モーツァルトの頭から溢れ出す音楽―『ジュピター』交響曲

 好きな作曲家は誰かと聞かれて、モーツァルトと答えることはない。あまりに当然だからだ。(同様の理由で、好きなオーケストラはと聞かれてウィーン・フィルやベルリン・フィルと答えることもない。)
 モーツァルトに魅了された人は数知れない。ゲーテにとって音楽はベートーヴェンではなくモーツァルトのことを意味したし、ニーチェでさえモーツァルトの音楽を聴くことの出来る喜びを手放しで語っている(『善悪の彼岸』245番)。神学者カール・バルトも彼を愛しエッセイまで書いている。
 『アマデウス』という映画がある。私の中のモーツァルト像に大きな影響を与えている作品だ。「宿敵」サリエリがモーツァルトの音楽を聴く場面がいくつかあるが『フルートとハープのための協奏曲』のスコアを見て(音楽家だからスコアを見れば頭の中で音楽が再現される)そのあまりの美しさに写譜をバサバサッと落としてしまうシーンがある。あれは名シーンだ。曲と表情が見事にマッチしている。
 小林秀雄の『モオツアルト』の中でモーツァルトの創作について書かれた箇所がある。確か手紙だったと思うが、モーツァルトは「構想が一瞬のうちにすべてを見渡すような形で頭に浮かんでくる」ということを言っている。あとはそれを楽譜におこしていくだけなのだ。(『アマデウス』の中でビリヤード・ボールを弄りながら羽ペンを勢いよく走らせている場面が思い浮かぶ。)
 私がモーツァルトの天才を確信する曲は最期のシンフォニーである『ジュピター』だ。曲名はその完成度の高さから後世に付けられたもの。「終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいるかの思いがした」というR・シュトラウスの言葉は有名だ。
 シュトラウスは天国と言ったが、坂本龍一はこの曲を「悪魔の音楽が長調で書かれたもの」と言っている。この表現には深く共感する。『ジュピター』の終曲は人間離れしたモーツァルトの頭の中の構造を垣間見ることの出来る音楽ではないだろうか。複数の音=声部が交差し、響あいながら疾走していく。同時並行的にいくつかのフレーズが進行しているにも関わらず少しも破綻することがない。その手腕は人間離れしているものとしか言いようがない。
 この曲を聴き終えた時の気持ちは複雑だ。「天国」にいる気はしない。私の胸には興奮と悲しさが同居する。こういう音楽が書けてしまうモーツァルトの幸福と悲しみに思いを馳せることしか出来ない。なんとも言い難い表情をしているパウル・クレーの「歴史の天使」を思い浮かべたくなる。
 大学1年生の時の授業で「モーツァルトの音楽はシンプルだ」と口走ってすぐさまに反論された記憶がある。確かに『ジュピター』を聴けばシンプルなどと言うことは出来ない。指揮者でピアニストのダニエル・バレンボイムは言った。「音楽には3つの種類がある。素晴らしい音楽、つまらない音楽。そしてモーツァルトだ」。モーツァルトは唯一無二、そのとおりだと思う。

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