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理論と感性②

私は、もともと、芸術とは100%「感性」のものだと思っていた。センスのある人が、自分の感性で直感的に作品を作り、その良さは説明できないものだと思っていた。しかし絵の歴史や背景について知ってから美術館に行ったり、短歌をやっている人のスペースを聞いてから歌集を読んだりした結果、この考えが揺らいだ。私たちが普段何気なくいいなと思っているものの裏に思ったより堅固な「理論」があることを知ったからだ。ここでいう「理論」とは技術的な言語で説明できる作品を面白く感じさせる理由のことで、例えば絵画だったら、この構図が見ている人を不安にさせる、この色が補色、このモチーフは○○を暗示している、などだ。
そもそも芸術とは理論での裏付けがあるもののことをいう。たとえば同じ音楽でも理論で系統づけられていないカントリー音楽や流行りのポップスは芸術としての音楽とは区別される。また一見理解しづらい現代アートにもどういう意図で作っているのかという建前やコンセプト、歴史的な流れなど理論の部分が割とある。こうした理論を知れば、作品を理解しやすくなるだろう。
 しかし、芸術の中心が理論かといえば、それは違うだろう。

品のいい、よくできた短歌なんていらない。自分と世界を書き換えるような一首を。一瞬にも永遠にも見えて、それは、光そのものではなくて、光に限りなく近づくこともある。技術的に構成されてしまう、無数のにせものの光たち。わたしたちは光に騙されながら、光に裏切られながら、行く。出会うために、まだ知らないものに、まだ知らない自分自身に 
 /青松輝「hikarino/蜂と蝶」あとがきより

私たちは、理論のみで良い作品を作ることはできない。「感性」というナマモノはいつも中心にある。初心者が理論に則って作って必ず良い作品になるわけではないし、理論によってそれらしくはなっているが中身を伴ってないようなものを生み出したりもする。理論をある程度踏まえた上で、最終的に芸術は、鑑賞者に生まれた感情によって評価される。そこに曖昧さがあるからこそ多くの人を虜にするのではないだろうか。一度うまくいった手法でもう一度描いて良い絵が描けるとは限らない。理論を取り去った後に残る不確実性が鑑賞の魅力なのではないか。

(理論と感性③に続く)

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