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【小説】逃走 (全編収録版)

松浦照葉のミステリー処女作である「逃走」の全話収録バージョンです。
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☆ ☆ ☆

ハイビーム

 今日も残業で遅くなってしまった。早く帰ろうと、駐車場まで急ぎ足で歩き、愛車シルビアのドアを開けた。ジャケットを後部座席に放り込んで、運転席に乗り込み、ドアを閉めると、疲れた目を労るようにしばらく目を閉じて上を向いていた。9月も終わりの頃であり、疲れた体にとって、車内は心地いい温度になっている。一人で落ち着ける空間だ。長袖のポロシャツでいるのがとても心地いい。おもむろにその日の課題点を反芻してみる。なぜ、だめだったのか。なぜ、繋がるべきデータが消えてしまったのか。いや、データが消えるはずはない。どこかに隠れているはずだ。しかし、データベースにもプロセスにも思い当たることがない。少なくとも今日はなんとかなると思っていたのに。

 丈史はシステム開発のエンジニアである。現在、チームで作り込んだシステムの最終テスト段階だ。チームリーダーである丈史は、なんとしても問題なくスケジュール通りにテストを終了させたい。しかし、問題が連日発生。自分を責める日々が続いていた。

 健全な社員を育成する環境を支援するために、会社にいる時間は夜十時までとなっている。それ以降は照明もエアコンも消されて真っ暗になる。いやがおうにも夜十時までには退社しなければならない。しかしながら、テストはうまくいかないし、引っ掛かるところもある。もう少し残って追求したいが、屈強な守衛が見回りに来て追い出されてしまう。普段は電車通勤なのだが、帰る時間が遅くなりそうな時はシルビアで出勤し電車の心配をしないで済むようにしている。都内なら電車でも余裕で帰れる時間なのだが、ここは人里離れた場所の小高い丘の上に建てられた研究所だ。最寄り駅までは専用シャトルバスが運行しているが、満員のバスが丈史は好きではない。なので、時折、シルビアで通勤しているのだ。最近はほぼ毎日そんな状態が続いている。

 課題点を何度確認しても、やはり解決策には至らない。データが紛失する原因が思い当たらないのだ。仕方なくその日は帰ることにした。シルビアのイグニッション・キーを挿して回す。ヴオンという音とともに、心地よいエンジン音が響き渡る。この音を聞くと丈史はホッとする。駐車場の薄灯りの中でハロゲンのヘッドライトを点けハイビームにする。いつもの通勤路。問題なく帰れるだろうと考えていた。

 いつもの道は山越えの道で結構ワインディング・ロードでもある。そして、その日はタイミングが悪いことに側溝の工事がされていたので、車道の左側は工事中の溝のままの箇所があちこちにあった。途中にあるトンネルに向かって右カーブになっている道も工事中だった。ちょうどそのトンネルに差し掛かろうとした時、トンネルを抜けてきた対向車がこちらに向かってくる。こんな時間に珍しいなと思いながらも、少しその車に違和感を感じた。こちらからは右カーブのところである。直感的にこちらに向かってくるハイビームがやばいと感じた。左に寄せて止まるつもりが、側溝の工事中で左によることができない。仕方ないなと思い、その場所で停車した。

 そのまま通り過ぎるだろうと思っていた対向車は、そのハイビームをこちらに向けたまま真っ直ぐにやってきた。ハンドルを切って曲がろうとはしているみたいだが、スピードが出過ぎている。丈史の車はすでに停車しているので逃げようがない。ジッとハイビームの行方を見ていると、なんということか曲がりきれなくなって、そのままこちらに向かってきた。丈史が「うわっ」と思わず声を上げた瞬間、ドンという鈍い音。運転席の窓ガラスは粉々に割れ、まるでシャワーの水のように丈史の体に降り注いだ。対向車はそのまま突っ込んできて運転席のドアに鋭角にぶつかったのだ。カーブだったので直角に衝突することは避けられたものの衝撃は強かった。危うく側溝に車輪が落ちてしまうところだった。

 丈史は、瞬間的に右側のバックミラーを確認した。今ぶつかった車の赤いテールランプが遠ざかっていくのが見える。「まずい」何としても今押さえておかないと泣き寝入りになると思い、運転席の窓ガラスの破片シャワーを浴びたままで、Uターンして追跡を開始した。

 Uターンした瞬間にぶつかった車は視界から消えていた。しかし、今丈史が走ってきたその道は一本道だ。迷わずアクセルを踏んだ。3キロメートル程度走った挙句、丈史はぶつかってきた車に追いつき、すかさず追い越した。追い越し様にその車の右側のウィンカーが壊れているのが確認できた。「間違いない。この車だ」そして、その車の前でブレーキを3回軽く踏みテールランプを点滅させ、ハンドルを左に切ると同時にサイドブレーキを引き、華麗なスピンをして道路を塞ぐように停車した。その車は進路を遮られ仕方なく停車した。しかし運転者が出てこない。

 丈史は自分の車を降り、一歩ずつ、そして確実に、シルビアにぶつかってきた憎き車に向かって歩いていく。正面を避けて近づき、ハイビームのまま止まっていたその車の眩しさから逃れると車種がわかった。ベンツだ。一瞬丈史の脳裏に「もしかしたら、やばいのか」という思いがよぎった。しかし、もう引き返せない。大切なシルビアのドアは凹み、窓ガラスは粉々になっているのだ。何としても元に戻させてやらなければシルビアが可哀想である。

 ベンツの前方右のウインカーが壊れているのを再確認しながら右サイドに回りこみ、サイドの窓ガラスをノックする。返事がない。もう一度ノックする。やはり返事がない。覗き込んで見る。

「誰も乗っていない。そんなバカな」


電話ボックス

 車に誰も乗っていないなんて、そんなことがあるわけがない。自動運転なんて存在しないし、ベンツもちょっと古い型のように見える。もっとよく覗き込んでみる。街灯もないところなので車内がよく見えない。しかし、目を凝らしてみてみると、何とハンドルもない。そんなバカな。ハンドルがない車なんてこの時代にあるわけがない。まさか地球のものじゃないとかと言う話でもあるまいし。丈史はちょっと気持ちが悪くなりながらも、持ち前の分析力で頭をフル回転させた。絶対に何かある。トリックにしても何かある。現実としてハンドルがない訳が無い。丈史は心の中で事実を何回も見つめ直して考えた。可能性があることはなんだ。

 時は1980年、まだ昭和の時代である。SUICAすら出回っていない。電車に乗る時は切符を買うか回数券を買っていた時代だ。車はハイブリッドもなければまして電気自動車も登場していない。もちろん携帯電話も普及していない時代だ。もっぱらの連絡手段は、自宅の固定電話と公衆電話のやりとりかポケベルだった。そんな時代にハンドルのない車なんて存在すらしていない。

 丈史は、もう一度よく考えてみた。「待てよ、もしかしたら。。。」ふと思い当たることがあった。そしてベンツの左サイドに回った。窓をノックした。窓ガラスが降りて男が顔を出した。至って普通の人に見えたので丈史は心の中でホッとしていた。ハンドルも付いている。何と左ハンドルのベンツというだけの事だった。この男は、右側の窓をノックして覗き込んでいる丈史を左側からそっと見ていたのだった。丈史は勢いをつけて降りてきたことが恥ずかしくなったが、話をして前に進まなければならない。恥ずかしさを堪えて、ムッとした顔で男に話しかけた。

「何をやっているんですか。ぶつかっておいて逃げるんですか」
「・・・」
「免許証を見せてくれますか」
「・・・」

 男は無言のまま、黒いクラッチバッグから免許証を取り出して、窓越しに丈史に差し出した。丈史は、免許証を半分奪い取るかのようにして、点灯したままになっているベンツのヘッドライトの明かりのところまで移動して、免許証を一旦確認してみた。免許証上の名前は多可木光流となっており、住所もどうやら近くのようだ。丈史は免許証を奪うことに成功したので、一安心して話を続けるために窓のそばに戻った。

「とりあえず、降りてくださいよ。そこから」
「・・・」
「免許証も確認したので諦めてください。警察に連絡して来てもらいましょう」
「警察は勘弁してほしい。。」男がやっと口を開いた。
「いやいや、そうはいかないでしょう。これだけぶつけておいて」
「じゃあ、この車をあげるから、それで無かったことにしてくれないかな」
「バカなことを言ってないで、早く降りてきてください」

 とんでもないことを言うやつだなと内心思いながら、車のそばでしばらく待っていると、多可木という男は渋々とエンジンを切ってベンツから降りてきた。スーツを纏ったごく普通のビジネスマンのおじさんといった出立ちだったので丈史は再度安心した。しかも、すごくおとなしい感じがするおじさんだった。なぜ逃げたのかと何度追及しても何も言わず下を向いているだけだ。さすがにこれじゃ話にならないと思い、早く警察に連絡した方がいいと丈史は判断した。

「近くに公衆電話があったはずなので、警察に電話をしてきます。一緒に電話を掛けに来ますか」
「いや、ここで待ってます」うつ伏せがちに返事をしてきた。どうも胡散臭い。
「分かりました。では待っててください。一応、車のキーも渡してください」
「どうぞ」男は素直にベンツのキーを渡してくれた。

 初めて手にすることになったベンツのキーを握りしめて丈史は歩き出した。ちょっと少し先のカーブを曲がったところに公衆電話があるのを知っていたので、丈史は車をそのままにして5分ほど歩いて公衆電話ボックスまでいった。夜も遅いし山越えの道なので他の車が通らないのが幸いだった。もちろん、三角板を開いて車から離れた目立つところに置いてある。電話ボックスに入ると無料で利用できる110番をダイヤルした。車に追突されたので至急きてほしいということと怪我人はいない旨と現在位置を伝えると、多可木という男のところに戻って行った。警察にも連絡したので、あとは待つだけだと思っていたら、男が話しかけてきた。

「すみません。私も電話を掛けてきます」男は丈史に言った。
「あぁ、どうぞ。あのカーブを曲がった先にありますよ」

 男は電話を掛けに俯いたまま歩いて行った。男からは微かにではあるがアルコールの匂いがしているような気がした。それであんなに喋らなかったのかな。喋る時もうつむいていたのはそのせいかな。免許の点数が残り少ないのかもしれないな、もしかすると。などと思いながら男が戻ってくるのを待っていた。

 警察が来るまでには早くても20分ぐらいはかかるだろうから、男も電話を終えて戻ってきているだろうと思った。しかし、なかなか戻ってこない。長い電話だなと思いながら待っていたが、いよいよ痺れを切らして電話ボックスまで確認に行くことにした。カーブを曲がって、ポツンとある電話ボックスの明かりが見える。周りは真っ暗闇である。ただ、そこには人の気配が全く無かった。

「えっ、誰もいない。そんなバカな」

現場検証

 程なくして、警察がやってきた。パトカー一台で警官二人。まぁ、夜中だから仕方ないのだろう。しかも山越えの小さな道なので。丈史の勤めている研究所が有る町の警察署からやって来たらしい。この山道が管轄内にあるのだろう。

 ベンツが止まっている前に覆いかぶさるように丈史のシルビアが止まっている。しかもシルビアの運転席側の窓が割れドアは凹んでいる。衝突にしては位置関係がおかしい。

 到着した警官は止まっている車一台の位置関係を不思議そうに眺めながら、丈史に問いかけてきた。

「あなたがぶつけられたクルマの運転者さんですか」
「ええ、そうです。運転席の右側に思いっきりぶつけられました」
「ぶつけたクルマの運転者さんはどこですか」
「それが、、、消えました」
「はっ、消えた? どういうことですか」訝しそうに警官は聞いてきた。
「警察に連絡するために、向こう側にある電話ボックスに行って帰ったきたら、多可木さんも電話したいと言って電話ボックスに行ったんですよ。でもそれっきりで、消えちゃいました」
「多可木さんとは誰のことですか?」
「ああ、実はぶつけた人の免許証を持っているんです。あと、クルマのキーも」
「奪い取ったのですか」
「違いますよ、やっと捕まえたのでもう逃げられないようにと思い、渡してもらったんです」
「捕まえたとはどういうことですか?」
「あっ、肝心なことを話してませんでしたね。ぶつけられたのはここではなく、もっと先の方だったんですよ。ぶつかった後、ベンツが走り去るのが見えたので、このままではまずいと思ってUターンして追いかけたんです。で、ここで追いついたので、追い越して道を塞ぎました」
「うわっ、まるで映画のようなことをやってのけたわけですね。分かりました。では、まず車を左端に寄せてもらえますか。ベンツはこちらで動かすのでキーをください」

 とりあえず、二台の車は道路の左側に寄せられ、車が通れる状態にした。そこには一人見張り役として警官が残り、丈史ともう一人の警官で事故があった場所に戻って検証することになった。丈史はパトカーに乗り込み、ぶつけられた場所まで誘導していく途中、抑えようのない怒りを込めながら運転している警官に事故の状況を説明した。警官も半ば呆れているようだった。そして事故現場に到着した。

「あっ、あそこ。あのトンネルの手前のカーブのところで、ぶつけられたんです」
「分かりました。確認してくるのでこのまま待っていてください」

 警官は、現場でライトをつけながら事故の痕跡を確認していた。ウインカーの破片や窓ガラスの破片が落ちているはずである。程なくして警官は戻ってきた。

「確かにぶつかった形跡がありますね。で、ここから追いかけたわけですね」
「そうです。あっ、でもスピード違反はしてませんよ」
「まぁ、今回はその確認のしようがないですね。ではここから先程のところまでの距離を計測しますのでさっきの所へ戻りましょう」

 パトカーは、距離計をリセットして先程停車した場所まで戻った。戻りながら、逃げられていたら見つけるのが困難になっていたかもしれないと言われ、やっぱり追いかけて正解だったんだなと丈史は思った。そう思うとちょっと得意気な顔になっている自分を意識した。そうしているうちに、車を止めた場所まで戻ってきた、追跡した距離は、3.5キロメートルだった。結構な距離だ。追い付かなければ車種すらわからなかったはずだ。

 車を止めた場所に戻り、事故現場で拾ってきたウインカーの破片らしきものを警官が確認していた。一致した。やはり間違いはなかったようである。また、丈史の愛車のシルビアの窓ガラスの破片も確認され、間違いないと判断された。しかし、肝心の加害者が消えたままである。果たしてこの後どうするのだろうか。

 警官が二人で相談した後、丈史のところにやってきて、今後のことを説明し始めた。ちょっと申し訳なさそうに。

「大変申し訳ないのですが、一旦車を警察に預けていただけますか。加害者がいない状況なので、両方の車を一旦警察で預かり、再度細部まで確認して立件しようと思います。ついては、夜分で申し訳ありませんが、これから我々の警察署までご同行願って調書作成にご協力していただけますすか?」
「これからって、今からってことですよね。もう午後十一時過ぎてますけど」
「はい、加害者が不在なものですから、そうさせて頂きたいと思います」
「分かりました。では、どうすればいいですか」
「はい、ベンツの方は我々が運転していきますので、ご自身の車を運転してパトカーの後からついてきてもらえますか」
「分かりました」とんだことになってしまったもんだと心の中で呟いた。

 丈史は自分の車に乗り込み、砕けて無くなった運転席の窓を恨めしく眺めた後、エンジンを掛け、車を動かし、パトカーの後ろについた。ベンツは丈史の後ろについている。サンドイッチ状態で、まるで自分が捕まったような感覚に陥って気分が悪かった。丈史の勤務先の近くの警察署に到着し、駐車場にベンツとともに仲良く並べて駐車した。そして、もう日付が変わろうとしている頃に、署内の部屋に通され調書作成の運びとなった。ありがたいことに温かいお茶が出てきた。

「近くにお知り合いはいらっしゃいますか 今日は交通手段がないので帰れないと思いますので、お知り合いがいれば連絡をしておいてもらったほうがいいと思いまのす。申し訳ないのですが、パトカーでご自宅まで送ることは規定上できないんですよ」
「えっ、そんな。。。では、電話を貸してください」
「分かりました。こちらの電話をお使いください」

 丈史はまるで自分が加害者であるような錯覚に陥り始めていた。あのおじさんが消えてしまったばかりに、こんな目に合うことになってしまったと思うと怒り心頭であった。

「先輩に電話するしかないなぁ、断られたらどうしよう。まさかね」

調書

 丈史は、踏んだり蹴ったりの状況に半ば呆れ果てながら、そして恐る恐るダイヤルを回した。近くに先輩夫婦のマンションがあるのだ。ただ、普段はよく怒鳴る先輩なのでちょっと怖い。しかもこんな夜更けで電話越しなんて最悪だと思いながらも早口で話し始めた。

「あっ先輩ですか こんな夜中にすみません。丈史です。実は今警察署にいまして、こ、、」説明しようとしたら遮られた。
「何、何をやらかしたんだ。逮捕されたのか?」
「先輩、先輩、違いますよ。交通事故です。僕は追突されたんですよ」
「ん、あっそうか、警察にいるということは怪我はないんだな。よかったよかった。で、なんで電話してきたんだ、こんな時間に。明日の朝でもよかったのに」
「先輩、そうじゃなくて、これから調書作成するんですが、終わったら帰れないので一晩泊めて欲しいんですよ。本当に夜分で申し訳ないんですけど」
「ん、調書?なんで?」
「ぶつかってきた車の運転者がいなくなったんですよ。車を置いて逃げちゃったんです。それでこうなりました」
「えー、何それ。逃げるってことあるのか。しかも車置いて。信じられないな。そう言うことなら仕方ないな。オーケー、いいよ。だけど大変だな」
「あのー、奥様は大丈夫ですか? こんな遅くに押しかけても」
「大丈夫だよ。ちゃんと言っとくから。で、何時ごろ迎えに行けばいいんだ」
「多分、あと一時間ぐらいで解放されると思います」
「よしわかった、じゃあ、午前一時頃に警察署の駐車場で待ってる。飲んでなくてよかったぞ。帰ったらビールでも飲もう」
「ありがとうございます。助かりました」

 警官には、先輩に迎えに来てもらうことになったから、午前一時までには終わるようにお願いして、調書作成が始まった。ちょっと緊張する。

 事故現場の簡単な地図が描かれ、相手の車がぶつかってくると言うのを感じた時から衝突までのこと、そして相手がそのまま走り去って、そこから3.5キロメートル追跡し、車を停車させたことを順を追って話をし、それを警官が書き留めていった。この内容は、加害者からも調書をとって確認するのだそうだ。本来なら、両者立ち合いで現場確認が実施されるのでこんな面倒にはならないらしい。

 最後に一つ気になることを伝えておいた。このいなくなったおじさんは、もしかすると酒を飲んで運転していたのかもしれないと言うこと。話をした時にアルコールの匂いがしたと言うこを話した。警官曰く、そうだとしたら確信犯で明日の朝出頭してくる可能性は高いらしい。出頭してきた時に問いただしても、通常は「動転していたから怖くなりその場から逃げ出したかっただけです」と言うだけかもしれないとのこと。その時にアルコール検査しても反応しない可能性が高いそうだ。しかし、そのために丈史は多くの時間を拘束されることを強いられているので、余計に腹立たしく感じていた。

 それから、もう一つ目的があるらしい。こちらの方が重要だ。加害者が逃走しているという事実から、警察では逮捕状請求準備をするのだそうだ。そのためにも今夜中に調書を作成しておく必要があるらしい。明日朝九時までに加害者が警察署に出頭してこなければ、逮捕状が執行され、免許証の住所へ逮捕に向かうらしい。犯罪者となってしまうわけだ。逆の立場じゃなくて本当によかったと心の底から思った。

 いつもならすでにベッドに入っている時間だが、やけに頭が冴え渡ってきた。そうすると考えなくてもいいことまで考え始めてしまう。免許証の住所にいなかったらどうなるのだろうかと思っていたら、警官が察したのか答えてくれた。その時はまず手配書が配られるのだそうだ。少なくともこの近辺にいることは間違いないだろうから、近隣の交番を含めて手配することになるらしい。それを聞いて更に疑問に思ったのは、だったらなぜ今から免許証の住所に押しかけていかないのだろうかということだった。事前に防止するための行動は取らないのだろうかと思ったりもしたが、余り突っ込んで聞いても特に得する事は無さそうなので、成り行きに任せそのことに関しては触れることはなかった。

 調書自体は何も問題なく終わった。それはそうである。事実を述べるだけなのだから。丈史には今回に関しては微塵もやましいことはないのだから、胸を張って話ができた。時折、あのおじさんは今後大変だろうなという要らぬ心配をする余裕すらあった。予定通り、午前一時頃には調書作成が終了し、無事警察署から解放されることになった。先輩が駐車場まで迎えにきてくれているはずである。

 部屋を出ようとした時に、最後に警官からの忠告があった。もし、加害者が見つからなかった場合や時間がかかる場合、相手が保険に入っていない場合には、丈史自身の任意保険でクルマの修理をしてもらう必要があるかもしれないとのこと。そうしないといつまでも修理に取り掛かれないかもしれないというのだ。窓ガラスがない状態だし、ドアだって凹んでいるのでまともに開かない状態なのだから、早く修理をしたい。修理しなければ愛車シルビアに乗れないのだ。まさしく踏んだり蹴ったりとはこの事だ。

「修理代金を自分で支払うことになるかも? そんなバカな」

出頭

 警察署の駐車場で待ってくれている先輩の車のところまで歩いて行った。
先輩は車から降り、手を振っている。

「丈史、こっちこっち。お疲れさん、大変だったみたいだな。お前の車見たよ」
「あぁ、ありがとうございます。悲惨でしょ、車」
「そうだな、結構行っちゃってるなー。ベンツの方は壊れてるかどうかもわからないくらいだけどな。やっぱ頑丈さが違うのかなぁ。ここで話しても仕方ないし、もう遅いから家に行こう」

 先輩に促されて、丈史は助手席に乗り込んだ。安心したのか、どっと疲れが押し寄せてきたような感覚に襲われた。程なく、先輩のマンションに到着。玄関を入ると先輩の奥さんが待っていてくれた。食卓には、簡単なおつまみとビールのグラスがセットアップされていた。先輩夫婦はかなりの恐妻家だという噂を聞いていたが、どうやら取り越し苦労だったようだ。ニコニコしてとても優しい方だった。

「丈史さん、大変だったわね。さっ、こっちに座って落ち着いて」
「ありがとうございます。では遠慮なく上がらせてもらいます」
「相手の方はまだ見つかってないの?」
「えぇ、逃げちゃったみたいです。いい迷惑ですよ。あっ、すいません、僕もこちらに迷惑かけてますね」
「うちはいいのよ。どうせこの人と居たって話なんかしないんだから。ねぇ」
「いや、ねぇはないだろう。可愛い後輩の前だぞ。もう少し亭主を立ててくれ」

 やっと笑いが出た。奥さんのおかげで少し楽になり、注がれたビールを一気に飲み干した。そうしている間に、客間に布団が敷かれ至れり尽くせりのもてなしに丈史は頭が下がりっぱなしだった。当然、着替えも無いから先輩のパジャマを借りてシャワーを浴び、眠りにつくことに。布団に入ると落ちていくように眠りについた。時間はすでに午前三時近くになっている。先輩夫婦も後片付けをして寝室に入ったようだった。

 なぜだかこの後、夢の中で丈史のおじいさんが現れ、「丈史、免許証の男は、朝になると出頭してくるぞ。車の修理はきっちり対応してもらいなさい。後悔のないように」と言っている声が鮮明に聞こえた。

 午前七時半になった。すでに朝陽がさしている。台所の方からいい匂いが漂ってきた。一瞬、丈史は自分のいる場所がわからなくなったが、「あっ、そうか。昨日は事故に遭って先輩の家に泊めてもらったんだった」と心の中で確認し布団を畳んで客間から顔を出した。確実に寝不足状態でまだ頭の芯は目覚めていない。

「おはようございます」
「おはよう、眠れたか」すでに先輩は新聞を読んでいた。
「おはようございます。もうすぐご飯ができるから座っててね」
「何から何まで、ありがとうございます」

 やっぱり昨夜のことは夢ではなかったのかと認識し、丈史は現実を受け入れることにした。目が覚めるのが我が家であったならどんなにホッとしただろうと思っても仕方のないことだった。起きてしまったことは受け入れるしかない。今日は朝九時前に警察署に行ってから研究所に行くことになるだろう。プロジェクトの方も気にはなるのだが仕方ない。朝ご飯をご馳走になり、先輩と一緒にマンションを出て、警察署まで送ってもらった。先輩には、再度連絡を入れることにしてとりあえず午前中は研究所を休むことにした。先輩が出社後に上司に説明してくれると言うので安心だった。しかし、これを聞いた上司から「だから自家用車で通勤するなと言ったんだ」とか言われそうな気もしていた。そう考えると気が重くなった。

 警察署に着いたのは、予定より早く八時半だった。果たして逮捕状の行方はどうなったのだろうと思い、ドアを開けて入って行った。窓口に事情を伝えると応接みたいな場所に案内され、昨日の夜の警官ではない別の警官が入ってきた。交代勤務なのだろう、担当も代わっていたようだ。ただ、引き継ぎはしっかり実施されているようで、昨日の夜のことはしっかりと把握してもらっていた。椅子に座ると同時に警官が口を開いた。

「昨晩は本当に大変でしたね。にもかかわらず遅くまでご協力ありがとうございました。加害者の多可木さんですが、今朝八時頃出頭してきました。多くのガソリンスタンドを経営している方でした。別室で話を聞いていますが、係のものから厳しく指導されているようですよ。昨晩あなたの説明を元に作成した調書をベースに確認していますが、概ね認めて謝っているようです。ただ、飲酒に関してはまだ否定しているようですね」
「そうですか。。。しかし、あんな山道でどこに消えたんですか? それがすごく疑問なんですけど」
「あぁ、そのことですか。電話ボックスから電話した相手は実は近くに住んでいる愛人だったみたいで、すぐに車で迎えにきてもらったようです。あなたたちがいた反対側、つまりパトカーがきた方向から電話ボックスが見えた時にライトを消して近づいたようです。軽自動車だったので狭い道のUターンも問題なくてそのまま愛人宅に逃げて行ったそうですよ。朝出頭しないと大変なことになると言うことは認識していたようで、朝八時にここにきたと言うわけです。それで余計に厳しく指導されています。全く、いい大人がやることじゃないですね」

担当の警官は、丈史が一番気にしている件をさらに続けた。

「えーと、それから加害者側の任意保険ですが、しっかりと加入されているので、あなたの車は保険屋さん同士で話して対応ができると思います。綺麗に元通りになるといいですね」
「では、もう車を動かしてもいいですか 早く修理の手配をしたいのですが」
「写真はもう撮ったのでいいのですが、窓ガラスが割れている状態なのでこのままで公道を走ることはしないで、整備工場に電話して取りに来てもらうようにしとてください。申し訳ありませんがお願いします」
「分かりました。そうします」

 加害者の多可木という人は、かなりお説教されたようだ。午前九時を回って警察署を離れようとした時、ちょうど多可木さんも解放されて出てきたところだった。こちらを見たので、謝罪に近づいてくるのかと思いきや、くるっと向きをかえて待っていた軽自動車に乗り込んで走り去ってしまった。あれが、愛人の車なのかなと思った。それにしても、普通なら一言くらい謝るべきなのに本当に失礼な人だと改めて感じた。

「じいちゃんは知ってて夢に出てきたのかな? そんなバカな」

来訪

 加害者の多可木は何も言わずに、軽自動車に乗り込んで走り去ってしまったが、任意保険には入っていたようなので、丈史も保険屋さんに連絡してうまく対応してもらおうと考えていた。夢の中でのじいちゃんの言葉が気になったので、気を抜かずに対応しようと思っていた。整備工場にはすぐに連絡して車を移動してもらうとともに、代車を準備してもらい、当面は困らないようになった。シルビアが元の美しい姿に戻ることを期待しながら代車で通勤できるようになった。代車は、白のスカイライン・ジャパンだが残念ながらGTRではない。シルビアの美しさには及ばないが、人気の車である。車体が大きいということとAT車のセダンタイプなので、若干加速の鈍さを感じた。でも、人気のある良い車である。そのまま自宅に乗って帰った。

 場所は変わって、その日の夜の地元のスナックである。多可木は女の子に囲まれて上機嫌で飲んでいる。事故のことを都合の良い話にすり替えて、女の子たちの関心を買おうとしているらしい。どうも二面性がある人間のようだ。

「社長さん、いらっしゃーい」
「やぁ、どうも。最近、ちょっとした事故にあってさ。大変だったよ」
「えー、ぶつけられたんですかー」
「ほんのちょっとね。まぁ、こっちもちょっとは悪いから保険で払わなきゃいけないんだけど、かなり吹っかけられててね。六十万も要求されてるよ。全く」
「えー、じゃあぼこぼこになってるんですかー、相手の車」
「いやー全然、ドアがちょっと凹んだだけさ。大した車でもないし」
「わー、悪質ですねー」
「だろう。ひどい奴だよ全く。ほら、丘の上に研究所があるだろ、そこの若造さ」
「きゃあ、ひどーい。ママー、社長さん、車ぶつけられたんだってー」
「研究所には結構寄付もしてるからあんな若造、どうにでもできるけどね」
「わーすごーい、追い出しちゃうんですかー」
「まぁ、若造に向かってそんな大人気ないことしても仕方ないから今回だけは許してやることにしたよ」
「社長さんて、やさしーい」

 ママは、カウンターの奥にいて、目の前のお客様の相手をしている。声をかけられた女の子の隣にいる多可木に向かって、軽く会釈する。声はかけない。目の前の一人で静かに飲んでくれているお客様に失礼になるからだ。カウンター越しに座って一人で飲んでいるのは、実は丘の上の研究所の所長だ。静かにママに語りかけた。

「彼、多可木さんはこの店によく来るのかい」
「ええ、よく一人でお見えになって、女の子に自慢話をして帰られますわ。それなりに落として行っていただけるのでお店としては助かりますけど。でもねぇ」
「でも、なんだい」
「多可木さんの経営している会社、結構危ないって噂なんですよ。だから、溜まってるツケも心配なんです。私としては。。。それはそうと、所長さんのところに結構寄付してるって本当なんですか?」
「まぁ、嘘ではないな。研究所の周りに植樹した時、街の人たちからの寄付でそれを賄わせていただいたことがあっただろ、その中の一人だったと思うよ。あれはママも寄付してくれたんじゃない?」
「あー、あれですか。一口壱万円の話ですね」
「それに、彼が話をしている内容は、私が報告を受けているのとは真反対の内容だよ。なぜそこまで歪曲して話を作るのだろう」
「やっぱりそうなんですね。所長さんの下で働いている人にひどい人がいるはずないなと思いましたよ。女の子のウケ狙いですよ。きっと」

 多可木の会社は、多角経営を目指してガソリンスタンドで得た利益を膨らませようとして海外の投資会社に自分の会社の株を流し込んだらしかった。そして、その投資がうまくいかず、株の大半を担保として取られてしまう状況になりつつあったようだ。それで、もともと資産家の娘でもありスポンサーだった本妻との間にヒビが入り、愛人宅に入り浸る生活が続いていたらしい。愛人はスナックも経営していて割と儲かっていたらしいが、開業資金を多可木が出資しているので、何かにつけて売り上げを搾取しているようで、当の愛人も最近は愛情も冷めつつあるという噂がママの耳にも入っていた。世の中は狭い。どこでどう繋がっているかわからないものである。

 翌日、多可木が丈史の研究所にやってきた。受付から丈史の上司に連絡が入りロビーで落ち合うことになった。ロビーは広いが普段お客様が来るような施設でもないので、人は少ない。一応、一番端っこの席で応対することにして上司、先輩、丈史三人が一列で座り、向かい側に多可木が座った。丈史にとってはまともに会話するのは初めてであると同時に、何を言いに来たのだろうと身構えた時、多可木が丈史の上司に向かって口を開いた。堂々としているではないか、あの日の夜とは大違いだと丈史は感じた。

「いやー、この度は色々と研究所にもご心配をおかけしました」
「それをいうなら、大原丈史君にまず謝るべきではないですか」
上司は、右隣に座っている丈史を見ながら促した。

「あ、いや。失礼しました。大原さん、申し訳ありませんでした」

 言葉と同時に少し頭が下がった。警察署であったときに素直に謝ってくれさえすれば、なんてことはなかったのに二重人格のような対応では丈史も素直になれない。黙っていると上司が続けてくれた。

「大原君の車はちゃんと修理していただけるのですよね」
「それなんですが。ちょっと修理代が高過ぎじゃないかと思うんですよ。せめて半分くらいになりませんかね。保険屋の方も通常の修理以上の額が請求されていると言ってましたので」
「大原君、どうなのかな」

 じいちゃんの言葉が蘇った。ここで引いちゃダメだ。

「はい、決して法外ではないと思います。通常の部分塗装なら確かに安く上がりますが、それだと明らかにドアだけ色が変わってしまいます。私の大切にしている車なので、綺麗に元通りにして欲しいだけです。なので、車全体を塗装し直してもらわないと僕の気が収まりません」
「どうですか。多可木さん、潔く認めてはいかがですか。この若者を事故現場に残してあなたは逃げてしまったのですよね。その後警察の対応は彼一人で担当したのですよ。その辺りどう考えていますか?巷では大原君の方が悪いようなことを話ししているようですが、どちらが正しいのかもう一度考えてみてはどうですか」
「わ、分かりましたよ。じゃあ、払いますよ。では失礼」

 多可木は、そそくさと帰っていった。この時の上司の態度には丈史もびっくりした。こんなにも味方になってくれるとは思っていなかったのだ。てっきり、「お前が車で通勤するからこんなことが起きるんだ。自分できちんと始末をつけろ」と言われるのかと覚悟していただけに、上司はこうあるべきなんだと痛感した瞬間だった。

 ただ、ちょっとした違和感を丈史は感じていた。訪問してきた人物はどちらかといえば横柄な態度だったが、事故の夜に見た人物は大人しく俯いて言葉も少なかった。事故の時は夜で暗かったせいもあり、はっきりと顔を見てないなとも思った。まさか違う人物なんていうことは考えてもいないし疑ってもいなかった。でも最初から上司の顔しか見てなかったことを丈史は見過ごしてはいなかった。それは顔見知りであるからかもしれないが、もしかして、先輩が一緒だったから丈史がどちらか分からなくて、顔見知りの上司を見て話を切り出すしか無かったとしたらと考えていた。

「同じ人じゃないのか? まさかね」

クラッチバッグ

 丈史の愛車、シルビアの修理をお願いしていた整備工場から連絡が入った。相手方の保険適用が確定したので、丈史の依頼した通りの修理にかかりますという知らせが自宅の留守電に入っていた。早速確認の電話を入れる。この時代は連絡するのもまどろっこしい。

「もしもし、大原丈史といいますが、お願いしたシルビアの修理の件で確認の電話です」
「大原丈史様、いつもありがとうございます。ただいま担当のものに代わります」
「お待たせしました。整備の一ノ瀬といいます。お電話ありがとうございます。今回は、交通事故で相手方全額負担で、ドア一枚交換、窓ガラス交換、全塗装で焼き付け塗装ですよね。これまで保険対応で、ここまでの塗装はみた事がなかったのでびっくりしましたが、相手方の保険会社が支払うということを連絡してきましたので、対応を開始させていただきたいと思いますが、よろしいですか」
「はい、よろしくお願いします。どのくらいの期間でできますか」
「部品はすでに取り寄せてあり、全工程の作業はこちらで可能なので、これから作業にかかるとして十日間程度みておいていただけますか」
「分かりました。ではまた出来上がる頃に電話をください」
「大原様、かしこまりました。それから、助手席シートの後ろにあるポケットにクラッチバッグが入ったままなのですが、お困りではありませんか」
「えっ、クラッチバッグですか」
「はい、そうです。中身は確認はしておりませんが、普段使われているものが入っていたらまずいかなと思いましてお聞きしています」

 丈史は、はっとした。そういえば事故ったあの時、おじさんはクラッチバッグから免許証を出していたな。しかし、おじさんが電話ボックスに向かって行った時は、確か手ぶらだったような気がしてならない。まさか、丈史の車に何かを入れたのだろうか、嫌な予感はしたが、取りに行くのも面倒なので、そのままにしてもらうことにした。修理が完了した後、確認して必要なら警察に届ければいいだろう。

「クラッチバッグは、使わないので、そのまま入れたままでいいです」
「かしこまりました。ではまた修理が終わる頃にお電話させていただきます」

 クラッチバッグが気にはなるが、どうせ修理が終われば戻ってくるし、焦っても仕方ないなと思うことにした。それにしても、やはり、焼き付けの全塗装という対応はあまりないらしい。それはそうだろうなと丈史も思ったが、相手のひどい対応に腹が立っていたし、夢の中でのじいちゃんの言葉にも後押しをされた感じだったなと思い返した。それに、通常の吹き付け塗装と焼き付け塗装では仕上がりが全く違うことも知っていたのだ。吹き付け塗装の場合は、スプレー塗装を二回程度実施して仕上げると思うが、焼き付け塗装の場合は、百度以上の熱で表面を硬化させて塗装を定着させるのだ。それによりムラのないコーティングができ、仕上がりも美しい。しかし、工程は複雑になるので作業料金もかなり高くなる。また、設備を持っていないと対応できないので作業できるところも限られる。しかし、これでシルビアも綺麗に復活できることになったのでちょっと上機嫌になっていた。

 良い一日が終わりそうだと感じながら、缶ビールと冷やしてあったグラスを冷蔵庫から取り出して、リビングに持っていく。缶ビールのプルトップを引っ張り上げて、プシュッという心地いい音を聞いた後、冷えたグラスを傾けてビールをゆっくり注ぐ、そしてグラス半分を超えたところでちょっと勢いよく注ぎ、泡が立つようにする。少し落ち着かせた後、グラスギリギリまでゆっくりと追加で注ぐ。ちょうど缶ビール一つの中身が入りきるサイズのグラスの上から指二本くらいにきめ細かな泡の層ができた。今夜も成功だ。美味しそうなきめ細かい泡とともにビールを口から喉に一気に流し込む。毎回、グラス半分くらいを一気に飲む。喉越しの爽快さを最初の一口で楽しむのだ。いつものことだがこの時が至福の瞬間だ。一日の終わりのケジメを感じる。

 ソファに腰掛けて、気持ちよくビールを飲みながらテレビのスイッチを入れた。ちょうどニュース番組が放送されている。今日は何かあったかなと思いながらみていると、驚くべきニュースが流れてきた。

「新しく入ったニュースをお届けします。ガソリンスタンドを複数経営している、株式会社タカギ・エネルギーは、数年にわたり会社の売り上げを正しく申告していないことが国税庁の調査で判明しました。今のところ追徴課税は三億円に上る見込みです。なお、社長の多可木光流氏は2日前から行方不明になっており、会社からの捜索願いをもとに神奈川県警は行方を追っています。会社の運営に関しては、現在は、弟で副社長である多可木弓弦氏が代行している模様です。また、新しい事実が届き次第お伝えしたいと思います。さて、次のニュースは、、」

 テレビの画面には、ガソリンスタンドの映像が映し出されている。研究所にやってきたおじさんの会社に間違いない。一体何があったのか気になり始めた。それまで美味しく飲んでいたビールの味が一気にまずいものに変わっていった。とりあえず、愛車シルビアの修理は進んだからこちらへの影響は無いはずだと言い聞かせてはみても何か胸騒ぎがしてならない。

 そういえば、「クラッチバッグがシルビアの車内に有った」と整備工場の担当者が言っていたことを思い出した。事故にあった日、丈史が警察に連絡するために電話をかけにいっている間に、丈史の車の中にそっと入れたのだろうかと考えてみるが、その必然性が思い当たらない。ベンツを置き去りにして逃走しようとしていたから、バッグをどこかに隠したかったのだろうか。持ったままだと何かまずいものでも入っていたのだろうか。だとしたら、最も調べられる可能性が低い丈史の車に置いておけば修理が終わるまでは気づかれない可能性が高いと判断したのかもしれないとも思った。しかし、そうだとしても必ず取り返せるとも限らない。つまらない勘ぐりかもしれないとも思ったがクラッチバッグが入っていたという事実が気になって仕方なかった。せっかくの心地いい夜の時間が、テレビのニュースで台無しになってしまった。

「逃走とクラッチバッグは関係があるのか。まさか」

競輪

 追突事故を起こした日、多可木光流は小田原の競輪場にいた。会社には銀行へ金策に走ると伝えて、実は競輪場で金を増やそうとしていたのだ。競輪歴は長く情報網も持っていた。その日の仕組まれたレースの情報を得ていたため、一点勝負で二百万円分の車券を購入した。倍率は二十一倍だ。それほど人気のある選手では無かった。じっとレースが始まるのを待ち、一斉にスタートしたと同時にモニターを凝視した。目当ての選手は、ほぼ後方にいが、レース中盤で真ん中より少し上まで順位を上げ、さらにゴール前で外側からまくって一気にごぼう抜きし見事一着でフィニッシュした。光流は、その場で小躍りして喜んだ。すぐさま、会社にその日は直帰するという連絡をし、同時にスナックの開店準備のため仕込み中の愛人の夕子に電話を入れ、小田原駅まで迎えにくるように依頼した。すでに午後四時を回っている。光流は人と会うのを避けるため、競輪場からタクシーで小田原駅まで移動し、小田原駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら当選した車券を眺めていた。高額払戻金の場合は、自動受け取りはできないので、代理人に頼むつもりである。その代理人は夕子にしようと考えていた。ギャンブルで得たお金にも税金がかかる。高額払戻金にかかる税金を安くしようとしたら、現在の収入が少ない方がいいだろうと考えたのである。夕子は個人事業主として青色確定申告をしているが、毎年、利益が出ていないような内容になっているはずだ。

 程なくして、夕子が軽自動車で小田原駅に現れた。喫茶店の窓越しに確認できた光流は喫茶店の勘定を済ませると真っ直ぐに夕子の車に向かっていった。

「早かったな」
「だって、遅れると怒るでしょ、あなたは」
「まぁ、そうむくれるなよ。実はさ、取ったんだよ。今日」
「なにを?」
「競輪だよケ・イ・リ・ン。しかも二十一倍だぜ、すごいだろ」
「すごーい。じゃあ、お店の改装もできるかなぁ」
「バカ言ってんじゃないよ、いま会社は火の車なんだよ。お前の店も畳んで金に換えたい位だぜ」
「畳まないわよ。私のお店なんだから。そりゃ、頭金はあなたが出したけど、その後やりくりしてるのは私なんだからね。あなたのお小遣いも含めて」
「わかった、わかった。ネックレスぐらいは買ってやるよ。それでいいだろ。機嫌を直してくれよ」
「うーん。仕方ないわね。わかったわよ。ただし、ダイヤのネックレスだからね」

 光流の会社は黒字なのに投資で失敗して数年前から資金繰りが厳しくなっていた。なんとか税金分を誤魔化すことで凌いでいたが、そろそろ帳尻を合わせないと会社は大変なことになると分かっている。管理は、弟の弓弦に任せてはいたが、表面上は全て光流が仕切っていることになっている。社内でも誤魔化していることは誰も知らない。あたかも光流が指示してそうしたということを示す資料だけが弓弦の手によって隠されていた。その内容を無効化してしまうためには、累積した売上金の乖離を補填しなければならないと光流は考えていた。

 そのためにも、一億円程度を今月中に補填したいと光流は考えていたが、あぶく銭が入ると使いたくなるものだ。この性格が、無謀な投資に走らせたのだろう。一時間ほど車を走らせると夕子の自宅に着いた。ここは、事故を起こした現場からは車で十分もかからない田舎の一軒家だった。隣の家まで歩くと十分以上離れているという環境で、街灯もなく夜中の出入りも人に見られることもないため、光流はここを選んだのだ。街までは車で行けば二十分程度なので、特に不便はない。また、夕子はスナックを経営しているママではあるが、アルコールは飲めないので、車で通勤ができているのである。

 二人して、家の中に入ると、夕子はお店に電話してその日はお店に出られないことを女の子に伝え、お客がいなくなり次第、店を閉めてタクシーで帰るように指示した。そして、光流のために夕食の準備をした。その間に光流はシャワーを浴びリビングのソファでビールを呑みながらくつろいだ。もうすぐ午後七時になろうとしていた。思い出したように、光流は弟の弓弦に電話をかけた。

「もしもし、オレだ。悪いけどオレの車をこっちに回してくれないか。こっちに来たら夕子に送って行かせるから」
「何言ってんだよ、兄さん。僕は今免停中だよ」
「大丈夫だよ。オレの免許証が車の中にあるだろ、それを持っていればいいさ」
「うーん、まったく仕方ないな。何時ごろ行けばいいんだい」
「そうだな、十一時前くらいに持ってきてくれ。明日使いたいから」
「わかったよ。じゃあ後で」
「よろしくな」

 兄光流の車は、自分の家の駐車場に止めてある。弟の弓弦は光流の自宅の敷地内にある離れに住んでいた。何かあれば使いに走らされるのだ。兄光流の車の合鍵はいつも弓弦の家に保管してあった。妻の聡美に色々と追及されるのが面倒だったのだ。

 会社の経理を裏で一手に仕切っているのも弓弦だった。ただし、社内では光流から直接経理部門に指示が出ているように見せかけていた。危ない投資話に乗っかって資金を増やそうと言った兄光流を弓弦が一旦は抑え込んだのだが、独断で投資話を進めてしまい、現在はかなりまずい状態になっている。なんとかして株を投資会社から買い戻す必要に迫られていた。そうしないと経営権が投資会社に移ってしまう可能性があり、経理上の不備が明るみに出る可能性が高い。なんとしても、元の健全な兄弟で運営している会社に戻さなければと光流は焦っていた。

「弓弦を社長にすべきだったかな。今更遅いけど」

画策

 兄光流から車を回してきて欲しいという連絡が入った時、弓弦は光流の妻である聡美とともに、家にいた。光流の本宅がある場所の離れの家だ。既に、弓弦は、兄の妻である聡美と良い仲になっていたのだ。そのことを知らないのは兄の光流だけだった。聡美にとってお調子者で軽はずみな光流よりも寡黙で真面目な弟の弓弦の方に段々と感心が高まり、光流とはほぼ別居状態になった後、弓弦との距離も急速に縮まり仲良くなってしまったのだ。もちろん、弓弦にはそんな行動は起こせるはずもなく、聡美の方からアプローチし、弓弦は引きずり込まれていった。それまでは、兄の光流に良いように使われていた弓弦だったが、聡美との関係ができてから自分をいいように使っている兄光流を段々と疎ましく思うようになっていったのだ。

 二人にとって、光流は徐々に邪魔な存在になっていった。できれば交通事故にでも遭って知らないところで亡くなってくれれば保険金も入るから助かるのにと二人はいつも話をしていた。ただ、二人にはそんな勇気もないので妄想するばかりで終わりだ。事故当時も実は聡美は離れに住んでいる弓弦の家に来ていた。そう、そこに兄の光流から電話がかかってきたのだ。電話を取った弓弦は一瞬聡美との関係がバレたのかと思い心臓の鼓動が速くなるのを感じながら応対していたのだった。電話が終わると内容を聡美と共有した。弓弦はとても気が小さいので、自分一人で抱え込むようなことはできない。起こったことは全てを聡美と共有して話し合っていた。

「兄さんが車を持ってきてくれって言ってきた。仕方ないので持って行ってくるよ。兄さんの免許証もあるから万が一止められてもバレることはないと思うよ。暗いしパッと見は顔も似てるから」
「こんなに遅く大丈夫。もしかしてあの人は何か企んでいるんじゃないのかしら」
「確か今日は金策に回ると言っていたな。兄さんのことだから銀行には行っていないと思うんだ。会社には戻ってこなかったから、もしかしたらギャンブルで当てたのかもしれないな」

 もし、大金を手にしたのであれば、きっと、それで株の買い戻しか不正経理分の穴埋めに使う相談を弓弦にするのだろうと思った。状況を考えると株の買い戻しを優先しないと経営権が怪しくなるので、不正経理対応を後回しにするだろうと推測した。そうであれば、全てを公にすることで、兄さんを失脚させ不正経理の責任もとってもらう。それで、最悪、投資会社傘下になったとしても我々は生き抜くことができそうだと弓弦は考えた。その時は会社と社員を救う唯一の方法だと信じて疑わなかった。

 心の中の奥底には、弓弦と聡美が公の場で結ばれる道をどうすれば作れるかと考えている弓弦の存在が大きくなっていたようである。光流が失脚することになれば、当然なことながら債務を背負って光流を自己破産に持ち込むためには、離婚を決断せざるを得なくなる。そうすれば法的には聡美と光流は他人になれる。晴れて、弓弦と一緒になれる環境が出来上がるのだ。もちろん、世間の冷たい目を避けるために、聡美にはしばらく被害者を演じてもらい、自宅を処分する程度は覚悟してもらおう。しかし、もともと資産家の娘なので二百坪程度の土地家屋を手放すくらいは問題ないだろう。結婚する際に親が買ったようなものだから。一本の電話から目まぐるしいくらいの策略が弓弦の頭の中で駆け巡った。

 「そのためにはどうすればいいか」

 光流の車を届けた後、光流を説得するために二人きりで話をする時間を作る必要がある。光流の愛人である夕子には何か使いを頼まないと二人きりの時間は作れないが、夜遅くに使いという訳にもいかないだろう。光流はどうせすでに飲んでいるだろうから、光流に車で送ってもらうというのも難しい。ならば、夕子にも全て知ってもらって、二人で逃げてもらうように仕向けるということができるかもしれないと考えてみた。自分に利益があれば喜んで動き出すのが夕子だ。ゆくゆくは光流と一緒になれるということを餌にすれば乗ってくるかもしれない。それにいくら掴んだかは知らないがかなりの額だとしたら、新しい店を出すことも可能かもしれない。夕子もいつまでも今のままがいいとは思っていないだろう。弓弦は再度考えをまとめて聡美と共有した。

「兄さんと愛人が待っているだろうから、車を持って行ったら二人に話をしてみようと思う」

いつになく真剣な弓弦の顔に聡美は驚いたように返した。

「えっ、どんな話」
「多分兄さんは、ギャンブルかなにかで儲けたお金を換金して株の買い戻しに当ててくれと依頼してくると思うんだ。その金額を確認して、逃走資金として問題ないような額だったら、既に二重帳簿の存在が国税に分かってしまったようだから、投資会社との連携で財務状況は悪化し会社は乗っ取られるかもしれないということが明るみに出るのは時間の問題になったと説明する。もし、逃走資金として少なければ、僕が準備するからそれを使って逃げてくれと説明する」
「最もそうな話ね。今国税の調査が入ってるから。そのあとはどうするの」
「それで、お金ができた頃を見計らって、国税に匿名でリークして公にする。そうすると兄さんは焦るだろうから、綺麗に逃げるために離婚届に印鑑を押して聡美に送っておいた方がいいと提案するよ。そうしないと会社を巻き込んだ債務処理になってしまうから自己破産もできない状況になると言ってね」
「納得してくれるかしら」
「それなりのお金を持っていれば、夕子名義で違う土地で店を開くこともできると言えば、夕子の方も乗っかると思う。打算的な性格だから。それに兄さんはああ見えて会社はすごく大切にしていると思うし」

「あなたって、頭いいわね。おとなしそうに見えるけど」
「見た目と頭の中は関係ないだろ」
「それはそうね。でも時々怖くなるわ」
「ははは、聡美のことは裏切らないから大丈夫だよ。兄さんの車の中にあるクラッチバックに免許証も入ってるから、その中に兄さんが経理部長に指示した内容のメモも入れておこう。指紋がつかないように慎重に。兄さんにメモを作らせたのは僕だけど、そんな証拠は世界中探しても見つからないよ。メモには兄さんの指紋しか付いてないし、実際に書いたのも兄さんだしね」

 二人は、計画の内容に満足し弓弦は出かける準備を始めた。手袋をして光流の車からクラッチバックを取り出し、免許証が入っているのを確認し、家に保管してあった指示のメモをバッグの中に慎重に入れた。手袋をしたまま運転していくわけには行かないので、再度クラッチバックを車のグローブボックスに戻した。車そのものやキーに関しては、時々弓弦も使っていたので指紋が付いている方が自然だ。ちょっと前にスピード違反で捕まって免許停止になった時も光流を横に乗せていた時だったのだ。考えてみればこれまでは兄のための人生だったのかもしれない。これからは、自分自身のための人生に変えていこうと思った弓弦だった。

「これで兄さんも終わりだな。完璧な計画だ」

誤算

 弓弦は計画の成功を信じてガレージに向かった。兄光流の左ハンドルのベンツに乗り込み、大きく深呼吸をしてキーを回した。唸るようなエンジン音がガレージに響き渡る。ハンドブレーキをリリースし、ゆっくりとシフトレバーをDレンジに入れアクセルを踏んだ。

 軽く左手をあげ聡美に挨拶をして、ベンツSLの大きな車体はゆっくりとガレージを出て、まるで他の車を威嚇するかのように滑り出していった。一旦、遠回りをして逆方向から光流の愛人である夕子の自宅へアプローチする。これはいつものことである。光流の自宅から直行すれば20分ほどなのだが、誰に見られるか分からないので、幹線道路である246号線を通って抜け道にもなっている山道の反対側へ回って戻ってくるようなルートを使う。あくまでも用心深く対応している。

 左カーブになるトンネルが見えてきた。今日は側溝の工事をしているなと思いながら、トンネルに入った。出口付近で左側の側溝の様子を確認しようとして視線を左前方に集中した。やっぱり工事中だなと思った時、焦ってアクセルを踏んでしまった。弓弦はやばいと感じてハンドルを慌てて左に切った。が、間に合わず、何かに衝突した。ぶつかった瞬間は目を瞑っていたため何にぶつかったのかという確認はしていない。とにかく、この場所にいてはまずいという本能だけが彼の行動を支えた。ブレーキの代わりにアクセルを踏み込み、そのまま走り去ることを瞬時に決断した。

 走り去るときにバックミラーで微かに確認できた。車にぶつかったということを認識し、心臓の鼓動は太鼓を打つように感じられた。カーブを曲がり、後ろからの気配を感じなくなった時、平常な脈に戻り、目立たないようにと制限速度以下にスピードを落とした。

 とりあえず、ベンツにはそれほどダメージはなさそうだ。このまま逃げ切れそうだと思った瞬間、後ろのカーブにヘッドライトの灯りが差し掛かるのが見えた。だが弓弦はさっきぶつけた車が追いかけてきているとは全く思ってもいなかったので、先に行かせようと思い、更にスピードを落とした。そうすると案の定、後ろから来ていた車は追い越して行った、と思ったら急に目の前でスピンして停車したので、またしても心臓はバクバクという音が聞こえるのでないかというほどに早くなった。

「まずい、さっきぶつけた車みたいだ。追いかけてきたんだ」

 若そうな男が止まった車から降りて近づいてくる。なぜか運転席とは反対側に来て窓を叩いている。しばらく様子を見ておこう、こちらから動くのは不利だと思った。少し経つと、こちら側にやってきた。やっぱり来たか、殴られないかなと内心ドキドキだった。

「何をやっているんですか。ぶつかっておいて逃げるんですか?」
「・・・」(逃げたくて逃げたんじゃないけど、面倒は避けたい)
「免許証を見せてくれますか?」
「・・・」(仕方ないな、バレないようにしないとまずいな)

 グローブボックスから、クラッチバッグを取り出し、その中に入っている免許証を慎重に取り出して窓越しにその男にそっと渡した。内心、気づかないでくれと思いつつ。

「とりあえず、降りてくださいよ。そこから」
「・・・」(まずいな、明るいところを避けなければ)
「免許証も確認したので諦めてください。警察に連絡して来てもらいましょう」
「警察は勘弁してほしい。。」(警察はまずいなぁ、どうにかしなければ)
「いやいや、そうはいかないでしょう。これだけぶつけておいて」
「じゃあ、この車をあげるから、それで無かったことにしてくれないかな」(こんな要求聞くはずないよなぁ)
「バカなことを言ってないで、早く降りてきてください」
「近くに公衆電話があったはずなので、警察に電話をしてきます。一緒に電話を掛けに来ますか」
「いや、ここで待ってます」(そんな明るい場所に一緒に行けるはずがない)
「分かりました。では待っててください。一応、車のキーも渡してください」
「どうぞ」(若い男が警察に連絡している間になんとか打開策を考えよう)

 免許証が兄光流だとバレると全ての計画が狂ってしまう。それどころか、弓弦の立場が悪くなってしまう。このままではまずいと考えを巡らせた。

 既に免許証と車のキーは渡してしまったから、何とかしてここから消えざるを得ない。渡した免許証は兄光流のものだから、後始末を兄光流に頼むしかない。この事故処理が決着するまでは考えていた計画は延期せざるを得なくなった。

 この場所は、兄光流の愛人宅のすぐそばである。これから兄光流に電話して、夕子に迎えに来てもらって消えてしまおう。そして、明日の朝兄光流に出頭して貰えば事故処理に関してはなんとかなるかもしれない。その成り行きを見て立てていた計画をもう一度実行するかどうか決めようと弓弦は考えた。そのためには、クラッチバッグもなんとかしないと不正の証拠が入ったまま兄光流に渡すわけにはいかない。仕方ないのであの若い男の車に忍ばせて置くことを思いついた。若い男にとっては意味のなさないメモだし使い道もない。うまくいけば気づかないまま時が過ぎるかもしれない。車の修理が終わるまでか終わった後になんとか取り戻すことを考えようと考えた。メモに指紋をつけたくないのでクラッチバッグごと、若い男の車の助手席の後ろのポケットに忍ばせた。土壇場に追い込まれてもなんとか回避しようとする本能からか、アイデアが出てくるものである。アイデアではなく悪知恵かもしれないが。

 若い男が電話をかけて戻ってきた。

「すみません。私も電話を掛けてきます」(よし、ここを切り抜けるぞ)
「あぁ、どうぞ。あのカーブを曲がった先にありますよ」

 弓弦は若い男から見えなくなるまではゆっくりと歩き、見えなくなったら電話ボックスまで急いだ。電話ボックスに入ると急いでダイヤルを回した。

「もしもし、夕子さん、弓弦です。実は車をぶつけてしまい、免許証と車を抑えられている状態なんです。すぐに、迎えに来てほしい。そこから街に出る方向の反対側にある電話ボックスにいるから、近づいたら一旦ライトを消してほしい。カーブを曲がった先にぶつけてしまった相手が待ってるから」
「え~、捕まると不味そうね。すぐ行くわ。五分で着くと思うわ」

 途方もなく長く感じる五分だったが、夕子の軽自動車らしい車が近づいてライトを消した。ま違いない。電話ボックスの明かりでかろうじて道路が見える。手招きする車に弓弦は乗り込んだ。

「助かった、早く離れよう。ここから」

引き込み

 弓弦を乗せた車は、夕子の家に向かった。兄光流が待っているはずである。聡美と話をした計画は変更せざるを得ない。とりあえず、今起こしてしまった交通事故を可能な限り穏便に示談にまとめる必要がある。多少の出費が嵩んでも早期解決を優先させるように仕向ける必要があると弓弦は考えた。

 程なくして、夕子の自宅に到着し、車のライトを消した。隣接する家もないので怖いくらいの闇に包まれシンとしている。夕子と弓弦は、揃って玄関のとこビラを開けて中に入った。ほっと安堵した空気が流れる。弓弦は二度深呼吸をして自分自身を落ち着かせた。家の中から、光流が出てきた。

「一体どうしたんだ。何があった、俺の車はどうなったんだ。ちゃんと説明しろ」

一気に捲し立てられたが、いつものことなのでさして驚きもしない。それよりも段取りを間違えないように目の前の二人に指示を出さなければと弓弦は頭の中を整理していた。

「兄さん、申し訳ない。車を持ってくる途中で追突をしてしまったんだよ。で、そのまま逃げたんだけど、追跡されて追いつかれて、車と免許証を押さえられてしまった。当然免許証は兄さんのものだ。僕は、顔がバレないように終始俯いていたので、なんとかバレてはいないと思うんだ。しかし、逃げたことは事実なので、早急になんとかしなければならない」

兄光流は半ばあきれたような顔をして言った。

「なんかあまりいい状況には聞こえないな。一体どんな対策があるというんだ」
「兄さんには申し訳ないけど、兄さんの免許証を渡してしまったので、兄さんが警察に行くしか選択肢がないんだ。状況的には、追突して逃走してしまったことになるので、おそらく、飲酒運転を疑われると思う。明日の朝、一番に警察署に出頭して、最初は飲酒はしていないと言って、検査をされて今飲んでいるアルコールが残っていて反応が出たら仕方ないので、謝罪してほしいんだよ。なにしろ、今回の事故は紛れもなく兄さんが起こしたことにしないとまずいと思うんだ。でないと二人とも捕まってしまい会社がどうなってしまうかわからない。わかってくれ」

 兄光流は既にほろ酔い状態になっていたが、弟と自分の危機を乗り切るには、自分が出頭するしか選択肢はないのだろうと思ってくれた。そうなると話は早い。事故当時の状況をできる限り細かく兄光流に弓弦は伝えた。もちろん、クラッチバッグのことを除いて。愛人の夕子は横で神妙に聞いていた。夕子の耳には、兄弟揃って崖っぷちにいるような感じを直感的に感じていたので口を挟んだ。

「弓弦さん、光流さんが明日出頭したら、その後はどうなるの。逮捕とかにはならないの?」
「夕子さん、自ら出頭すれば逮捕にはならないはずだ。罰金刑で済むと思う。いや、必ずそうなるだろう。ただし、追突した相手と示談に持ち込む努力はしてもらわないといけない。多少、ふっかけられたとしても許容するくらいでないとダメだと思うよ。兄さん、申し訳ないけど、高飛車な態度は絶対にしないで対応してくれるかな。後始末だと思って」
「うーん、わかったよ。明日朝、夕子に送ってもらって出頭しよう。最悪は酒気帯び運転の結果の追突事故ってことだな。本当に相手は怪我してないんだな」
「大丈夫、相手の若者はピンピンしてるよ。なにしろ、結構な距離を追いかけてきてくらいだし。そういえば、今日僕に車を移動させたのは何かあったのかな。結果的にこうなったから車は届けられなかったけど」
「あぁ、なんかテンションが下がってしまったけどな。実は今日、競輪で当てたんだよ。二百万つぎ込んだ結果二十一倍になった車券を」
「相変わらず、兄さんは凄いなー。ということは、その当選金をもらいに行くための車だったというわけだったのか」
「そうだよ。仕方ないから、明日は夕子に代理で受け取りをしてもらうために俺が送っていくための車に使おうと思っていたのさ。仕方ないから夕子一人で行ってもらうことにするかなぁ。その金で株を買い戻す資金にしようと思ってたんだよ。会社がやばいだろ」

 やはり思っていた通りだったと弓弦は自分の計画が正しかったと思った。しかし、今は実行するタイミングではない。まずは事故の後始末が最優先だ。クラッチバッグは気になるが仕方がないと思っていた。

 既に深夜になり、もう警察も引き上げただろうと思い、弓弦は夕子に自分の家まで送ってもらうことにした。内心は、聡美が気にしているだろうなということを気にかけていたのだ。そしてもう一つ、弓弦は思った。兄さんとは二人きりになれないけど夕子さんとは二人きりになれる時間が作れたと。

 夕子の自宅から弓弦の自宅までは、四十分程度の距離だ。しかも深夜だからもう少し早く着きそうだ。車に乗って走り出した後、弓弦が切り出した。

「夕子さん、兄さんと一緒になりたいと思っているんだよね」
「突然何、意味深な切り出し方ね。まぁいいわ、そりゃあね。そうなりたいけど、弓弦さんも知っての通り、聡美さんという後ろ盾の本妻がいるからね~」
「別れられるかもしれないよ。兄さん夫婦」
「えっ、どういうこと」
「兄さんと夕子さんが逃走するんだよ。お金を持って。その際に、兄さんには離婚届に印鑑を押してもらって、その後自己破産申請をしてもらう。綱渡りのような計画かもしれないけど、夕子さんと兄さんが晴れて一緒になるにはそれが一番近道だ思うよ。夕子さんのお店も処分して、そのお金と今回の競輪で得たお金を持っていけば、違う場所でまたお店を開くことはできるし当分生活には困らないはずだ。もちろん、お金は夕子さんが全て管理しないと兄さんが持っていると没収されることになるから、当分はおとなしくしている必要はあるけど、今よりは遥かに前進できるし希望もできると思うよ。まぁ、兄さんには経理の不正の責任をとって退任と自己破産というにはなるけど。そして、それらをうまくやるには離婚を最初にしておかないとダメだよね。自己破産できなくなるから」
「弓弦さん、あなた、すごいこと考えているのね。光流さんに罪を押し付けて会社を元の状態に戻そうとしているのね。でも、私にとってはいい話に聞こえたから、その案に乗るわ。私は何にも聞いていないことにする。会社の状況も今の話もね、いいかしら」
「わかったよ。いずれにしても兄さんへの最初のきっかけは僕が作るから、夕子さんは一緒になりたいとか、別な場所でもいいのにというような話を兄さんに持ちかけておいてほしい」
「そういうのは得意だから任せておいて」

 実にしたたかだ。自分に累が及ばなくてお金が転がり込んでくるのなら、ためらわずに同調してくるのは夕子の生きる術なのかもしれない。今回も夕子には悲劇の被害者を演じて貰えばいいだけだ。話をしている間に弓弦の自宅に着いた。弓弦は車から降りて夕子の方に背中を向けたまま手を振り静かに自宅に入った。夕子は車を降りることなく、そのままハンドルを切って自宅へと戻っていった。

「計画は急遽変更したけどなんとか夕子を引き込めたな。聡美に話をしよう」

身代わり

 夕子が帰ったのを見届けると、自宅に帰った弓弦は聡美を呼び出した。今日は、光流は帰ってこないことはわかっていたので、弓弦の家に聡美が来るか、聡美の家に弓弦が行くのがいいかは、どうでもいいようなことだった。

 結果、聡美が弓弦の家にやってきた。といっても同じ敷地内でガレージを挟んでいるだけである。弓弦は、今回の計画の変更について聡美に説明した。

 車を届けに行く途中、ちょっとよそ見してアクセルを踏み込んでしまい、カーブで車に接触してしまったこと、そしてその車が追いかけてきて止められ、警察を呼ばれたこと、その時に光流の免許証と車のキーを差し出したこと、光流の愛人の夕子を呼び出して警察が来る前にその場から逃走したことをまず話した。そして、そのまま夕子の家に行って兄光流と今後について話をしたことを伝えた。

「ちょっと想定外のことが起きてしまった。僕が車をぶつけてしまったけど、渡した免許証は、兄さんのものなので事故の全ての後片付けは兄さんにお願いしてきたよ。多分、朝になったら警察に行って謝ってくれると思う。なので、この事故処理が片付くまでは話していた計画は延期するしかないな」
「そんなことより怪我がなくてよかったわ」
「ああ、心配してくれてありがとう。夕子さんにここまで送ってきてもらう間に計画のことをうまく伝えたよ。そしたら案の定、自分にメリットがあると感じて協力してくれることになった。これでタイミングはずれるけど計画はうまく行くと思うよ」
「まぁ、そんな時によく機転が効くわね、流石だわ。話に乗ってくるなんてあの女も相当に計算高い女ね、全く」
「ただ、心配なことが一つだけあるんだよ」
「えっ、なに」
「兄さんのクラッチバッグをぶつけた車に入れてきたんだよ」
「えー、あれって例のメモが入ってるんじゃないの」
「そうなんだ。だから車の中にはおいて置けないし、そのまま兄さんに渡すわけにもいかないから、咄嗟の判断でぶつけた車の中に入れたんだよ。後から回収する理屈を考えればいいかなと思って」
「ちょっと、心配だわね」

 弓弦は、クラッチバッグのことはなんかなるだろうと思っていたが、聡美は何か引っかかるものを直感的に感じていた。しかし、既に後の祭りである。弓弦に任せるしかないと踏ん切りをつけた。すでに時計の針は日付が変わった時間になっている。そう、今日は、光流が警察に行くだろうから一応今夜は自分の家に戻って貞淑な妻を演じることにしようと思い、弓弦の家を出て自宅へ戻ていった。


 夜が明けた。場所は如月夕子宅である。光流は昨晩酒を飲んでいたが、胸騒ぎがして早くに目が覚めた。光流は弓弦を疑ったことがなかった。いつも、自分のことと会社にとっての最善策を考えてくれていたからだ。それは今回も変わらない。これまでも、弓弦の言うとうりに行動をしていたら、ほぼ災難を避けられていたのだ。だから、光流は弟弓弦に対して絶大な信頼を寄せていた。だから、今回も気は進まないが弓弦の言う通りにしようとしている。弓弦から聞いた事故の状況をもう一度反芻して頭の中にあたかも自分のことのように刷り込んだ。

 朝になり、少しでも早く警察署に行った方がいいだろうと思い夕子を急かして準備させた。警察署へは夕子に送ってもらい駐車場で夕子を待たせることにした。警察署のドアをくぐったのは八時前だった。

「すみません。表に止めてあるベンツの持ち主ですが」
「えっ、多可木さんですか」
「はい、そうです。申し訳ありません」
「よく来ましたね。後一時間もしたら逮捕状が出るところでしたよ。こっちの部屋に入ってください」
「はい」

 光流は小部屋に入れられた。しばし説教されることを覚悟した。

「名前を言ってください」
「多可木光流です」
「多可木さんね。昨夜遅くに車をぶつけて逃げましたね。間違いありませんか」
「はい。間違いありません」
「なぜ逃げたのですか?」
「ちょっと、気が動転してまして、逃げてしまいました」
「若者が警察に電話して対応しているというのに、社会的にも立派な立場にいるあなたが逃走を図るとは恥ずかしいと思わないのですか。今日、ここに来ていなかったら大変なことになっていたのですよ。ちゃんと認識していますか。反省してくださいよ。それで、どうやって逃げたのですか?あの場所から」
「電話で近くに住んでいる知人を呼んで迎えに来てもらいました」
「知人とは?ご友人ですかそれとも特別な関係の方ですか」
「そ、その、特別な方です。電話ボックスのある方向に家があります」
「お酒を飲んでいたから逃げたのではありませんか?」
「いえ、違います。どうしていいかパニックになって、怖くなり逃げました。理由は特にありません。申し訳ありませんでした」
「私に謝られても困りますね。相手が違うでしょう。相手の若者は、すぐそこの丘の上の研究所で働いている大原丈史さんと言う方ですよ。すぐに謝罪して車の修理に関して話し合いをしてください。事故証明はすぐに出せますから。それからすでに現場確認は済んでいて調書も作成済みです。これから内容を読み上げていきますので、もし認識が違うところがあれば言ってください」

 担当の警察官は丈史の供述に従って作成された調書を一通り読み上げた。光流は昨晩弓弦から聞いていた通りの内容だと思った。どうやら相手の若者は馬鹿正直と言っていいくらいの正直者だったようだ。誰が聞いても事故状況が鮮明にわかるような内容だった。光流は全面的に承諾してサインした。その後、こんこんと説教され何度も飲酒運転ではなかったのかと言われたが頑として認めず、パニックになったとだけ繰り返した。警察も今となっては証明することができず最後は諦めた。約一時間程度の確認と説教が終わり解放された光流は警察署を出て駐車場にいる夕子の方に向かった。ベンツは午後には引き渡し可能になるらしいのでもう一度来る必要がありそうだった。

 嫌な一日の始まりだったと感じながら、整備工場も知り合いのところを手配し、保険会社にも同様に連絡をして、午後にベンツを引き取りに警察署に行った。無事、逮捕を免れてほっとしたが相手の車の修理が完了するまでは気が抜けない。憂鬱な状態で仕事をしていたら保険会社から電話が入った。相手からの請求が通常では考えられない請求内容になっていると言うのだ。壊れたのはドアだけだが、車全体を塗装し直すことを要求されていると言うことだった。それに対して、承諾しますかと言う確認だった。光流はちょっと気分も悪かったので、明日、謝罪に出向くつもりなのでその時に確認するから一日待ってくれと返事をしておいた。

 翌日、謝罪に研究所に行った。相手が三人いたのでだれが大原とか言う若者かわからなかった。真ん中にいる人とは面識があったので、そこに向かって挨拶がてらの言葉を発した。案の定、部下の大原の方を向いて謝罪を要求されたので、大原と言う人物を認識できた。結果として、相手の要求を丸ごと応じることで早々に退散した。

「弓弦も言っていたし仕方ないな。癪に障るけど」

誘導

 事故処理の方も順調に進んだ。双方の車の修理ももうすぐ終わるようだ。最もベンツの方はウィンカー部分のみだったので、すぐに復活してすでに光流は乗りまわしていた。弟の弓弦はそろそろ本来の計画を発動しようと考えていた。

 兄光流が出社していることを確認し、弓弦は社長室に行った。

「兄さん、ちょっといいかい」
「ああ、いいよ。例の後処理は、ほぼ終了したよ。さすがは弓弦だな、飲酒運転も免れたし、思ったより点数も引かれなかった。車で逃げ切っていたら当て逃げそのものだったようだけど、今回は運よくだか悪くだか、捕まった後の逃走だったと言うことと身元も判明していたからな」
「ああ、そうだね。一段落なんだけど、実は会社の方が問題になってきたんだよ」
「ん、特に部下からは報告は受けてないぞ」
「そりゃそうだよ。表面上は社長決断で投資したりしている件で、社員はほとんど感知してないからね」
「で、何が問題なんだ」

兄さんが話にのってきた。ここで、一気に畳み掛けて承伏させてしまおうと弓弦は話を続けた。

「実は、先週から国税の調査が入っていただろ。そこで、丁度兄さんが投資したあと穴埋めのために、少しずつ売り上げを誤魔化して利益を圧縮して申請していた痕跡が見つかったかも知れないんだ」
「えっあの件は子会社を通して処理していたから問題にならないはずじゃなかったのか」
「一旦子会社が受注して、子会社の中の経費を積み増して処理していたから、連結決算での利益を少なく計上できていたんだけど、国税の調査が延長になって子会社まで調査されているんだよ。単独だったら誤魔化せていたかも知れないけど、連結決算まで手が入るとまずいんだよ。もしかしたら、どこからかリークがあったのかも知れないな。子会社では退職者が相次いでいる時だったし」
「それはまずいじゃないか。今摘発されたら、我々二人とも捕まってしまうぞ」

 兄さんは会社を大切にしているから、きっと真面目に考えるだろうと思っていた。ここからが本題だと思って弓弦は真剣な表情で話を続けた。

「そうなんだよ。そうなったら会社は他人のもので存続するか清算してしまうかのどちらかになってしまう。なんとしてでも僕か兄さんが残らないとまずい状況になってしまうよ。しかし、子会社を通した売り上げ処理などは表向きは兄さんの指示で動いていることになっていて、僕が絡んでいないんだよ。でも役員としてはなんらかの措置をしていないといけない立場なので知らないでは通らない」

 ここで、光流が社長を降りる決断の方に傾いてくれれば半分は成功したも同然だと思い、光流の言葉をまった。

「じゃあ、俺が捕まって意図的ではなく指示したと言うことにすればどうだ。俺がいない間は、弓弦が取締役会で社長になることを承認させてしまえばいいんじゃないか」

 よし、思い通りの展開になった兄さんの心理は手にとるように分かりやすいなと感じた。更にたたみかけようと話を続けた。

「僕もそう思うのだけど心が痛むよ」
「バカゆうな、俺たちは兄弟だぞ。どっちかが生き残ればあとは時間が解決するじゃないか。追徴課税を払えば刑務所に入ることもないだろう。大体どのくらいの額になるんだ、追徴金は」
「計算はしていないけど、おそらく三億くらいだと思う」
「何、三億、そんなになるのか」
「おそらく重加算税になるからそのくらいになると思うよ」
「そんな金は準備できないぞ、どうする」
「基本は会社が追徴課税を払うけど、その分を会社としては兄さんに請求せざるを得なくなるよね。だから、兄さんが払えない状態を作ってしばらく身を隠す方がいいんじゃないかな。会社としては、三億くらいなら銀行から借りられるだろうし」
「しかし、それだと聡美の方に返済義務がのしかかるんじゃないか。それはまずいぞ。親父さんは筆頭株主だし」

いよいよ、話は核心に入ってきた。ここから離婚の方へ展開していかなければならない。そこまで話がつながれば完璧だ。

「そこなんだよ。お金は別として兄さん夫婦はすでに冷めた関係になってるだろ。だから兄さんから離婚を申し出て夫婦であることを解消して自己破産してしまえば、取立て不能になってしまうと思うんだ。先に離婚を成立させておけば、まだ発覚前だから疑われることもないと思うんだ。どうかな、かなり突拍子もないアイデアにはなってしまうんだけど」
「さすがは、弓弦だな。よくそんな計画を思いつくな。投資したのも会社をもっと大きくしたいと願ったからで、決して私欲からではなかったけど結果的に損してしまい補填に追われる日々になってしまったのは俺の責任だしな。その度に助けてくれたのが弓弦だから、本来は弓弦が社長になるべきだったのかもな。俺は不自由なく夕子と暮らせるんだったらなんでもいいんだよ。今の縛られた生活から解放されるなら、弓弦の言う通りにするよ」

 全てが思い描いた通りに進んだことで弓弦は自分の才能に酔いしれそうになった。しかし、ここで緩い顔をするわけにはいかない。神妙な面持ちで本当に申し訳ないと言う気持ちを伝えてパーフェクトな取引が完了する。

「本当に兄さんには申し訳ない。生活面はきっとなんとかする。公にはできないけど夕子さんを通せば可能になると思うよ。ほとぼりがさめた頃、夕子さんと同じ籍に入れば幸せになれると思うし。今後の事務的な仕事は僕がなんとかするから心配しないでいいよ」

 弓弦は自分が描いた計画が順調に進んでいることに満足し、聡美と本当に結ばれる日も数年後には来ると思い描いた。このあとは、市役所に行って離婚届を調達しなければならないが、用心のため隣の市まで行って届けを入手し兄光流に郵送した。そして、光流の銀行口座の残高を調整するとともに、持っている自社株以外の株を売却した。自己破産する際に三億の補填はできないけど数千万は返済することを考えて、第三者から見ておかしくない程度には口座残高が必要だろうと考えたのである。株を売却したお金は一旦妻である聡美の口座に振り込むことで慰謝料の一部に見せかける。また自社株は聡美に名義変更し慰謝料としてのちに自分に回ってくるように仕向ける。しばらくしたら、聡美の口座に入ったお金を夕子に何回かに分けて渡せば逃走の追加資金になるだろうと考えていた。

「お金の整理がついたら、兄さんに逃げてもらおう」

社長代行

 光流は逃走準備をすると同時に離婚届を記入し、妻の聡美に送った。同封したメモには次のように書かれていた。

(責任を取らなければいけない事態になった。詳細は弓弦から聞いてもらいたいが、君が望んでいた離婚届を送るのでできるだけ早く届けを出してほしい。慰謝料も準備してあるので金額と受け取り方法は弓弦から聞いてくれ)

 内容的には弓弦の指示なので聡美も内容はわかっていた。従って、郵便を受け取ったその日のうちに市役所に提出した。これで、晴れて光流とは他人同士の関係となったのである。その日の夜は、弓弦とともに静かに祝杯をあげた。

 翌日、弓弦は光流に離婚届は市役所で受理されたようだと言うことを伝え、光流に逃走するように促した。光流は当面の生活費を持って箱根プリンスのコテージに隠れた。一ヶ月滞在予定を前金で支払った。コテージなので基本的には誰にも会わずに済むし、対応としてはホテルと同じなので宿泊者のプライベートは原則守られる。もちろん偽名を使って予約したので警察が来てもすぐにはバレないという期待もある。比較的距離が近い箱根に隠れたわけは、車が使えないので食料などの生活必需品を夕子が届けられる距離ということで決定したのだ。そして、逃走している間に弓弦は国税に匿名でリークし再調査が入るように仕向け、誤魔化している利益を明るみに出す計画を実行した。そうすることで、会社は追徴課税を支払う準備と光流への損害賠償請求を起こすことができる。しかし、すでに離婚成立しているため聡美には返済義務はなくなる。その後、請求が公になった時点で光流に現れてもらい自己破産手続きに入るという算段だった。

 光流の会社では、社長不在となり誰も行き先を知らないということで問題となっていた。当然、弓弦も何も聞いていないという振りをしていた。いつまでも社長不在では業務に支障をきたすので、取締役会で決定されている社長に何かあった場合の代行の優先順位に従って、弓弦が社長代行をすることになった。これも狙い通りであり、次期社長としての準備段階に入った。まずは、光流に対する捜索願の提出から指示した。そして、自社株の買い付けも正当な処理の範囲として指示した。投資会社に渡す株によって筆頭株主とならないようにするために今のうちに買い戻しと追加発行を試みておこうという意図だった。光流の持っていた株式は離婚前に全株式を聡美に名義変更してあったので、それを会社として買い戻すことでかなりの株数になるはずである。そうしている内に、国税からの再調査が入り利益の虚偽の申告が明るみに出た。そして、いち早く、その日の夜のニュースで取り上げられた。

「新しく入ったニュースをお届けします。ガソリンスタンドを複数経営している、株式会社タカギ・エネルギーは、数年にわたり会社の売り上げを正しく申告していないことが国税庁の調査で判明しました。今のところ追徴課税は三億円に上る見込みです。なお、社長の多可木光流氏は2日前から行方不明になっており、会社からの捜索願いをもとに神奈川県警は行方を追っています。会社の運営に関しては、現在は、弟で副社長である多可木弓弦氏が代行している模様です。また、新しい事実が届き次第お伝えしたいと思います」

 最初に計画を実行しようとした夜は追突事故を起こして計画変更を余儀なくされてしまったが、今回は恐ろしいほどに計画通りに動いている。まるで、弓弦を中心に世界が回っているのでないかと錯覚するほどであった。

 社長代行になった日の夜、聡美と状況の共有を自宅で実施した。同じ敷地内なので聡美が弓弦宅に行くのを誰かに見られる心配はないし、電話がかかってきたとしても、夜なので出なくても不思議ではない。安心して話ができるのである。一応、離婚したとはいえ少し前までは夫婦であったため、県警は事情を訪ねに聡美を訪ねて来たらしいが、当然のように何も知らないと答え特に追求はなかったようだ。同様に会社でも弓弦のところに県警が訪ねてきたが、他の取締役と同様に全く突然で何も聞いていないと回答していた。もちろん、心当たりのスナックだったり愛人宅だったりへは確認してみたが、誰も知らないといっていたということもつけ加えた。

 ある日忽然と消えてしまったという事実が出来上がっていた。もちろん、愛人の夕子は箱根に連れて行ったので知っていたが、ちょっと出かけてくると言って出たまま戻ってこないというふうに警察には伝えていた。箱根に行った日に万が一車を誰かに見られているとまずいので、対策として夕子のお店の子と口裏を合わせて湯河原まで一緒に気晴らしドライブしたことにした。ここでも万が一のことを考え行き先は箱根ではなく湯河原にしておいた。なので、途中で車を見られていたとしても言い訳ができるようにしたのである。もちろん、これらも弓弦の入れ知恵である。お膳立てはできた。あとは粛々と計画通りに実施するだけだ。

愛車復活

 多可木社長の失踪ニュースの報道が流れて一週間が経過した。その後も消息はつかめていないらしい。社長代理となった弟は帳簿の整理や対外的な信用回復に追われながらも、追徴課税分も銀行と掛け合ってなんとか準備できたという報道が丈史が運転している代車スカイラインのラジオから流れていた。夕方のニュースである。ニュースによると、投資による焦付きもあったらしく、株式の追加発行も視野に入れて精力的に活動を開始しているらしい。もちろん、社長の背任行為に対し損害賠償請求も起こしたということだった。その額は、追徴課税の金額と同等の三億円程度らしかった。

 珍しく仕事を早く切り上げて帰ってきた丈史は、事故当時のことをもう一度思い返していた。あの時は暗くて顔がよく確認できなかったが、研究所に来た多可木という人と本当に同じ人物だったんだろうかと思い出している。ただ、いくら思い出そうとしても事故当時は暗い中で顔はよく確認できなかったのも事実である。

 夕方七時を回った頃、電話が鳴った。整備工場からである。予定より早く塗装工程に入れたので、シルビアの修理が終わったという連絡だった。見違えるように美しい車体が蘇ったらしい。早くみてみたいという気持ちに駆られた。翌日、代車のスカイラインとシルビアを交換しに整備工場にいくことにした。研究所には朝一番で連絡して少し遅れて出社することにしても問題はないだろう。これで、一連の面倒が終わると思うとホッとした。これで、以前の生活に戻ることができる。

 次の日、ワクワクしながら出かける支度をして、研究所と先輩に連絡を入れ、遅くとも午後には出勤できるはずだと伝えた。さぁ、シルビアに会いにいくぞ。代車のスカイラインに乗り込み、「短い間だったが、世話になったな」とハンドルを切りながらつぶやいた。三十分ほど研究所とは逆方向に走らせて整備工場に着いた。

「大原様、お待ちしいました。綺麗に仕上がっていますよ」

ひと通り修理内容の説明を受けたあと、やっとシルビアと対面できた。

「おお、美しい。やっぱり焼き付けにしてもらって正解だった」
「そうですね。やはり仕上がりは全く違います。光の反射も違います」
「これで以前よりもっとこの車が好きになりそうですよ」
「ありがとうございます。気をつけて運転を楽しんでください」
「そうですね。もうぶつけられるのは嫌ですね」

 シルビアのハンドルを久しぶりに握って、二四六号線を通って研究所にいくことにした。久しぶりに広い道を快適に走って一時間ほどのドライブを楽しんだ。程なく、研究所のいつもの駐車場に到着した。ちょうどお昼になろうとしていたので、食堂で昼食を摂ってからオフィスに戻ることにした。いつもの日替わりランチをちょっと早めに食べて一息ついた。これで元通りになった。

 オフィスに戻ろうかなと思った瞬間、思い出した。「そういえばクラッチバッグが入っていたんだった」まだ、休憩時間だから、ちょっと確認してみようと思い、もう一度駐車場に戻った。キーを挿して助手席側のドアロックを解除する。ツードアなのでシートを前に倒してシート後ろのポケットを確認した。確かに黒いバッグが見える。そんなに厚さはないので、言われないと気づいてなかったかもしれない。どうしようかと迷っていたが、一度も触ったことがないバッグなので、もしここで触ってしまって変なことに巻き込まれるのも嫌だなということが脳裏をよぎった。何しろ、多可木社長はこのバッグを残して失踪しているんだから。もしかしたら、取りに来るのかもしれないなとも思った。

 しばらくバッグを見つめて、触らない方がいいような気がした。君子危うきに近寄らずの方が良さそうだ。そういえば、調書をとった際に後日何かあれば連絡をくださいということで警官から連絡先を聞いていたのを思い出した。確か、手帳に書いていたなと思いカバンから手帳を出して確認した。やはり書き留めていた。早速電話をするためにオフィスに戻った。とりあえず上司と先輩に無事に車が綺麗になって戻ってきたことを報告すると同時に、クラッチバッグのことも同時に報告した。案の定、「触らなくてよかったな。指紋がついて変なふうに思われても面倒だから早く警察に連絡して取りに来てもらえ」とアドバイスを受けた。

 すぐに自分の席に戻り、警察署に連絡を入れた。すると、どういうわけか交通課から刑事課に回され、刑事が電話口に出て、取りに行くので触らないようにと言われた。触ってなくてよかったと思った。程なく、普通の車で刑事が二名訪ねてきたので駐車場で落ち合った。

「これが私のシルビアです。助手席の後ろのポケットにクラッチバッグが入っています。おそらく多可木さんのものだと思います。事故の時この中から免許証を取り出していましたから」
「なるほど、では失礼します。まず写真を撮らせてもらいます」

何枚か写真を摂った後、クラッチバッグを手袋をした手でそっと取り出した。

「触った人は誰かいますか?」
「私は触っていませんが、もしかしたら整備工場の人が触ったかもしれません。一番最初に見つけてくれたのは整備工場の人でしたから」
「分かりました。それはこちらで確認しますので何もしなくて結構です。ただ、助手席周りの指紋を採取させていただきたいのですが、よろしいですか?」
「はい、どうぞ」

 そういうと別の車で来ていた鑑識の人たちが、助手席周りをポンポンとよくテレビで見かけるような作業を始めた。何やら指紋らしい痕跡が現れるとテープのようなものを貼り付けては剥がすという作業をひとしきり実施していった。その後、クラッチバッグをビニールの袋に入れて刑事達は持ち帰っていったのである。まるで証拠品を確保したかのような感じを受けた。

 なんだかただの忘れ物の処理じゃないな? 今報道されている失踪と関係があるのかな。そうだとしたら、またニュースになるかな。シート周りはまた拭かないとダメかなと思いながら、整備工場では車内清掃もしてくれていると思うからそんなに指紋は取れないんじゃないかなとも思ったりもした。

「指紋を照合する相手は失踪中だけど、どうなるんだろう」

真相

 警察署の鑑識では、指紋の照合が行われていた。同時にクラッチバッグの中に入っていたメモの筆跡鑑定も同時に進められていた。照合する対象は、多可木兄弟と元妻の聡美、そして愛人の夕子だった。丈史の車の中から検出された指紋は車内清掃されたためわずかしか採取できてはいないが、助手席を前に倒すためのレバー部分、ヘッドレストと椅子の間の隙間部分、そして助手席後ろのポケットの内側部分から検出された指紋があった。それらに一致する多可木光流の指紋はなかったが何故か多可木弓弦の指紋と一致したのである。さらにクラッチバッグについている指紋で最も多くついていた指紋もやはり多可木弓弦の指紋だった。これらの状況証拠をもとに、事故当時運転していたのは、多可木光流ではなく弟の方だと断定された。

 身代わり出頭させた場合は、出頭した人が犯人隠避罪に問われ、依頼した方は教唆に問われるらしい。三年以下の懲役または三十万円以下の罰金となるようだ。しかし、そのために捜査をしていたのではなかったようだ。失踪直前の離婚や銀行口座や株の整理という事実を掴み、国税も調査するとともに、警察は事件性を考慮して捜査していたようだ。その際に、主要な人物の指紋も採取していたようだった。

 クラッチバッグの中に入っていたメモの筆跡は多可木光流のものと判断されたが、それを弟が持っていたということは、内容を把握していたということであり、社内の経理捜査に一枚噛んでいたということを裏付ける結果となった。結果、失踪中の兄の捜索と共に弟の方にも捜査の手が伸びていった。

 愛人であった夕子のところへも捜査の手が伸びてきた。その時、計算高い夕子は、損害賠償責任の対象にはならないと判断し、最悪でも競輪の当選金だけは残す方法を考え、何も知らずに光流を箱根のコテージに送って行ったと証言した。その後ニュースで失踪したと聞いて怖くなって黙っていたとも証言した。しかし、その程度の嘘はすぐバレるものである。光流の居場所が判明した後、すぐに警察が逮捕に向かい、光流の証言をとったのである。弟である弓弦の考えに従ったのだということを。ただし、競輪で当てたことは伏せていた。唯一、夕子にしてやれることだと判断したのだ。しかし、これで弓弦も逃れる術は無くなり、程なく逮捕ということになった。

 ただ、光流と聡美との離婚は法的にも成立しているうえ、光流が持っていた社内株を聡美に譲渡したことは慰謝料ということで処理済みとなっていたため、国税としても譲渡にかかる税金が支払われればそれ以上追求はできなかった。離婚の際の財産分与として処理をせざるを得なかったのである。

 ほんの少しのほつれが計画全体を綻ばせてしまった。この件で多可木兄弟は逮捕されることとなったが、弓弦の持株と預貯金、光流の整理後の預貯金を合わせればなんとか三億程度になり、会社への損害賠償をすることができた。もちろん、二人とも会社からは退任ということになり居場所は無くなった。その代わり、二人の女性は上手く生き残ったのである。この後、光流と弓弦は逮捕後裁判となったが、なんとか補填しなければならないという中で足掻いていたということ賠償金も支払ったということや誰も傷つけてはいないということで、執行猶予付き判決となり自由の身になって、それぞれ夕子と聡美の元へと戻って行った。結局は、多可木兄弟の画策で利益を得たのは二人の女性ということになった。

 夜のニュースで、今回の失踪にまつわる全容が報道され、しばらくはワイドショーでも取り上げられたりしたが徐々に人々の関心は無くなっていった。そして、気がついた頃には、光流と夕子はお店も処分して東北の方に流れて行ったらしいという噂だけが伝わってきた。弓弦と聡美も同様に地元では居心地が悪くなり、愛媛の方で投資家として生活し始めたらしかった。住んでいた家も処分したらしい。タカギ・エネルギーという会社は結局外資系投資会社の管理下になり、投資会社の役員が日本に来て社長職やそれ以外の役員職の半数程度を担当することになったようだ。これからはオペレーションも随分変わることだろう。もちろん、社名も変更されてしまうようである。多可木兄弟の痕跡はこの会社からは抹消されてしまうのだろう。

 丈史としてみれば、多可木兄弟の事件はやはりニュースの中の出来事に過ぎなった。唯一クラッチバッグという接点はあったが、触らずにおいたため、巻き込まれることもなく終わってくれたことにホッとしていた。

「やれやれ、これでやっと本当に元の生活に戻れそうだ」

覚醒

 心地いい鳥のさえずりが聞こえ、明るい朝陽が顔を直撃している。 丈史は、気持ちのいい暖かさを感じていた。丘の上にある研究所の駐車場は東を向いていて、丈史のシルビアも東向きで駐車していた。 丈史のシルビアは、昔のシルビアではない。最新型ですでにエンジンは載っていない。全てが電動で自動運転機能が標準で付いている。効率のいい発電器のおかげで太陽光からの充電のみでエアコンが賄えるようになっている。車内の温度は完全自動制御され、外の温度の影響を受けない設備になっているだけでなく、人が車内にいるときは自動的に空調制御が実施され、暑い日に車内に取り残されても大丈夫な機能もついている。外装も気分次第で色を変えられる仕様になっているから塗装とは無縁である。しかもフィルム状のディスプレイになっているから、グラデーション表示のようなこともできてしまう優れものである。テクノロジーの進化はすごい。

 今は西暦2045年になっているが日本の車全体の三割以上は電動に置き換わっている。自家用車だけで見ると半分を超える勢いで広がりを見せているのだ。もちろん充電基地も整備されているが、高速や幹線道路では非接触での走りながらの充電も始まっているし、家庭の車庫も非接触充電が主流になりつつある。

 どうやら、帰ろうと思って乗り込んだシルビアの中でそのまま眠ってしまったようである。システムテストの結果が思わしくなく考えているうちに車内で眠ってしまったのだろうか。変にリアルな夢だったような気がすると思いしばらく回想してみた。

 「そういえば、じいちゃんは昔ガソリン・エンジンのシルビアに乗っていて追突されたという話をしてくれていたな。なんでも車全体を塗装し直させてやったと自慢げに何度も話を聞かされていたっけ。なんだか、じいちゃんの時代にタイムスリップしていたような気がする。ぶつかった人が、逃走して隠れていたけど最終的には車も元通りになっていた。でも、じいちゃんから聞いてない話まで展開されていたな。やっぱり夢だったんだろうな。日付も確認してみたが、八時間しか経過していない。それにしてもやたらと逃走して消える場面があったな。本当に夢だったのか信じられないくらいだな。まるでタイムスリップしてじいちゃんになってしまった感じだった。まさかね。そんなことがあるわけがない。こうして自分の車の中で目覚めたのだから。ん、逃走して消えた。待てよ。トランザクション・データの適用日付がもしかしたら翌日になっていたのかな。だとすればデータはつながらないから消えたように錯覚してしまう。午前〇時を境に翌日という設定ではなく、確かその一時間くらい前で当日分としてのデータの締め切りに設定していたな。そうか、これだ」

 丈史は、一晩を駐車場の車の中で過ごしたようだ。そしてずっと夢の中を彷徨っていたらしい。しかし、その夢がトリガーとなってシステム・テストでうまく行っていない問題の解決の糸口を掴んだのだった。そう、逃走の夢を見たおかげで、テストデータがなぜ逃走したかに思い当たったのである。丈史の祖父もシステムズ・エンジニアとして活躍していたらしかった。丈史はおじいちゃんが大好きなので、今でも時々話をしに実家に帰ることがある。すでに丈史の祖父は、今年で86歳になるが、しっかりしているので昔話をよく聞かされている。今回の夢もよく聞かされている話だった。

 インパネのモニターが急に立ち上がり、テレビ電話になった。プロジェクトメンバーからだった。

「丈史、今日はちょっと早く出勤できないかな? あれ、もしかして車の中。もう出勤してきたのか」
「あ、いや昨日の夜、駐車場で眠ってしまったみたいだ」
「よっぽど疲れてるんだなぁ、まぁリーダーだからな。じゃあ、顔を洗ってオフィスに来てくれ。なんとしても今日中に結果を出したいから」
「和哉、そのことだけど思い当たることが出てきたから、そっちに行ったらすぐ確認しよう。テストデータが逃走した原因がわかったような気がするよ」
「えっ、データが逃走? まだ目が覚めてない?」
「ハハハ、まぁいいよ。すぐ行くからテストの準備をしておいてくれ」
「了解」

 いつもの時間に戻ってきたようだ。これからシステム・テストの課題と戦ってなんとか勝利をする。そして、今日は家のベッドでゆっくり休むとしよう。

「じいちゃんが夢の中で助けてくれたのかな。ありがとう」

完 

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