ミッドサマー ディレクターズカット版 見に行ったよ感想&ホルガ村についての考察

ディレクターズカット版見に行ったよ!期待していたほどエログロが増えたわけではなかったけど面白かったよ!クリスチャンしすべしじひはない。
ネタバレまみれなので自衛お願いいたします。

・ダニーとクリスチャン
R15版(正式名称なんていうの)よりクリスチャンの人格がクソクソクソにひどかった。
花束について被害妄想爆発させるクリスチャンの理屈、完全に追い詰められた自分に自信のないマチズモに潰される男性です本当にありがとうございました。マークが性格悪いだけじゃなかった…男四人(ペレは演技かもしれないが)全員そういう感じだったんかーい。
クリスチャンについては自我が薄くてへらへら生きてきて、快楽やその場のノリに流されやすい意志薄弱大学院生、くらいのイメージだったのですが、そこにここまで男社会の自意識が入ってきているとは思いもよらなかった。ダニーぜったいギャン泣き中に押し倒されてセックスでうやむやにされたことあるでしょ。部屋で詰られるシーンでソファに座らないどころじゃなかった。こいつ女の話が聞けないタイプだった。ホルガ村と相性最悪ですね。うん。
あのラストはいくらなんでもひどいんじゃないかなー? クリスチャンもそれなりに頑張ってると思うけどなー? などと言っていた記憶がありますが、撤回します。そもそもクリスチャンはダニーにまったく向き合ってなかったですね。話を聞かなかった代償が、口を利けなくされてくまちゃん。うん。自業自得。因果応報。
家族を亡くしてNO!NO!と泣き叫ぶダニーを抱きしめる冒頭のシーン。まあクリスチャンも若いからこんなんどうしようもできないんだろうなーと思っていたのですが、あれただ時間が過ぎるのを待っていただけかい。ダニーという炎上物体を持て余していただけかい。
お薬のお茶を飲まされてフラフラと食卓に座り、メイクイーンとなったダニーを見るでもなくひたすらラリっている終盤のシーン。踊っているときのダニーのように発散できずにバッドトリップしているのかと思ったけど、あれ冒頭のマッシュルームティーでバッドトリップしたダニーのように被害妄想に陥っていた状態だったんですね。「みんながわたしを笑っている」状態。だから老人に目の前で手をパンッとされて、あんな泣きそうな顔で彼は言うわけですよ。「どうしてこんなことを?」
おめーだよ!!!!!!!!!!!!(ミドリカワ書房)
原因、おまえ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ジョシュのテーマを横取りしようとするときの悪びれない態度。ダニーの誕生日を忘れていたくせに忘れてないと言い張る往生際の悪さ。マヤとの子づくり儀式はハメられたようなもんだし仕方ない…わけでもなかった。「性の儀式を間近で観察する」という口車にフラフラ乗せられたのが前提にあったんかーい。お前「電子図書館の使い方も知らなかった」くらし真面目に勉強してこなかったくせにその場その場の雰囲気に飲まれてヨロヨロすんのやめろやーーーい。ホルガの住民よりも自我がなかったじゃんこの男。びっくりだよ。
ダニーの印象はさほど変わらなかったんですが、クリスチャンおまえにはがっかりだよ。こっちが好意で補填していたところが事細かに描写されたとたん全部撤回だよ。
それにしても本当に失恋映画だったんですね、ミッドサマー。二人の感情が主軸だったのと、ホルガと二人の対比がけっこうあったんだと気づかされました。
あっあと一番ウワと思ったのが木を飾り付けているところに近寄って、マヤにインタビューじみたことをやり始めたとき、あいつメモ帳持ってないんですよ。ペンはあるけどメモするもんがないんですよ。フィールドワークの基本以前の問題だよ。こういう学生が一人ゼミにいるだけであwせdrftgふじこl(私情)おまえおまえおまえ べんきょういやなら院まですすむな。(たぶん)親の金で。くそが。(たぶん)ジョシュは奨学金だぞ(妄想です)。くっそが。

・夜の寸劇のシーン
湖に投げ込まれそうになる少年。捧げもの。寸劇。やけにリアルな小道具。
カットされた理由は白夜というのを印象付けるためかな? ホルガに行く前にペレがいっていた「演劇みたいなもの」というのはここのことを指していたかと。精霊に劇と捧げものをする祭りは世界各地にありますよね。我々にはあなたにこれを捧げる覚悟があります。そのくらいあなたのことを敬愛しています。と伝えるための儀式。
ところでいっこ怖いことを思いついたんですけど…ホルガって赤ん坊、二人いましたよね。アッテストゥパンの前夜、よく泣く子の声が聞こえる中で、あんまり泣かない子が枕の下にはさみを入れられているシーンがありましたよね。
…あの木の中、何が入っていたんだろうね。「すでに最も大切なものを捧げた」みたいなセリフがありましたけど、何が入ってたんですかね~~~…(犠牲は9人って明言されているので違うと思うんですが~~~でも~~~赤ん坊ってまだ人間じゃないって価値観もあるから~~~~そういう薄暗い妄想をしてしまうううう)
その後の「見捨てられ不安」のシーンを含め、この寸劇もダニーの幻覚が多分に入っていると思います。寸劇の儀式は実際にやったんだろうけれど、ダニーが極端におびえているため実際より怖く見えている。見えないものも見えている。ホルガの住人たちのセリフだって、本当にああいっていたのかわからない。むしろあたりが暗いシーンはすべてダニーの病状と被害妄想が見せた幻覚と思っています。バッドトリップしたときの妹の幻覚とか。
幻覚説をとる理由としては、1.アッテストゥパン後の鬱状態で「やめて!」と声を出せるのか? 2.行動したダニーを失笑する友人たち→「みんながわたしを笑っている」被害妄想。行動するとひどい目にあう、という自縛の思考。
ホルガについて、ダンスバトルが始まるまでのダニーってひたすらに「溜め」の状態なんですよね。自分の感情も病状もなにもかも抑え込んでいる。暗い中行われる命を弄ぶような寸劇。わたしだけ置いて行かれるという妄想。何が本当で何が嘘かわからない、五里霧中の不安の中。だからこそラストシーンがめちゃくちゃカタルシスなんだと思います。

・ホルガ村の感情表現と、彼らの感情
前述の寸劇と関連するのですが、朝、マヤが歌う中で村人たちが顔に手をあててクルクル踊る? シーンがありますよね。音楽に合わせてみんなで同じ動きをする。ラジオ体操みたいな不思議な小さな儀式。たぶん日の出ありがとうダンスだと思う。
あれ、演技指導に見えませんか?
このときは、こういう感情を出すんだよ。こういう感情を出すためにはこういう動きと顔をするんだよ。そうすれば周りから、こう思っているとみてもらえるよ。
あとは木馬を壊すシーンとか。手を挙げてきらきらする表現とか。もちろんダンスバトルのダンスだって、ダニー薬入ってるのと相当運動神経いいからついていけたけど、普通素人にぶっつけ踊りさせないですよね。せめて動きのさわりくらい伝えといてやってよ…と思ったり。でもポールの周りの女の子たちはそれを疑問に思わないんです。だってみんな知っていることで、ダニーはもう「みんな」になりかけているんだから。多少は教えてくれるけれど、それも踊りながらでぶっつけだし。
ダンスバトルはあれ、ダニーが運動神経悪くて神経を病んでいなくて薬の効き目が悪かったら、くまちゃんになっていたのはダニーだったと思うんです。踊るという行為を最高の形で、ホルガのルールに則った形でやりきることができたから、ダニーはあのラストを迎えられたんですよね。
この村の日常って、すべてが教わっていない感情を淘汰するためにあるんですね。多種多様な感情の表し方を教え、表し方がわからない感情はないことになる。辞書に載っていない単語が存在しないことになるのと同じ。やっぱりひとつの生き物に、生殖のみを目的とするひとつの感情を共有する共同体になろうとしている。
はあーーーうらやましい。混ぜてほしい。ぜったい混ざれないんだけど。つまはじきならいいほうなんだけど。この村ではアセクシャルの方は生きられないだろう、みたいなご意見を拝見いたしましたが、たぶん発達も生きられないよねここ。ちょっとでも人と違っていたら生きられないよね。だって教わってない感情を知ってるのは異物だもんね…いいなあここで生まれて疑問もなく生きている人!
前回の記事で、造反者や違反者を処刑する目的で夏至祭や冬至祭の火あぶりがあるのではないか? という話をしたんですが、おそらく心身の小さな異常を持つ人、嫌われ者もそれとなーく生贄に仕立て上げられていく壌土がありそうでとてもワクワクします。相互監視社会なんて目じゃないよ。だってみんな思っていることが一緒なのにこいつだけなんか違う、というのは誰だってわかることだから、一致団結して生贄に推薦されそう。怖。
なんだかんだホルガの人々だって人間なんだから、喧嘩もするし窃盗や傷害の事件もあるんだろう。でもその解決方法が現代社会とは全然違うんだろうなあ。前も書いたけど、熱湯に手を付けて爛れなかった方が無罪とかやってそう。法律のない社会において、隣人から嫌われている、なんか馴染めていない、味方が少ないって致命傷だと思うから。精霊の名の元に、立場の弱い方が少しずつ少しずつ生贄に追いやられていく、ジリジリとした焦燥が水面下に渦巻く社会。ひとつの感情を共有しているがゆえに、悲しみはみんなで慰め合うけれど、怒りも共有されている。
だからこそホルガは来訪者を歓迎するのだと思います。怒りは自然発生するし止められない。それに大多数対少数になりがちだから、放っておいたら小さなコミューンは自壊してしまいます。だから彼らには敵がいなくてはならない。なんの躊躇もなく彼らの決まりを破り、神聖なものを汚し、排除されるべき悪の精霊の化身となるべき人間。部外者。よそ者。悪い奴ら。
来訪者がいることで、彼らと対比されたホルガの人々はホルガになり、結束を強めることができる。ダニーのような迎合した来訪者を受け入れることは、外の世界を打ち壊し取り込んだということになる。ダニーの精神がホルガ的なものになったことは、肉体的な死がないだけで、ホルガにとっては「よそ者をやっつけた」ことと同義なのです。
クリスチャンと向かい合ったシヴが「結婚は許しません」と断言したとき、ああ、ダニーは思ったより幸せになれないかもしれないな…と思いました。ホルガは「血統は守られている」村であり、つまり日本でいうところの家制度のような血筋の意識があの人々にはあるんですよね。(北欧ってなんとかの息子なんとかーの文化だっけ…ヴィンランドサガで見たぞ)
パンフレットにはペレと結婚するんじゃないの? という考察が乗っていましたが、どこの血筋の人間でもなく、親兄弟もいない「みなしご」のダニーが果たしてやっていけるのかな? 意識が一つしかない村で、精神疾患を抱えながら?
そりゃ発作が出ればみんな同調して、慰めてくれるでしょう。ダニーの方が悲しいことがあった村人に寄り添うことだってあるかもしれません。でもダニー、朝のダンスでみんなと同じにできる? 見かけだけのルールを守るだけじゃなく、根本からホルガに染まることが本当にできる?
人間が幼少期に受けた教育や社会規範は、そう簡単には変わりません。ダニーがダンスバトルで獲得したスウェーデン語を話す能力は、一時的なものかもしれません。いつか必ず齟齬が出る。メイクイーンの後光だって次の冬至には別の女の子のものになります。その上ホルガにはクリスチャンの子供が生まれるかもしれず、その子へのふるまいも考えなきゃ。
なんかそう考えれば考えるほど、幸せなダニーが見えなくてギュンギュンするんじゃあ~~~たまんねえ~~~~
ちょっとのずれも許されない社会で、果たしてダニーは生きていけるのかなあ。なんだかずいぶん話が飛んできてしまいましたが、とりあえず衝動のままに書きなぐっていったん、ここで。ありがとうございました~

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