見出し画像

ラヂオの時間〜女子高生おもちの場合〜

今回、ミキのラジオに出た事で思い出したラジオにまつわる昔のお話。


わたしが生まれて初めてラジオを聴いたのは幼稚園の頃だった。


うろ覚えだが昔、テレビ番組をリアルタイムでラジオで聴くことができる時代があった記憶がある。
当時、「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」という山田邦子のバラエティ番組にハマっていたわたしは、毎週水曜9時(だったと思う)にその番組を楽しみにしていたのだが、とある日我が家のテレビがいきなり壊れてしまった。
しかもあろうということにその日は水曜日。

「邦ちゃん見れない…」と落ち込むリトルおもち。そこに父が持ってきてくれたのがラジオだった。
映像は見れなかったがラジオから流れる音、声だけでも大好きな邦ちゃんの番組は最高に面白かった。そして後日、友達にビデオを無事に借りる事ができて映像も見る事ができて一件落着。ラジオへの感謝の気持ちが生まれた。


よくよく考えるとこれは「ラジオ番組」を聞いたお初の経験ではない。
という事で思い返してみる。

わたしは小学生4年生の頃、KinKi Kidsにハマっていた。光一くんも剛くんもどちらも選べない!と大騒ぎしたり、地元のお祭りでくじを引いたら2等のキンキのポスターが当たってはしゃぎ倒したり。(このポスター、絶対パチもんのアカンやつやん!と歳を取ってから思ったのだけれど、よくよく思い返してみたらちゃんとジャニーズショップのロゴが入ってた。ジャニーズショップで景品買ってきたのかな…)

熱は上がる一方で、いつしか自分のお小遣いでMyojoなどのアイドル誌を買うようになった。
そこでキンキがラジオ番組をやっていることを知る。

「KinKi Kids どんなもんヤ!」という文化放送の番組である。確か今でもやっているはず。この番組は「斉藤一美のとんカツワイド」という帯番組の中のコーナーだった。懐かしい〜!
この時から色んなラジオを聴くようになったのだが、初めて聴き始めた局というのもあり、文化放送にはちょっとした思い入れがあった。

そしてそれが「文化放送ラブ」になったきっかけの番組が、関ジャニ∞の横山くん、村上くんのラジオ「スーパースターQR」→のちの「レコメン」である。

この番組の木曜担当がヨコヒナだった。わたしはキンキの後にジャニーズJr.のファンになり、その中でもこのヨコヒナと生田斗真、長谷川純が大好きだった。(のちにまさかのハセジュン担になる)

合わせ慣れた文化放送の「1134」、このヨコヒナのラジオをとても楽しみに聴いていた。
そしてとある日。女子高生おもちはこのラジオに電話で出る事となる。

このラジオは夕方頃に「今日のテーマ」がホームページで発表され、それに沿ったメールを送るとプロデューサーに選ばれた人に電話がかかってくる、という仕組みだった。
選ばれると一旦放送時間の数時間前に電話がかかってきて、出てもらえますか→はい出ます、となると放送時間(生放送だった)に電話がかかってきてヨコヒナとお喋りする、というもの。

なぜだか分からないが、わたしは当時この番組のディレクターに刺さりまくったらしく、記憶だと月に1回かそれ以上、半年くらいは毎月出演していた。
今考えると関ジャニの他メンバーよりも頻繁かつ多く出演していたと思う。意味不明である。

初出演の日のテーマは今でも忘れない。「モノマネ陰陽師」という謎のコーナーだった。(1回きりで終わった)
リスナーが出されたお題のモノマネをし続け、ヨコヒナがそれを陰陽師のごとく解く、というもの。20年経って文字にしていても意味不明だ。


「○○ちゃん?」
「僕ドラえもんです」
「○○ちゃんではないの?」
「はい、僕はドラえもんです。のび太くんは今いません」


このテンションで会話中ずっとドラえもんをやり続けた。ものすごくエグ寒かった。芸人のコーナーライブでのロングスベりを、思えば若干16歳で経験したようなものである。

ヨコヒナに「今からドラえもんのモノマネの呪い解きますよ!はい!」と言われたらそこで「あれ?わたしは誰?何してました?」ばりに呪い解けました〜という感じで接して、ちょっとお喋りして終わり。
このエグいコーナーを頑張りやりきった初出演が刺さったのか、ここから怒涛の準レギュラー出演が始まった。

何度も出ていたのであんまり企画は覚えてないのだけれど、

・バレンタイン特別企画、告白の練習をしよう
・4月からの新生活で始めたいこと
・TOKIO王選手権

ははっきりと覚えている。しかもTOKIO王選手権は優勝して1万円貰った。(自分と別のリスナーの1対1でのトーナメント方式のクイズだった)

告白の練習企画ではあまりにも一生懸命告白し、相手役だった横山くんに
「俺○○ちゃんの事好きになってもーたわ…」
と言わしめた。普通にドキドキした。

新生活で始めたい事、の企画では部屋の掃除をしたいと話し、汚部屋話でヨコヒナをドン引きさせた。

こんな風に、数々の企画で番組に携わってきたのだが、1番覚えているのは
「木曜リスナーを取り込もう」
という企画で、応募していないのに水曜日の番組から電話がきた事だ。

当時この番組「レコメン」は月〜木の生放送番組で、木曜はジャニーズパワーでリスナーが飛び抜けて多かったらしい。
そこで水曜日の企画で「木曜日によく出てくるリスナーに電話しよう」となり、おもちに白羽の矢が立った。

その日は確かお盆で、家族でのお墓参りを終えて祖母の家にいた。居間でくつろいでいると携帯(もちろん当時ガラケー)が鳴り、知らない番号だったか非通知だったか忘れたが恐る恐る出るとまさかの「文化放送です〜」だった。
そして先述の企画の趣旨を伝えられ出演を快諾し、また夜の放送時間に電話を取ることとなった。


そして電話に出て話した相手はTOKIOのリーダー…のモノマネをした当時そこまでまだ有名になっていないホリさんだった。

ホリさんも運が悪く、わたしは当時「TOKIO王になって1万円もらう」くらいのTOKIOファンである。すぐにリーダーではないとわかったが、気づいてないフリをして話し続け、最後にタネ明かしされたときに盛大に驚いてみせた。もはやプロである。
「水曜日も聴いてよね〜」みたいな話で出演を終えた。切る前に一旦ADに通話が戻されるのだが、コーナーが盛り上がった事をそこでとても感謝されて嬉しかった記憶は忘れられない。


今回、ミキとの会話があまりに流暢で聴いてくれた友人やらこのnoteの読者様を驚かせた裏には実はそんな経験があった。
そして何より、昔わたしはラジオのパーソナリティになるのが夢で、家でたくさん練習していたのだ。


文化放送準レギュラーになる何年も前、家でラジオ番組のような真似事をしていた。
忘れもしない、番組名は「たまごっちBAN BAN」。榊原郁恵と井森美幸の「お料理BAN BAN」と当時大流行していたたまごっちをもじっている。ダサすぎである。

自分でテーマを決め、リスナーから来たという設定でハガキを書き、友達をゲストに呼んで喋る30分番組。よく出てくれた友達は「みっちー」と「ちーちゃん」。みっちーは「小説家」で、ちーちゃんは「女優」とか、設定つきで番組の最後には「新刊が出ます」等の宣伝もしてもらってた。

オープニングやコーナー中、エンディングで曲を流す用のラジカセと、録音用のラジカセと2つ用意してちゃんと音源も残した。
最初はうまく録音できていなくて、ラジオブースに環境を寄せるにはどうしたらいいのか試行錯誤した結果「布団をかぶる」ことでブースと同じ効果を発揮し、ものすごく鮮明にラジカセで声を拾い録音することに成功。おかげで3歳からの幼なじみのかおりちゃんは、このカセットテープをよく「貸してくれ」と言ってくれていた。家族で聞いていたらしい。

タイマーとストップウォッチも両方用意し、時間もきっちり測った。間のCMも自分でCMソングを歌ったりして15秒、30秒ときっちりやりきった。(当時流行っていた「ごめんね。」という飲料水のCMソングを歌った記憶がある)


思い返してみるとラジオ愛が文字通り半端じゃない。完成されている。当時のおもちもちもち、めっちゃ頑張る可愛い子やな…。

今でも機会さえあればタクシーやトラックの運転手さんのお耳のお供になる夢は捨てていない。アイドルやグラビアと違って、何歳になったってお喋りには限りがないのだから。
なので今回ミキと盛り上がれたのは本当に嬉しかったし昔を思い出した。何より、5月に起こったとんでもない喜怒哀楽プラス病気まで思い切り笑い飛ばしてくれた事で、ようやく気持ちが昇華されて心から笑い話になりスッキリした。感謝しかない。

ちなみに文化放送準レギュラー当時、父は車で1時間半くらいのところで働いていて娘がラジオに出るときはその生放送を聴きながら運転して帰路についていた。エグい。


最後に、当時大好きだった国分太一のラジオにも応募していたのだけれど学校にいる時に家の電話にかかってきてオカンが話してしまい、怒り狂ったわたしは1週間母と口を聞かなかった事は今でも家族の中で笑い話になっている事だけ添えておきます。


彼女は国分さんに「お母さんはTOKIOだと誰のファンですか?」と聞かれ、

「え〜、山口くん?」

と答えたのは伝説。
そこは国分って言えよ。(さすがです)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?