研究と就職と趣味と

 【研究と就職と趣味と】

明けましておめでとうございます。Facebookに流れてくる去年の総括・新年の抱負が例年になく多い気がしますね。新年を迎えた気にならないと母親と年明けに話していたこともあり、やはり去年の一年をまとめる作業が必要だな、と。超長文です。8000字超えました。書くことで整理されるのならば、このことで去年の区切りがつけばよい。

・研究
 研究のことを外の人に話す機会があまりないので、ここで思いの丈を一年間分吐き出したい。ちゃんとした形で自分の研究を発信する機会が、研究室以外では一度だけしか昨年はありませんでした。なので、話したい気持ちが積もりに積もってる。研究とは何か?という、研究のそもそも論に対して自分なりの決着をつけた…それに伴い、教育学の博士課程には進学しないという、ここ数年で最大級になるであろう決断にも至った…
 現時点で、私の進める研究は「高校における読解教育が、大学の専門分野別の教育にどのように接続されているのか」とまとめることができます。一般的に高校以前の教育段階では、読解力とは国語のテストで測定されるものと理解されるといえるでしょう。しかし、一旦、大学に入学すると、この読解力という用語は使用されなくなります。(一方で、文献講読演習ゼミなどでは「深く読め」などどいわれました。初め「なんと曖昧な指示なんや!!」と憤慨してました。)そもそもの私の研究関心の発端は、「大学教育では読解力がどのように捉えられているのか?」でした。なので、最初に選んだ読むべき文献は、PIAACやCLAなど大学生相当の年齢層を対象とする、文章の読みの能力に関する測定研究が主でした。しかし、これらのテストで測定される読みの能力は果たして大学教育で必要とされる「読み」なのでしょうか?説明文の文章の読みに関してテスト測定することで、「読解力」の測定としてしまっていいのでしょうか?物語や専門の文献、地図、SNS、楽譜など「読む」対象はいろいろ様々です。しかし、同じ「読む」であっても実際の認知メカニズムは全く異なるはずです。

 (もともと学部段階では、この「読む」認知メカニズム自体を解明したいと思っていました。しかし、「脳情報学」など現在の脳活動イメージングの研究がかなり基礎的な段階でとどまっていることを知り、この方法論では無理かなと今現在は考えています。例えば、fMRAでは脳活動を数秒単位でしか測定できないので、読みという連続する複雑な脳活動を測定するには適しません。また、認知心理学での読みの研究では、一番影響力のある専門書とされるものが1983年に出版されたもの (van Dijk & Kintsch, 1983) で、しかも最終的にやっていたことが「小学3年生レベルの文章題を解く」だと知ったときにはその本を投げ出しそうになりました。大学院入試までは「コンピューターに本を読ませたい」が研究の究極のゴールだと考えていました。ディープラーニングのおかげでゲームにでは人間を圧倒し始めたAIも、人間固有の現象である「読み」ができない限りこの先は伸び悩むだろうと。ということを語ったおかげで院入試は突破したのかな、おそらく。情報学によれば、コンピューターは文単位で翻訳をすることができますが文章はまだできないなようです。なぜならコンピューターは言葉を相関の大小で、繋がりの強さで並び替えているからであり、意味を理解していません。また、文の理解から文章の理解、果ては本の理解へと理解のレベルがどのようにつながっているのかに関して、未だ人間の認知機能は明らかになっていません。例えば去年の春先にニュースになった「東ロボ君」プロジェクト。あのプロジェクトは、意味を理解せず関連度合の強い弱いだけで計算をするコンピューターが東京大学の入試においてどこまでパフォーマンスを出せるか、という新井先生曰くは「はなから無理な」プロジェクトでした。なぜなら論理(演算など)や確率、統計はコンピューターに実装できても、意味を理解する第4の数学言語は未だ数学にはなくAIに実装できないからとのことでした。チョムスキーの生成文法も、人間には言語を理解する特有のorganがある!という身も蓋もない結論のようです (田中, 1990) 。)
という上記のカッコ内の事柄を寄り道(お勉強)した挙句に、たどり着いた研究関心が「大学の専門分野別で行われる読みは異なるのではないか?」でした。

 (この学習することとは「お勉強」か「研究」かでも散々悩みました。新しい知見を生み出さない、つまりそのテーマで論文を出版しない限りは大学において学習は「お勉強」となる、ということを理解するのに実に半年かかりました。これこそ、大学の初年次教育などで一番先に教えられるべきだと思う。特に、研究大学ならば…)
 この研究テーマには、私自身の体験も反映されています。私は学部時代は認知心理学で人間相手の実験を学んでいました。認知心理学の領域では、どういう実験デザインでどういう結果が得られたのか、が最も重要なことでした。一方、大学院では文献主体の教育学の研究法を指導されています。この領域で重要なことは、誰がどういうことをいっていて、その知見は他の学術的知見とどのようにつながるのか?です。なので、教育学の論文を読む際には、著者の主張の比較が重要になります。この論文読みの意識的な切り替えの必要性に初め戸惑いました。そして、この戸惑いを突き詰めていくことが、教授を納得させて「研究者のスタートラインに立ったね」とやっといってもらえる研究対象になりました。分野別での理解は、content area literacyという概念で1900年頃から教育学で、transferという概念で1970年頃から認知心理学で、Ways of Thinking and PracticingやThreshold conceptという概念で1990年代のイギリスのEntwisle, N.などにより、disciplinary literacyという概念で2000年代のアメリカのShanahan, T.により扱われてきたようです。もっとも、大学教育学の始まりは、世界的にはEntwisle, N.による大学授業文化の研究とされ、日本においては2012年に出版された本 (京都大学高等教育研究開発推進センター, 2012) が本邦初の大学教育学の教科書とされています。なので、大学の専門分野別理解に着目した研究の歴史はあまりにも浅いといえます。さらに、その中で読みに特化した研究はさらに少ないです。(ただ、読むべき文献はそれでも膨大ですが…)ただ、やはり同じ研究関心をもっている人はいるもので、山口大学の沖林准教授は認知心理学専攻の院生と教育学専攻の院生の論文の読み方を比較しています。また、Shanahan and Shanahan (2008) は大学における専門家の読みのパフォーマンスを比較し、それを大学の授業で取り入れようとしています。また、Snow, C. (Carnegie Corporation of New York’s Council on Advancing Adolescent Literacy, 2010-11) は、初等教育の読解教育を大学レベルを意識したものへと変革しようという運動をしています。さて、大学教育学における分野別の読みの研究は未だ進んでいません。日本で現在活発に論じられている「高大接続」は、今だ基礎的な研究が足りていないままに、理想論ベースで進んでいるといえるのではないでしょうか?今のところ初等・中等・高等のそれぞれの教育段階で教育成果がどのように接続されているかが、「読み」という最も基本的なレベルでさえ、未だ明らかになっていないのが現状だといえると思います。なのに、今現在、声高に叫ばれている高次な能力である「主体性」や既存の教育成果を踏まえて考えられるべき「キャリア教育」の議論が、実際に有効な実践を導けるでしょうか。また、神藤・石村 (1999) では高大における相互の責任の転嫁の指摘がされています。それぞれの学校段階での接続がうまくいっていないのは、それぞれの学校段階のコミュニケーション不足もあると思います。新しい施策を導入するよりも、まずはここからではないでしょうか?
 (もっとも、学校教育段階におけるズレ、「二重性」は永遠に解消されない問題といえるでしょう。次の学校段階や社会に出た際に役に立つと認識される力(交換価値)と、それらや学問の論理を踏まえて考慮されるべき学校教育(それ自体の価値)は異なるため、「二重性」を持ちます。先生によって実演された対象(授業)と生徒が実際に認識した対象(学習内容)も異なるため、「二重性」を持ちます。また、学習の基本的な要素である読みに関しては、筆者の持つ意図(文章)と読み手の持つイメージ(situation model (van Dijk & Kitntsch, 1983) やメンタルモデルなど)は異なり「二重性」を持っています。(私の今現在の「読みのメカニズム」の結論は、「微視的にはダイナミックな活動を通して巨視的には書き手の静的な枠組みへと当てはめていく、主体による絶え間ない理解の編成」です。))

・就職
 という上記のようなことを考えて「研究」生活を半年間送ってきました。研究生活は忙しいとは聞いていました。だけど、大学院入学前には学部のころよりは要取得コマ数も大幅に減ることだし(実質4分の1!)、時間が余るんだろうなと考えていました。甘い見通しでした。コマ数は確かに少ないのですが、一コマ当たりのしんどさが3倍ぐらになりました。実質、学部時代と変わらない授業によるしんどさでした。さらに、院生内での勉強会や教授との月一の面談、研究室の人間関係によるプレッシャーなど新しい環境の変化に圧倒されたことも研究生活に疲弊した原因ですね。毎年新入生を迎えるたびに研究室の環境は変化しますから、毎年苦労しそうだなと。また、毎月の面談で教授がプレッシャーをかけてくるのです…大学院に来たのは自分で志願してきたのであってプレッシャーをかけられるためじゃない、と心の中で反抗してました。教授はストレスを与えるのではなく、軽減させる存在であってほしい…最低でもあと4年をこの環境下で過ごす見通しは、ちょっともてないな…
そして、博士課程には進まないとの結論に至りました。(それで、素直に社会人になるとなったわけではないのですが…。いつかアカデミアには戻りたい…)臨時に面談を設けてもらい、教授に語った理由は3つ。1.読解研究は様々にあるが決定的なものは未だなく、博士課程中でまとめきれる自信がない。2.僕は新しい知見を生み出すことよりも学習をもっとしたい。3.大学における研究生活が忙しすぎる。あとは、これはまだ強く言えるわけではないのですが、教育学における研究活動に対して疑問を抱いてしまったためもあります。研究者になるためには論文出さなければというプレッシャーはよくあることでしょう。査読論文の提出は一定のレベルを超えた証として博士課程の要件となっています。ただ、図書館の人曰く、「論文(→雑誌)→学術図書→専門事典・教科書→百科事典→定説化」であるとのことです。つまり、論文はあくまで意見表明なのです。しかも、教育学の論の展開は他人の意見を引用して自分の論理を組み立てます。「声が多いまたは大きい方が勝つな」、というのが僕の中に形成された半年間での印象でした。結局、学問としての正当性は議論に対して開かれていることによってしか示されないよな、と。文系はどこまでいっても努力賞なんだよな~と。「教育とは」ということで、各々の理想を実現するプログラムなどは国内外で実施されています。しかし、それらのプログラムでは人的にも財政的にも集中して実施されており、そりゃ教育が改善するよと。プラセボ効果も否定できないのに、統制群も設けないで…。で、そのプログラムの主たる検証が国語のテストの得点向上によってだったと知った時にはなんやねん、と。結論、教育論は財政論に勝てないままです。また、学校教育は努力を肯定する機能は果たしていますが、「かれら(儒学の教育者)は、他人を採点し、侮辱し、いたずらに劣等感のみを植えつける存在ではないか」 (司馬遼太郎, 1972, p.302) や、書き言葉の持つ批判的な潜在能力を効果的に使うことなく、書かれたテクストを重視する中世以来の「再生産的で受容的な」学校教育への批判 (エンゲストローム, 1999) などの指摘は、西洋も東洋も昔も現在も一般論としては変わりないでしょう。「学習者にとっての無理を実現するのではなく、個々の学習者にとっての可能を実現する科学」が教育科学だと僕は考えています。教育と研究(学問)は異なります。学問はコミュニティーで完結することができます。しかし、教育をしなければ、学問コミュニティーは存続できません。また、同じ疑問を抱いたこととして、いま現在多くの文系の論文では統計が重視されています。しかし、統計とはデータ取得法も分析方法も解釈方法も様々です。しかも、「母集団で2つの集団に差がないとする帰無仮説では標本データの説明がつきにくいから、母集団での2つの集団は異なるとする」が推測統計の基本です。しかも、母集団の想定はどの場合でも一律で計算されています。それでいいのでしょうか?せめて、母集団の概数を最初に考慮すべきではないかと考えます…と、考えていたらきりがないので、統計は補助的な道具と割り切ることが必要かな。
 なので、研究室に行って論文読んでたまに発表して学校ボランティアして、という研究生活は楽しく自分の性に合ってるなと感じてはいたのですが、大学の用意する5年一貫の研究者養成コースのレールからは降りるという決断に至りました。このレールにのって研究する見通しが持てなくなったからです。今は、将来は国連で働きたいなと考えつつ、一旦は国内企業に就職しようと考えています。まずは、大きな組織で働き方や組織の動き方を学びたいなぁ。就活情報についてはリンク・アイという、就職人材マッチング会社に任せてます。大学のOB訪問が一番有効な手立てとのことです。今日に母校の進路のしおりを見ていたら、「一生の進路を決めるんだから、そのくらいの厚かましさがあってもいいではないですか。」とOBが述べていましたので、やはりOB訪問をしてみようと考えてます。なんとか最小の労力で就活を終わらせたい。しかし、「社会の現実にふれることによって、むしろ孤独者の純粋な苦悩が如何に稀な、尊いものであるかということを覚ったのである。」 (岡本太郎, p.101, 2002)ともあるとおり、社会に出れば一人で深く研究を進めるということは難しくなるでしょう。でもまあ、最近の僕のモットーは「幸せを全ての欲求の充足と捉えるならば稀な状態。最低限の欲求の充足と捉えるならば生きている限り。」なので、大きく構えていきたいです。
と就活を意識し始めると、企業に関することも最近の考えることの対象に含まれるようになってきました。経済界の考え方が教育界にも浸透してきていることは、「外部への説明責任」「公共経営理論」などという用語によって見聞きます。しかし、こうした考え方により、例えば学生を消費者と見ることで、「学習努力を貨幣、単位や学位を商品と見れば、消費者は「同じ商品なら、より少ないお金で手に入れたい」と考える」(毎日新聞, 170922)ようになります。企業の失敗は社会の一部の損ですが、教育政策という政治の失敗は社会全体への責任に繋がりかねません。最近ぶち上げられた高等教育の無償化についても本当に必要なことでしょうか?義務教育までは万人が行えるようにする教育科学であるべきです。しかし、それ以降は専門へと分化することですし、また進まない自由もあっていいでしょう。また、新しい能力などがいわれたりもしますが、大学においての「探求する力」は高校での「学習する力」でいいのではないか、と思います。高校をミニ大学と捉えるのは違うと思う。それよりも、教師の忙しさをなんとかしないといけないと思います。「もともと生徒に愛情がない先生ってそんなにいないと思うんですね。もしそう見える先生がいるとすれば、大概の場合、「余裕がない」だけじゃないかな。」(おおたとしまさ, 東洋経済, 170930)もっと先生に1人1人の生徒と向き合える時間を確保する施策が優先されるべきでしょう。先生の仕事をひたすら拡大する施策はこの目的からは真逆です。研究者については、山極総長が「研究者はじっくりとサイエンスに取り組み、お金がなくてもできるという開き直りや、一度や二度の失敗を恐れない覚悟が必要だ」(山極寿一, 平成29年度博士学位授与式式次, 170925)とも述べています。研究者には、もっとサイエンスと向き合う時間を。

・趣味
 サークル活動や散歩で息抜きをしてます。まあ、研究は好きといえば好きなんですが、やはり机の前にずっと座っていると集中力がなくなるしお尻がいたくなるので。(3時間以上は一ヶ所にいれない人間です、僕は…)サークルの合唱は楽しいです。音楽はいい。特に、目を酷使しないで済む点が現代人にはありがたいww。音楽でも、プロフェッショナルな方々をお目にする機会は人並みよりはかなり多いと自負してます。その方々を見て、リアルタイムで人を感動させられる音楽を仕事にできるのはいいなあ、と思います。同時に、プロフェッショナルとは個々の責任を負うことでもあるなと感じて、その責任の大きさに圧倒されます。(僕はやはり、責任は論文という形ででも取ることで、自分自身からは責任を外したいですね。何としても…)
 合唱はチームプレーです。そして、チームプレーにおいては、特に音楽においては、自分一人が一生懸命にやってからといって必ずしもいい結果につながるとは限りません。それでも、僕の所属している合唱団は「本気の合唱」をモットーとしていて、この「悔いが残らないように一生懸命やる」という姿勢を肯定していてくれています。ありがたいですね。橋本徹 (朝日新聞, 161225)も自身のラグビーの部活での出来事を振り返って、「仮にサポートランの練習を100倍やったとしても、あのミスは防げなかった。一番肝心な、まさにこの時のためだったのに。だからこそ故意じゃなければ、とがめてもしょうがない。人間はミスをする。完璧じゃないんだと。」と述べ、その上で悔いが残らないように一生懸命やることの価値を語っています。このことは、指導者や上級生としての心構えではなく、下級生も含めたチーム全員の心構えとなるべきでしょう。また、指揮者の秋山和慶は「音楽の前では誰もが未熟で対等です。」 (朝日新聞, 171229) と語っています。「目上への礼儀正しさと、年長者の言うことを無条件に聞くことは異なる。」 (中小路徹, 朝日新聞, 170107)しかし、目上への礼儀正しさを忘れられても困りますが…クラシック音楽でガラが悪いのはいけません。
 それでも、音楽を楽しむ権利は誰にでもあるでしょう。今まで、僕は5年間音楽を楽しんできました。ある程度の技量は身に付いたと自負しています。しかし、この技量はあくまで同好団体であるサークルの練習を通して培った我流の産物です。音楽を楽しむうえで、これ以上の技量の上達には専門的な教育が必要だと判断した僕は、初めて専門的な音楽教育を受けてみようと思いました。やはり正規の音楽教育を受けなければ持っている自信は独りよがりなものです。それが正しい方向性を持っているのか?と聞かれても、教育学の研究のように明確に答えることができません。結果的に正しい努力なら報われるでしょうが、もし間違った努力では実を結ぶべきものも結べません。何より他人に指導を求められた際に説得力のあることをいう責任を持てません。なので大阪音楽大学の短期講座で、ある程度の正規教育を受けてみようと考えてます。本当は、大阪教育大学の学生さんらの歌声を聞いてあこがれの気持ちを抱いていたので、大阪教育大学で声楽の授業を受けてみたいと考えていたのですが、正式な入学以外は受け付けていないようなので難しいと判断しました。
 西洋の音楽はやっていて楽しいです。どこまでも底抜けに明るい気がします。単に歌詞の意味をそれほど考えずに、歌っているためかもしれませんが…しかし、日本の歌詞はどこかしんみりとしていて、特に歌詞の意味を考えながら歌ってしまうので、音を楽しむという純粋な気持ちにはなりにくい。特に戦争関連が多いですね。「(第二次世界大戦の)同じ敗戦国ドイツとの決定的な違いは何か。ドイツは2度戦争に負けている。日本は1度しか負けていない。だからわからない。もう一度やらないとわからないとすれば、あまりに悲惨すぎます。だから、言論の中で敗北を疑似的に演じることで封じ込められないかということなのです。」 (AERA, No.6, p.61, 170206)

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