一種のラブレター

 2024年1月14日。怪歌という花譜のワンマンライブにて発表のあった"廻花"について自分の感じたことを綴らせてもらう。先に言わせてもらうが、この先に書かれていることは肯定でも否定でもない。自分の受け取った事と変わることの無い彼女への感謝と応援、そして好きという感情に関して書かせてもらっている。

その存在について

 まず、花譜と廻花の存在に対して思っていること。
自分にとっての"花譜"という存在は、花譜の"オリジン"として認識していた。だから、花譜と廻花は今でも自分にとって、当たり前かもしれないが同一人物であり、自分の生活に色を塗ってくれたかけがえのない存在だ。多分、どんな姿でもそれは変わらない。(姿かたちがどうでもいいと言っている訳では無い)

自分なりの分岐の意味について

 ここからは、受け取った情報を自分なりに整理してみたことなので受け流して欲しい。
 なぜ、廻花として登場したのか自分は「彼女が彼女自身の言葉を、より彼女自身として発することが何よりも、輝くことができる方法だった」からだと思っている。花譜という存在は、様々な思いから出来上がった存在で、そこでは彼女自身の言葉は、本当に伝えたい思いとは別の意味として伝わってしまうのではないだろうか。 自分としてはこんな感じに受け取った。

廻花として登場した時の感情

 今まで、"花譜"と"彼女"は別であるような言い回しや歌詞などか多々あった。そのため、いつかは"彼女"として、またはそれに近い形で登場するのではと考えていた。それは自分にとっては待ち遠しく感じていた反面、彼女自身にとって不安でしかないのではと感じていた。自分自身をさらけ出すことにどれだけ勇気がいるのかは知っている。自分だったら多分、その一歩はなによりも重く感じ、踏み出せないだろう。それでも、彼女はその一歩を踏み出して廻花として姿を現してくれた。登場の瞬間涙が溢れていた。ライブ冒頭から感動に涙してはいたが、それとは比にならない程に涙が止まらなかった。自分は嬉しかったのだと思う。その一歩を踏み出してくれたことが。廻花としての姿は、自分の目には勇気そのものに見えた。一歩踏み出せばなんでも出来るんだよと、そう言われている気がした。

廻花としての楽曲について

 自分の創った歌が受け入れてもらえるか。まず、これが一番に不安になる部分だと思う。さらに、廻花としてそれを歌うことはさらに不安になったのではないだろうか。それでもその姿で歌ってくれたことに感謝を。そして、素晴らしい曲をありがとう。普段あまりいえなかった言葉も含め、ネガティブになりながらも、時には明るく、でも時には暗く、優しい言葉が心に染みました。堪えきれなかった涙がマスクにシミを作っていました。これからの新しい曲が楽しみです。

最後に

 見えたとか、感じたとか、書いてますけど実際には目は霞んでよく見えなかったし、感情はぐちゃぐちゃで分からなかった。でも今こうして言葉として表せるのなら、これがその時見て感じたことなのだと思います。花譜という存在は、いつまでも自分にとってかけがえのない存在ですし、廻花も同じようにかけがえのない存在です。要するに、彼女のことが好きであることは変わらないということです。色々むちゃくちゃなことを書いている気はするけど言いたいことはこれだけです。これが全てです。この先も、ずっとついていくぞ!

パンフを読んだ後の追記

 花譜ちゃん強いなぁ。自分が思っていたよりもずっと強い。今までの考えが失礼に思えてきた。恥ずかしい。やっぱり自分の捉え方も様々な捉え方の一つなのだと実感した。この先も多分そういうことはあるし、間違うこともあると思うけど、いろんなことを知っていけたらいいなと思います。

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