I love you. の翻訳は、蓋し「あなたといる時の自分が好き。」ではないだろうか。
優しいものとか綺麗なものが好きだけど根底としてぶっ壊すぞ噛み付くぞといった凶暴性を孕むものに惹かれるのは何故なんだろう。
相反するものが共生し調和していくことで、それぞれ魅力は際限なく引き立てられ合うのだと思う。尾道も音楽も人の思考もそう。
タイトルは芥川賞作家の平野啓一郎さんのエッセイ『考える葦』の中に記された恋愛感情に対する考察。
最新作の『ある男』では、亡くなった夫が実は名前も過去も偽って生きてきた全くの別人だった妻を通して、大切な人のことを本当はわかってないかもしれないという「漠然とした不安」をミステリー仕立てに描く。
ネット社会と人の関わりに関して平野さんが語るこのインタビューが面白い。『ある男』を読み終えた時にまた読み返したいと思う。
平野さんが提唱する「個人」で括られる自分の中にも、状況によってその都度キャラを変えながら生きる「多種多様な自分」がいるという「分人主義」に強く同意する。
私が私の思い描いていた人とは全く違う別人になっている事が度々ある。
”自分の中に「複数の人格」がいると認めることは、「絶対的な一つの自分」を求めてしまうマインドからの解放でもある。”
”家庭では、オフィスと違う仮面をかぶっていたとしても、ある意味自分らしく生きていることになるのではないか。”という考えに関して、他人にはそう思えても自分にはうまく当てはめる事で出来ずにいる。自分の複数の人格をどれも本当の自分であると認識していて、それが自分の思い描く自分とぶつかる。自分がこうありたいと求める人物像は一方のみで、もう一方は大きく乖離しており、どちらも本物である故に嫌悪感を覚え、自分を否定して理想的な自分でいられる瞬間のみを求めてしまう。とても浅はかであり、ナルシズムも最たるものなんだろうなぁと思う。けれど、他人に対しては寛容でありつつ、良いものは良い、嫌なものは嫌という思考は自分に対しては過度に働いてしまい、理想の自分でいる事を理想とするのだからその時点でまったく抜け出しようがない。それ故に数少ないながらも理想の自分でいさせてもらえる地下のようなところに縋ってしまっているのは、あまりに醜いがそれ以外になにもないのである。
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