夏の紅葉【小説】
もう終わりにしないか、と冬樹は寂しそうにぽつりと言った。
瑞希の唇は、はっ、と微かな息を吐いたまま、その形で固まる。
茹だるような、暑い真夏の日。
レトロな内装の窓から見えるのは、鮮やかな緑。
青々と生い茂るそれは、真夏の日光を反射して、よりいっそう強く輝いている。
その景色と――冬樹の言葉に身を竦めながら、瑞希は一体なにがいけなかったのだろうと考えた。
最近イライラして、突っぱねるような言動をしたのがいけなかったのか。
片付けが苦手で、冬樹が旅行から帰って来ても、散らかしっぱなしだったのがいけなかったのか。
節約しようと言って、続けられず、自らやめたことか。
理由らしいものなら、いくらでも見つけられる。
でも、それが、冬樹に別れを決意させたわけではないと、瑞希は知っていた。
ただ見ないふりをしていただけ。
ただ考えないようにしていただけ。
冬樹はそっと口を開いた。
「このままじゃ、俺たち、だめになる。瑞希のことが嫌いなわけじゃない。
なのに、どうしても上手くいかないんだ。伝わらなくて噛み合わなくて、もどかしい思いをしてるのはお互い同じだと思う」
二人が一緒に暮らし始めたのは、まだ付き合って間もないころだ。
家族に突き放された者同士、共感することが多く、自然と惹かれあった二人だった。
親から逃げるように、家族からなるべく離れようと、遠くのこの地にやってきた。
冬樹の「画家になる」という夢を叶えるため、美しい自然が残るこの町に住むことに決めたのだ。
彼が悪いわけではない。それは、瑞希にはよく分かる。
観光地で大勢の人がやってくる時期に、個展を開催し、
成功して、
ようやく画家として大きなチャンスを掴んだ――はずだった。
なぜか、彼は、それ以来腕が止まってしまった。
以前は泉のように湧いてきたインスピレーションがぴたりと止み、
頭の中はそれまでの好調が嘘のように、凪いでいた。
何も浮かばない。
真っ白なキャンパスを前に、何を描けばいいのか分からず途方に暮れる日々。
白い紙切れを前に、大切な何かをなくしてしまったと、ただ涙を流す冬樹の前で、瑞希はどうすることもできなかった。
どんな慰めの言葉も、労いも、届かない。
彼は、空っぽになったと感じている。
それまで彼を満たし、力付け、励ましていてくれたものが、なにも告げることなく、きれいさっぱり消えてしまった。
このままでは、と瑞希は何度も考えた。
このままでは、いけない。
芸を持たない瑞希には分からない。それがどれほど苦しいことなのか。
大丈夫だよ、またきっと描けるよと、口にした言葉も空しく、宙に消える。
お前に何ができる。
誰かにそう言われている気がしたからだった。
彼の虚しさを埋めることができないまま、
お互いの間に深い溝を作ったまま、一年が過ぎた。
溝をなんとか他のもので埋めようと、瑞希は努力した。
美味しい物を作り、旅行に誘い、
新たな趣味を作らせようともした。
けれどそれは、冬樹に失ったものを、より強調させる役割しか持たなかったようだった。
礼を言っては寂しそうな笑みを浮かべる冬樹を見るたび、瑞希は責められているような気持ちになり、胸が軋んだ。
親に拒絶されたふたり。
お互い、同じ傷を持ち、励まし合ってきたはずだった。
瑞希の孤独と
冬樹の喪失感と、絶望が、
ゆっくり、ゆっくり、と二人の絆を蝕んでいるようだった。
――きっかけの引き金を引いたのは、冬樹だった。
ただ、それだけ。
意気地無しの自分の代わりに、冬樹がそれを口にしただけ。
なんて優しい人なのだろう、最後まで、と瑞希は苦笑する。
「……わかったよ」
瑞希は頷いて、歯を噛み締めた。
「……ありがとう」
何かを押し込めるように、一瞬苦しそうな顔をしたあと、冬樹は笑った。
我慢していたのに、その笑顔に急に切なくなって、頬を一筋の涙が伝う。
パアッ、と日光が強くなり、
また紅葉の緑が、店内を微かに彩る。
光の粒子が、散りばめられているような美しさに、
ああ、と息をのむ。
――こんなに綺麗だったっけ。
とっても大切で、愛しい日々。
それは、失われてしまうけど、
きっとこの紅葉のように、
色褪せずきらめいて、いつまでもわたしの胸に残るのだろう。
たった今しか見れない、この紅葉のように、
目に焼き付けるしかない。
あなたの優しさも、
傷ついた身体を癒すように包み込みこんだ、温かい日々も。
そうやって、日々はすぎて、
また、新しい煌めきと、色彩を運んできてくれるんだ。
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