようだけれど、嫌なことは嫌だ、と言えば彼はしない」と言われました。

でも、私は確かに抵抗しました。
それに、演出家とのパワーバランスがある閉鎖的な環境の中で、一体何人の俳優が「いやだ、やめてください」と言えるでしょうか。

今私はそう思えますが、その時は精神的•肉体的に弱っていて、自分を責めることしかできませんでした。

その劇団では過去の舞台でも演出家にセクハラを受けたと、俳優たちが降板しているそうです。

4名の劇団員はすべて女性で、恐らく彼女たちもなんらかの接触を受けたのではないかと私は感じていますが、劇団内にはそれを受け入れ乗り越えてきたからこそ芝居が上手、という雰囲気がありました。

こんなことで弱るなんてダメなやつだ、と思われるのを私は恐れました。

その夜中、どうしても眠れなくて、合宿所の外で東京にいるパートナーに電話しました。

体を触られたりキスをされたこと、役を降りることになったこと、はやく公演が終わってほしい、あと3日だからがんばる、というようなことを泣きながら話しました。

すべてを聞いたパートナーは、怒りと驚きの混ざった声で

「え?続けるの?」

と言いました。

一刻も早くそんな場所から離れろ、それがパートナーの主張でした。
私の中には降板の選択肢がなく、そんな無責任なことを言ってのけるパートナーに最初は苛立ちました。

私は、その劇団の空気感に絡め取られ、性的に消費されたことも役を降りることになったのもすべて芝居が下手な自分の責任、舞台を完成させるまではやめられない、と思い込んでいました。

パートナーは、その私の頑なな姿勢に心から不安を覚えたようでした。

何故なら、私は大学時代からジェンダーの問題に熱心に取り組んできた過去があったからです。
学生団体を立ち上げたり、ニューヨークに留学してジェンダー論を勉強しました。

世の中の女性蔑視の問題に言及してきた私が、この状況を受け入れ舞台をやり切ろうとしている姿に、「いつもとちがう」という危機感を覚えたのだと思います。

実際、その時の私はずいぶん参っていた気がします。

つらいけれど誰にもそれを言うことができず、どうしたらいいかわからないので、感情が塞がり、いつも通り笑えない、急に涙が出てくる、吐き気が続いて吐く、といった状態でした。

パートナーは、ふさぎこんだ私が自らアクションを起こすことは難しいだろうと感じたようです。
劇団員の方の1人にTwitterのDMを通して連絡してくれました。

私の今の状態や、私を降板させてほしい、演出家に接触することなく合宿所を送り出してほしい、といった旨のメッセージでした。

次の日の早朝、DMを受け取った劇団員の方がこっそりと私のところに来て、「こちらから降板です、というのはお互いにとって良くないと思うから、あなたがどうしたいか決めてほしい。」と言ってくれました。

私はその時点でもとても迷いました。

投げ出すことが、あまりにも無責任であるように感じました。

そのとき思い浮かんだのは、パートナーの言葉です。

「自分の大切な人がその環境にいたらすぐに抜け出してって思うでしょう。だからあなたも抜け出してほしいです。」

私の大切な妹や、社会で暮らしている親友、他の俳優のことを思いました。

もし彼ら•彼女たちが私のような立場にいたら、一刻も早くその場から立ち去って欲しいと願うでしょう。

そんな状況に加担するべきではない。
演出家と本番を共にしたい、お客様にお金を出して見てほしい、と思えない。

そう感じ、降板しますとやっとのことで伝えました。

本番3日前の朝でした。



降板を伝える。その反応

「あなたの決断を誰も咎めないから自分を責めないでね。このような状況になるまでなにもできなくてごめんなさい」と劇団員の方は言ってくれました。

パートナーは「演出家に接触することなく送り出してほしい」と提案していましたが、それでは逃げ出したという記憶が一生残りそうな気がしました。

出て行く前に、演出家と話をしようと思いました。

部屋の荷物をまとめて玄関に向かう途中で、彼が私を見つけ、

「出ていくんか」と訊ねました。

「あなたのことを演出家として尊敬できなくなりました。共に舞台を作りたいと思えないので、降板させていただきます。」と私は言いました。

なぜ尊敬できないのか聞かれたので、拒んだにも関わらず体を触られたことなどを話しました。

すると彼は、呆れた、というふうに両手を上にあげ、すこし笑いながら、
「自分の芝居がうまくいかへんから、セクハラを理由に出ていくんちゃうの?」と言いました。

私は悔しくて悔しくて、降板を決めて良かった、と心から思いました。
怒りが静かに溢れてきて、目を閉じると涙が出てきました。

「嫌なことは嫌って言ったらやらへんやんか」

「じゃああなたは、私が拒んだにも関わらずキスをしたり、舌を入れたことを覚えてないのですか」

「覚えてない」

私は「迷惑をかけて申し訳ありません。よくしてくださりありがとうございました。」と劇団員の方々に頭を下げ、玄関を出ました。

「守ってあげられなくてごめんね」と言ってくださった方がいました。

歩いて帰ろうとすると、演出家に最寄りの駅まで送ると言われ、私は車に乗りました。

このようなことが起こった後でも、私は彼のことを心から憎むことができませんでした。
おいしいものを食べたときに喜んでいたり、車酔いする私を気遣ってゆっくりとハンドルを切ってくれたことなどを思い出しました。

車内で「性的な接触はお前からしたことで、感謝していたじゃないか」と言われました。

たぶん彼は、本当に覚えてないのだと思います。

こういうことは、した側にとってはなんでもないことなのでしょう。
彼にとって今も私は、芝居ができないくせに「セクハラ」を理由に逃げ出した根性のない役者です。

「こういうのは、すべて終わるまで待ってみるもんや。公演を最後までやって、それでやっぱり嫌やったと言えばええ。そしたらそれで縁がなかったということで、終わりや。途中でやめるなんて。」

彼が車内で言っていたことです。私はそれでまた揺らぎました。私の選択は正しいのだろうか、彼の言う通りではないか、と。

後になって思うことなのですが、降板を「逃げ出すことだ」とおもうこと自体が、ある種思考を操作された結果であった気がします。普段の私だったら、きっと「なにを言っているんだ」と怒っていたと思うのです。
閉じられた閉鎖的な空間で、パワーバランスが上の人の話を継続的に聞いていた為、「きっとこの人の言うことはすべて正しいんだ」という気持ちになってしまっていました。

しかしやはり「この状況に加担したくない。私の友人を守るように私を守りたい」と思い直し、降板に後悔はないことを伝えました。

駅に着き、彼は「そうか、縁がなくて残念だった。悪かったな。」と言い、去りました。


その後

東京に帰った後、劇団員の方からお詫びと、降板の理由は伏せる、また舞台自体は面白いと思うからよければ私のお客様にも舞台を見てもらえるよう話してほしい、というLINEが届きました。

劇団のツイートでは、「いろいろなことがあったからか、より逞しくなったように思います。本番まであと少し!」といった内容の投稿がされていました。

私が苦しみ、悩んだことが、劇団が成長するためのひとつの経験として消費されているような気がして、悲しくなりました。

いつまでも謝罪してほしいわけではありません。

しかし、そのようなことが起こったあと、劇団の中で、公演を行うべきかどうか、ということや、今後の対策に関する話し合いはなされたのでしょうか。
(直接訊ねていない私にも問題がありますが)

彼らは、また新たにオーディションを行っています。

私には、状況に疑問を呈し、怒ってくれるがいパートナーがいて、学生時代はジェンダーを学んで、という環境的な支えがありました。

しかしそのような支えのない俳優が、同じ状況に陥った時に心と身体を守ることができるのでしょうか。

とても難しいのではないでしょうか。

そのことを思うと、やりきれない気持ちになるのです。

先に書いたように、私はいまだに、演出家を心から憎むことができません。
彼に、私をいじめてやろう、嫌な思いをさせてやろう、という悪質な気持ちがあったようには思えないからです。

また、劇団員の方々が良くしてくれたことを思うと、このような記事を書くことをとても申し訳なく思います。

だけど、そういう複雑な気持ちがあるせいで、性被害について話すことができない人がこの社会にたくさんいると思うのです。
そういった方たちに、自分を責めてほしくないです。

それに、悪質な気持ちがないからと言って、していい行為ではなかったはずです。
弱者に対して強者の立場にある人間は、その立場を理解し、自分の行動がもたらす影響について考えるべきです。

セクハラやパワハラは自分には関係ない、自分のコミュ二ケーションが通用しないややこしい時代だ、と一蹴する前に、自分が加害者になる可能性があることを意識していてほしいです。


長々と書いてきました。

もしここまで読んでくださった方がいたら、本当にありがとうございました。

この記事が、傷ついた誰かに少しでも寄り添うことができていれば本当によいことだなぁと思います。
私は長野の合宿所で、毎晩こういう記事を探していました。誰か「この状況はおかしい」と言ってくれないだろうか、と。

このように詳細を書き起こすことで、すくなくとも自分自身はずいぶん向き合うことができたような気がします。

あなたもまた、誰かに話すことが助けになるようならば、私や周りの人に話してみてほしいです。
私はSNSの返信が遅いですが、必ず返信します。

これで終わります。

読んでくださりありがとうございます。


※【以下追記しました】5月8日
Twitterにて非常に多くの反応をいただきました。苦しんでいる方がいらっしゃったら、以下の投稿の引用リツイート等をご覧になってみるのも良いかもしれません。連帯の声が多く、私自身大変勇気づけられました。皆さま、本当にありがとうございます。
https://mobile.twitter.com/rukahiroe/status/1522970661307641856

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