海霧が見えた

朝、短い橋の上から海霧で覆われて光る水面が見えて、めちゃくちゃいい日じゃんって嬉しくなって会社に行くと、賞与を少し多めにもらえた。宅録に使えるスピーカーか、カッタウェイの入ったアコギかガットギターがほしい。

昼には宇宙一美味しいらーめん屋の特に美味しくできたというらーめんを食べ、うまい!!としていると、お話するのは初めての各地で音楽をしている方からMV出演のお誘いを頂いた。面白くて嬉しくなり、人になにかを頼む敷居はもっと低くあって良いのだなと思った。つくづくこの町は変で面白い町である。

100%が自然の結晶によって作られた朝の海霧を見てからは、人工物である電灯に照らされた夜の海のことを思い出していた。双方に優劣はつかず、きれいな海面がただ風に撫でられるように揺れていて、それをただ見ていた。

夜の海を見た町で昼に食べたお米は蒸気を上げながら光を発していて、これまで食べたお米の中で一番おいしかった。口に頬張って咀嚼している時、今、自分の目は輝いてるんだろうなと自然と確信を持ちながら箸が進んで、新鮮な生卵がついたおかわりの一杯までぺろりと平らげた。

見たくないものも見ざるを得ないし、触れたくないものに触れなければならないところが嫌だった。自分のすることを自分で選ぶことご出来ず、したくもないことを避ける余地がないことがたまらなく嫌だったのだと気付いた。夜道で蹲っている人がいても、みんなその人が病人か泥酔者なのか判断出来ず、その前を通りすぎている。緩やかに首を絞められているみたい。誰もが嫌悪感や疑心を持ちながらもこの光景に慣らされてしまっているのは悲しい。

わたしが今ここにいる理由、自分の行動や感情に対する強制がないからかもしれない。見たくないものは見なくてよいし、触れたくないものに触れなくてもよい環境がある。勝手に自分の中に入り込んでくるものが少ない。その分、見たいものや触れたいものを見たり触れたりできる環境も少ないというさみしさも持ち合わせているけどね。

とても悲しいことだけど、どうしたって見たくもないものや触れたくないものがある。過剰なまでな人為が働いたものが結構嫌いなのだと最近認識した。取り繕った楽しさの過大表現、着飾ったロックバンド、長髪を頭のテッペンで結って刈り上げた側面を過度に露出している風貌、そんなものが好きになれないのもそういうことなのかと腑に落ちたように思ったりした。

反対に、ただそこで光っている月や揺れる草木を見ては、しなやかの強さをうらやましいと思った。何かを嫌いであることはとても悲しい。毎日跳ねた髪で会社に行ってしまうことも、箪笥から引っ張り出したセーターに虫食いの穴がぽっかり空いていることも、いつの間にか気にしなくなってしまっている。靴のサイズが23.5㎝だった頃のことはまだぼんやりと覚えているのに、次第に鈍くなったり折れていくものに気付かなくなっていた。半夏厚朴湯をのみ続けたら喉の苦しさもなくなるのだろうか。

The Birthdayのなぜか今日はという曲がものすごく好きで、初めて聴いた時に歌詞を「何故か今日は刷新なんて起こらない気がする。だけど裏側には何かがある気もする。」と聴き間違えてそれをずっと口ずさんでいる。


さて、おGIGです。日曜日にはkinderwalls ナオトの個人企画に呼んでもらいました。去年、同じ場所でナオトが呼んでいて観に行ったSunday document、今年の初めに交流が始まった未遂、岡山で良い企画を打つ企画がっている山上君(勝手に知ってる)がドラムを叩くalligatorや活動頻度少ないけどめちゃくちゃ良い音楽をしているmatou.も一緒でとても楽しみな一日。2019年はkinderwallsに始まりkinderwallsに終わるのだ。あのピアニカの入った新曲が聴きたい。

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