自分を愛せないんじゃなくて人に愛されないだけ

登録はしたものの、三カ月近くノータッチだったnote。

何か書いてみようと思って、とりあえず今自分の首をかーなーりー絞めているお題について話してみようと思います(書くの方が正しいですかね)。


よく「自己肯定感が低い人は自分を愛することからはじめよう」みたいな啓発記事あるじゃないですか。私は「メンタルがお亡くなりになってもヘラヘラしちゃう」略してメンヘラなので、そういう単語をよく検索エンジンにかけるのですが、大体自己肯定感がどうのこうのって出ます。

そもそも自己肯定感とはどういうことなのか。

このサイトの著作権の扱いがイマイチよく分からないので引用は控えるのですが、総括すると「自分が駄目な人間でも『それでいい』と思えること」を指すらしいです。それが「自分を愛する」ということと。


はあ


この世の中には自分を愛せない人はいるでしょう。自分のことが嫌いで仕方なくて、そんな自分が生きていることが許せなくて、それで自己否定を続ける人はいるでしょう。その人こそが「自己肯定感が低い人」だと思います。

その人には「ダメだっていいじゃないか」「生きていてくれるだけでいいんだよ」みたいな歌詞が刺さると思うんですよ。私も数年前まで自分のことが大嫌いでした。正確に言うと、勉強も人付き合いも何もかもが下手くそな自分が大嫌いでした。「生きていても何にも良いことないし、使えない自分なんて居ても仕方なくない?」と思いました。その時、高校生。

まあ、そんな思春期真っ盛りの私にはそういう「ダメでもいいんだよ」系の歌がものすごく刺さったんですね。所謂「救われました」っていうやつ。


でも私、思ったんですよ。

別に私、自分のこと嫌いじゃないなって。


私、よく見ればそれなりに可愛いし、勉強もそこそこできるし、料理だってできる。お酒は強いし、友達の相談にも乗れるし、創作で人に褒められたことだってある(なんか書き出していて「大したことないな」って思い始めちゃったけど)。


私、自分のこと嫌いじゃないんですよ。そこそこで生きている自分を受け入れているんですよ。


でも世間は違くない?


世間は私のことを「調子乗っている」、「痛い」、「馬鹿」とかカテゴライズするんですよ。だって、世間から見た私はそうだから。

いくら私が自分を愛したところで、世間が、周りが私を愛していないんだから、そうなんじゃない?と思うんですよ。なぜなら私は主観的にしか自分を見ることができないから。

己に客観的評価を下せる人はいますが、それでも無意識下でフィルターが入ると思うんです。真の意味で自分を客観視できる人間なんて存在しないと思うんですよ。客観的評価は、第三者にしかできない。その第三者が私のことをそう評価するなら、私はそういう人間なんだろうなと思うのです。

私が自分のことを好きでも、周りは私のことを好きじゃない。だったら、それが正しいんだろうなと、私は今日も卑下するんです。

「ちゃんと分かってますよ」って。

逆切れですね。


ここまで書いておいて、結局は私も自分のことを好きじゃないんじゃないかと思えてきました。あ、好きじゃないわ。

「客観的評価がすべてじゃない」と人は言いますが、それってプラスな評価をもらった人か、マイナスの評価をシャットアウトできる人じゃないと出来ないんですよ。それと、自分にちゃんと自信が持てる人。


自分に自信がないから、自分の評価を信じられず、第三者の評価を鵜呑みにするんです。だって、自分が信じられないから。本当の意味で自分を愛せないから。拗らせてんなぁ。


自分のこの習性はずっと周りから否定され続けたからだと思っています。家族からも同級生からも友人からも、私は虐げられ続けました。大学に入ってから環境がガラリと変わって、私の生きてきた世界がどれだけ荒んでいたか気づいたんですね(大学の友人には「お前の家族も地元の人間も全員クズだな」と言われる始末)。


「私がこんなになったのはお前らのせいだ!責任を取れ!!」


メンタルがお亡くなりになる度にずっと呪詛のように唱えてきました。

でも人のせいにしたところで、私のこの考えも、すぐにお亡くなりになるメンタルも、人より弱い胃腸も、何も変わらないんですよ。ただ虚しくなるだけ。


そんな人間が今日も日本の何処かで息をしています。

気が向いたら更新するnoteですが、よろしかったら野次馬感覚で覗いてください。


わらびもち食べたい。





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