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【コース紹介コラム⑤】柏山稲荷/養命寺とその周辺地域 第3回 ONSENガストロノミーウォーキングin藤沢 

2023年4月30日 第3回ONSEN・ガストロノミーウォーキング in藤沢〜湘南藤沢の歴史をつむぐ、「藤」の花めぐり〜を神奈川県藤沢市で開催します。ここでは、イベントの会場となるウォーキングポイントをご紹介していきます。

⚫︎ 柏山(かしわやま)稲荷(城南3-6-2)と弁天社

市場から引地川に出て、川沿いに歩き稲荷城下線「高名橋」を渡り、中国名菜青葉を右に見ながら川沿いを歩くと右側に柏山公園があります。(柏山稲荷と弁天社は現在、ロープが張られ入ることはできません)

柏山稲荷神社 (撮影:堀浩侃)


祭神 宇迦之(うかの)魂(みたまの)命(みこと)          
創立 保元3年(1158)
例祭日 4月第2日曜日

柏山稲荷は、大庭城主大庭三郎景親が城を守るため引地川の水を堰き止めて水門を造り、その守護神として勧請しました。稲荷地区の名のもとになったといわれています。堰(せき)守(もり)の任にあたった吉田将監景房の屋敷跡で、太い丸太が出土されています。 

昭和45年建立「柏山稲荷建立記念之碑」碑文には、月島の飯田守弘氏霊夢により神社改築せよとのお告げを受け、築地魚河岸を中心に社殿の改築を進め、地元からも水車小屋を運営した端山(はやま)藤次郎氏たちが協力し、昭和11年7月22日落成しました。また弁天社地を購入し厳島千人力弁天社を建立し、その昔堰守として仕えた吉田将監を末社に祀り、飯田守弘氏10年祭を記念に碑を建てたとあり、発起人魚河岸鷲茂とあります。

 境内に厳島千人力弁天社があり、「弁天大社由来碑」によると昭和10年1月19日の夜、飯田ハマさんの夢枕に龍神大神があらわれ「女人のみにて社殿構造すべし」との御神託あり、柏山稲荷信者1千5百人あまりの力で同月28日から1カ月をかけずに建設したとあります。碑文の芳名には地元の稲荷、上村(かむら)もありますが東京の京橋、月島、築地、新富町などが中心となっていたようです。

⚫︎ 養命寺(城南4-10-35)宗紋「丸に一つ葉葵」

引地川をさらに川沿いに歩いて行くと引地橋に出ます。引地橋を渡らずに右に行くと、養命寺があります。

 養命寺(撮影:堀浩侃)

宗  派 曹洞宗
山号寺号 引地山養命寺
創  建 元亀(げんき)元年(1570)
開  山 暁堂元(ぎょうどうげん)龍(りゅう)(宗(そう)賢院(けんいん)3世)
本  尊 薬師如来(像高90、5cm、木造寄木造りで建久8年〈1197〉の銘をもつ)

引地山養命寺は宗賢院の末寺です。ご本尊は国重要文化財の薬師如来坐像で、一般公開は寅年の4月12日に限られており、令和4年(2022)寅年の予定でしたが、尊像が鎌倉国宝館に寄託されており、ご開帳はありませんでした。(薬師如来坐像と脇侍仏の日光・月光菩薩像は、2022年4月12日、鎌倉国宝館で展示されました。)脇侍仏の日光・月光菩薩像は、南北朝期の作といわれています。また堂内には、室町時代の作とされる十二神将が安置され、格天井には慶應2年(1866)の作で合計224面の見事な天井絵があります。
また、藤沢七福神として、禅宗のお寺にちなみ布袋尊が祀られています。

︎⚫︎ おしゃれ地蔵

県道44号線養命寺の向かい側に女性の願いを叶えてくれるお地蔵さんがあります。願いが叶ったら顔に白粉を塗ってお礼をするのが習わしで「おしゃれ地蔵」と呼ばれています。なお、二体の像なので、お地蔵さんではなく双体道祖神ともいわれています。

● メルシャン藤沢工場(藤沢市城南4-9-1)

さらに辻堂方面に向かうと、右側にメルシャン藤沢工場があります。

メルシャン藤沢工場(撮影:堀浩侃)

メルシャンは大正9年(1920 )に創られました。ルーツとなる会社は、大日本(だいにっぽん)醸造(じょうぞう)株式会社で、清酒「白雪(しらゆき)」で有名な関西の酒造会社、小西酒造が興しました。

この大日本醸造が、焼酎の蒸留酒から事業をスタートしました。藤沢が焼酎の原料である高座芋の一大産地であったことから立地として選ばれました。その後、いくつかの企業が合併・統合されています。

令和2年(2020)藤沢市が市制80周年を迎え迎えましたが、この年にメルシャンは創業100周年を迎えています。県別ワイン生産量日本一の神奈川県において、メルシャンが9割以上の生産量を誇っています。

高座芋(高座赤)の歴史を見ると、生みの親は、大岡越前守忠相(ただすけ)です。
忠相は、享保17年(1732)の大飢饉の後、恒久的な食糧対策を決意し、薩摩藩から種芋を取り寄せて享保19年(1734)青木昆(こん)陽(よう)に命じ小石川養成所で試作をさせました。翌年忠相は、自分の領地である茅ケ崎の砂丘地に試作品を植え、これが成功したので地元の農家に栽培させ大々的な芋畑へと発展させました。薩摩と富士の火山灰が共通土壌として幸いし、その後幕府の備蓄に多大の貢献をしています。第二次大戦中、高座地区では国策として食糧増産が叫ばれるようになると、農家は桑の木を切って、代わりに高座芋を栽培するようになりました。甘藷は、麦と二毛作が出来、第二次大戦後も食糧不足を補うために欠くことのできない食物となりました。

⚫︎ 引地橋と水車小屋

引地川には橋が91か所あり、橋の銘板(めいばん)に記されている名称は統一されていません。上流では「ひきち」、下流では「ひきじ」と読むのが一般的なようです。現在は神奈川県によって引地川の読み方が統一され、この橋は「ひきちがわ」と書かれていますが、公的には「ひきじがわ」です。引地とは、川の水によって土地が押し出されるという意味があると云われ、また、引地川とは、小栗判官を乗せた手車を照手姫が引き出したところから付けられたとも云われます。

旧引地地区は、引地橋を囲んで、鵠沼、稲荷、大庭、羽鳥と四つの地区に分かれており、旧地番では引地橋から鵠沼1番、稲荷1番、大庭1番となっていました。

藤沢の町を西に向って、台町、車田、引地と馬糞の匂いただよう砂利道をくると、始めてある橋が木の橋で、らんかんの右側の柱に「引地橋」と彫り込んであった。

この引地橋は引地の町内を北より南に流れる引地川にかかる橋である。橋の巾もせまく、荷馬車がやっとすり交う位の巾だった。この川の名は東海道をいききする人が「引地川」とよんだものだろう。

川巾も今日のようにひろくはなく、今の川の三分の一位の巾であったようだ。川は堤防はなく、曲りくねった堀川で、昔は水量も多く、水は人が飲めるようにきれいで、川には鯉、フナ、ウグィ、カニ、エビ、ナマズ、ウナギ等沢山いて、また食べても今のように油くさくはなかった。橋を渡り右下におりて行くと水車小屋があった。これは今でいう精米所で、水の力で米とか麦をつき又小麦などを粉にしていた。この水車小屋は引地の端山藤治郎さんという人が水車小屋を作り仕事をしていたようだ。

城部落の人と稲荷の人は夜行くと、無料で米や麦をついたり粉などひいたり出来た。どうして無料でできたかというと、この水車を廻すには水車小屋の上手で引地川を堰止めて、細い水路に水をまわして水の流れを早くして水車を廻した。この堰が今の柏山稲荷神社の少し下手にあって、これがために引地川の水の流れが悪く、堰上にひろがる大庭耕地の内、城と稲荷の部落の水田が大雨が降ると川が氾濫して、田圃が湖水のようになり、農家の人が大変に困るので、そのおわびに水車小屋は夜にかぎり予約制で城と稲荷の人に精米その他を無料にしてくれたとの事です。

ですから城の農家の人は順番で夕方より夜中の十二時から一時頃まで粉ひき、米つき、麦つきと夜、荷車を引いて水車小屋に通った。自分等子供の頃母親と一緒に夜食の弁当をもって行き、帰りに車のあとをおして帰ったものだった
明治28年生 杉山軍太郎さん「引地川の水車」のお話

【次回】は、第3回 ONSENガストロノミ―ウォーキングin藤沢 コース紹介コラム⑥ 伊勢山公園 に続きます♪

投稿/ONSENガストロノミ―ふじさわパートナーズ

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