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理論と感性③

現代文で習った桑原武夫の第二芸術論に次のような話があった。
 大家の俳句と、素人の俳句を混ぜ合わせ、作者名がわからない状態で優劣をつけさせるという実験をした結果、参加者が全然正解しなかった。このことから、桑原は俳句や短歌などの短詩に対して作者名や党派などの文脈のみで評価されていて、作品のみからは優劣をつけられないと批判した。
 私は長い間この実験結果に疑問を持っていた。自分が最近歌集を読んだり、自分で作ろうとすればするほど、有名な作品や好きな短歌には確かに煌めきがあり、自分のものとの明確な差を感じていたからだ。
 
 そして、短歌でこの実験をやってみることにした。今回、俳句ではなく短歌を選んだ理由は、最近短歌が流行っていて実験用の短歌を用意しやすく、桑原の批判は短歌も含めた短詩への批判だったため短歌を選んでも実験の本旨から外れないと思ったからである。この実験のために自分が好きな歌、有名な歌人の歌四首と、AIや自分が作った芸術的な価値のない歌四首を用意しどちらが歌人が作ったものか当ててもらった。
同い年のあの子はどういう基準で選ぶだろうか。私が感じた煌めきは本当に煌めきなのか。もしかしたら私の感じた煌めきなどほんとはなくて私も作者名で判断しているのだろうか。いや、きっとあの子も私が感じた煌めきを感じ取ってくれるはず。そのような期待と不安を持ちながら返信を待った。

 結果は、作者名、文脈なしでも歌人の歌の方を選ぶ人がかなり多かった。世間的に良いとされる歌には大勢の人が確かに感じられる「何か」があるようだ。

 ではなぜ先の実験結果になったのだろうか。実験に使われた当時の俳句に芸術的な価値がなかったとは考えにくい。私は桑原自身や実験の参加者は俳句を判断するのに十分なアンテナを持っていなかったのではないかと考えた。アンテナのない状態で作品の良し悪しを判断するのは、目隠しした状態で部屋に何があるのか当てようとする様なものだと思う。
 
 このような批判は他の分野でもよく見受けられる。例えば、美術でいうと、ゴッホは良い画家だと言われているからそう思い込んでいるだけ、無名の頃は実際絵が売れてない、絵自体に芸術的な価値はないというような批判だ。しかし、これは本当にそうなのだろうか。私は、誰が作ったか、どういう歴史的な意味があるかなどの「理論」のみでアーティストが有名になることはないと思う。いつだって、まず大勢の人の「感性」に訴えかけ、そこで芸術的価値が認められ後から理論付けされていくからだ。言葉にできない感動を言語化していく過程で理論が生まれるのではないか。
 
 いつだって私たちにとって確実なのは「自分が何を感じたのか」だけだからだ。

「感じることだけが全て。感じたことが全て。」
 フラワーカンパニーズ「深夜高速」より






〈参考〉実験に用いた短歌
 1
a もっと好きになってください 星は降ってください 言葉はわからなくなってください

b 真っ白な中学生に近づけば壊れたままの国が好きです

 2
a 摩天楼で光合成は出来ないからと呟く君の記録的熱量

b あっ 逆光の中で君は ゆっくり振り返る 
ください 指令を

 3

a 歯を磨きながら死にたい 真冬ガソリンスタンドの床に降る星

b 星が逆流するらしい アフリカの 真冬ガソリンスタンドでは 
 
  4
a焼肉とグラタンが好きという少女よ 私はあなたのお父さんが好き
bチワワとプードルが好きという少女よ 私はあなたの一時性が好き

〈出典〉
1a青松輝 bAI
2a自作  b青松輝
3a穂村弘 b自作
4a俵万智 b自作

2022.9.6
(高3の夏休みの課題として提出した作文)

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