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南米におけるサッカーとは

かれこれウルグアイにきて2年が経つ。

自分がサッカーボールを蹴り始めたのはたしか5歳の時だったと思う。

それから約20年経った今でもボールを追いかけ続けている、それも南米ウルグアイで。

ここまで来るのに、本当にいろいろなことがあったがどんな時もサッカーを通じて学び続けてきた。

サッカーがここまで世界中でプレーされ、人々が熱狂できるのはサッカーが特別な感情をもたらしてくれるからであり、そして新たな世界を見させてくれるからだと思う。

そしてここ南米では、当たり前といえばそれまでだがサッカーというものの捉え方が違うことに気づいた。

ウルグアイや隣国アルゼンチンではサッカーのファンたちが歌う応援歌のなかには、応援するクラブチームこそが自分たちの人生であり、喜びであり、唯一無二の存在だという歌詞がよく出てくる。

ウルグアイ人やアルゼンチン人にはサッカーとは人生そのものであり、喜びであり、替えのきかない存在である。

またサッカーとはどんなスポーツかを問われたときに、サッカーとは時間とスペース、そして騙し合いだと答える。



多様性

僕がウルグアイで過ごしてきた感じるのは、みな自信に満ち溢れていることであり、また一人ひとりの個性を尊重する空気感があることだ。

僕が日本で生活してきて感じてきた”周りと同じことが求められる”あの空気感とは正反対の世界だ。

サッカーは11人それぞれが違ったポジション、役割を担っていて、それぞれが自分の個性、強みを活かしてプレーするものだ。

日本ではなぜか、一度そのチームに所属したらそこで試合に出れるかどうかに関わらず、最後までそこで頑張らなければいけない空気感みたいなものがあるし、そもそも部活動としてサッカーをやっている時点でチームを変えるという選択肢が選びづらいことは明らかだと思う。

サッカーは試合に出て自信を得ていくものだと思う。

練習でいくら技術を高めようとも、試合でその技術が発揮できるかどうかは保証されていない。

自分が持っている個性や強みを発揮できるチームでプレーすること、そしてチームを選ぶ選択肢があることが日本では当たり前でないように感じる。

練習を疎かにしろと言いたいわけではなく、前提が整っていないということだ。

ウルグアイでは、育成年代から頻繁に他チームへの移籍が行われている。

毎年のようにチームが変わることも珍しくない。

海外のサッカー選手が試合のなかでミスしたときに周りのせいにするのはよく聞く話だと思うが、それは自分への絶対的な自信からなんじゃないかと思っている。

周りのせいにするのは必ずしも良いこととは言えないが、プレー中に限って言えばプラスの方向に働くことのほうが多いと個人的には感じている。

またピッチに入った時点で上手い下手は関係ない。

唯一絶対なのは、11人共通の目的「ゲームに勝利する」ということがあるだけだ。

勝利を求め、それぞれの選手が強みを発揮する。

そのなかで感じる様々な感情こそがサッカーの一番の醍醐味であり、プレーヤーのみならず、ファン、サポーターすべての人たちを巻き込む体験となる。

ウルグアイの選手たちが発するエネルギー、生命感、野生味みたいなものは内なる自信から来ていると思わされる。

そしてその選手個人が発するエネルギーは、チームメイト、相手選手、サポーターなどその場にいる人たちに影響を与える。

チームやサポーターが一つの生き物のようになったその瞬間、大きなうねりをともなったプレーが生まれる。



最後に

僕が人生の大半の時間を費やしてきたサッカーは常に新しい世界を見せてくれる。

日本でサッカーに関わるより多くの人たちがその素晴らしさに気づき、触れる機会が増えればいいと思っている。

サッカーは誰かの自信を奪うものや、恐怖、トラウマなんかではなく、もっと素晴らしく最高なものだから。








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