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そして、医者になる

紆余曲折を経て進学、そして、部活を辞めた僕は割と時間を持て余すようになった。しかし、母校の数少ない優れた点である図書館のスペックの高さから多くの時間を勉学に費やすことに成功した。今までの人生で圧倒的に足りなかった短絡的な目標を抜きに勉学に勤しむと言う経験をし、僕にとっては大きな肥やしになったと思う。今でも確たる真実と思っているのは、学問とは道楽である、と言うことだが、その言はこの頃の経験に基づくものである。

アルバイトは、小さな個別指導塾で主任をしながら日本最大のハンバーガーチェーンで裏方の仕事をした。主たる業務は掃除、次いで調理。人前でレジを打つと言った目立つ仕事は全力で忌避した。時給にすると、取るに足らない本当の最低賃金、これで生活しないとならないと言う意味合いを僕は後に深く考えることとなったが、それはまた別の話だ。

それだけ躍起になって勉強していたが、成績が良いとは言えなかった。僕は結局合目的に知識を仕入れると言った短絡的な勉強を好まなかった。それ故に、試験前の詰め込みと言うプロセスはあまり経験せず、取り敢えず、進学できるスレスレを狙っていた。その一方で、このまま普通に医学の勉強をしていても、一廉の研究者にはなれないといううがった自信はあり、それ故に焦燥する日々を送っていた。

そんな僕に転機が訪れる。大学三年生に進級するに当たり、ちゃんと研究室へ通うことを決めたのだ。複数ある候補の中で、僕は解剖学で学ぶことを選んだ。そもそもマクロ解剖が好きだったのもあるが、リサーチとしては全く解剖と無関係なことをしていた。そして、癌とか難病治とかを扱いたいと取っていた僕は古式ゆかしい伝統ある研究室より、新進気鋭の、悪く言えば、混沌とした研究室の方が良いのではないかと、考えるようになっていた。

そして、僕の研究室生活が始まった。与えられたテーマに対して少しでも正確な結果が出るように仕事をこなした。今思えば浅はかさも拙さも生々しく感じるが、とにかく僕ら必死だった。自分で決めたタイムリミットの中で結果が出せるのかと言う事に固執した。自分の中にあった比較的強い信念として、やりたいこととやるべきことは違う、最大限世の中に貢献できることをするべきだ、と言う今のnoblesse obligeと同一線上の信念だった。その意味で僕に才能があるのか、結果を残せるのか、そう言った焦りで日々焦れていたように思う。

忘れもしない2011年の再生医学会、僕は研究の道を辞める一つの契機を得た。近しい研究テーマで遥かに上を行く論理と実験系、そんなものをまざまざと見せ付けられて、僕は自分の費やした物が急に児戯のように思えてきた。そして、企業との絡みで書いていた論文が発表できないこととなり、僕は研究室を飛び出した。若さ故の過激さもあったが、まぁ、今でも決断は正しかったと思っている。その後、周囲の大人達に支えられ、無事に卒業した。細々と実験は続けていき、大学5年生頃までは他のラボでCell biologyをやらせてもらえることとなった。

留学したり何だったりと色々なものを積み重ねたが、所詮は学生時代の余剰時間の投資だ。部活に打ち込んだけど、プロにはなれなかったフットボールプレイヤーと大差は無い。でも、それで良い。そもそも医学部に進学した時から、この人生は自分だけのものでは無いと思っていた。

夢破れて、僕は医者になる道を選んだ。

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