何故究極の私的行為に耐えられるのか:マーラーの音楽について

 「いずれ私の時代が来る」という言葉を残してグスタフ・マーラーはこの世を去った。その予言通り今や世界中のシンフォニー・オーケストラがこぞって彼の曲をレパートリーとしている。オペラ座の監督を務め多忙な日々を送る中彼はその夏の休暇の間に集中して交響曲の創作に励んだ。そのシンフォニーたちは1番から最後の9番にいたるまで、まさに厳格で要求の厳しい劇場支配人の知られざる内面性、彼の人生の歩みそのものである。
 マーラーの表現は時にグロテスクであり、キッチュでありナイーヴである。そんな「お行儀の悪い」音楽は当時のウィーンに住む上流階級の人びとに受けが良いわけがない。指揮者としての評判は上々だったようだが、作品の受けは当時それほどよくなかった。彼の死後、その弟子たちがその音楽を粘り強く紡ぎ続けたこともあってのことだがマーラーと同じくユダヤ系であり、指揮者であると同時に作曲家、さらにはニューヨーク・フィルハーモニーの監督というポストにいたるまでの共通項を持っていたレナード・バーンスタインがまさにマーラーに憑依せんとばかりにのめり込みマーラーの評価を一挙に世界的なものにまで高めた。
 しかし、何故我々はマーラーの本質的には(特に彼の持つ死生観に置いて)パーソナルなものであるはずの交響曲(あるいはそのほかの作品も)を熱中して聴くことが出来るのだろうか。ある人の極めて個人的なものを前にすると拒絶したくなることが多々あるにもかかわらず。
 それは一つには個人的表現が、言葉の中にではなく調べ(die Weise)の中で表現されているからではないだろうか。「私の人生は辛く、困難に満ちたものである」という告白が言葉ではなく調べによって、例えば60分流れ続けても我々はそれをしっかりと座席に座り込み耳を傾け聴くことが出来る(もちろん万人がそうとは限らないが)。マーラーに限らずともドイツ・ロマン派の音楽はその内省的傾向を徐々に強めていったがその作品の多くは現在でも人気のレパートリーである。
 アドルノがこのようなことを言っている。「ベンヤミンは言語についての初期の論文において、事物が持つ沈黙の言葉が、それより高度で、その言葉に類似した言葉へと翻訳されたものが、絵画や彫刻ではないかと想定している。その伝によるなら、音楽については、こう想定されるかもしれない。純粋な音として、名を救うのが音楽であると」(『ベートーヴェン 音楽の哲学』大久保健治訳、262頁)。
 濃密な個人的記憶に普遍的な表現の翼を与えることの出来る一つの究極のレトリックとして、音楽の調べ―die Weise―は存在しているのではないだろうか。

                 ―マーラーの第1交響曲を聴きながら

                               M2:E

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