帳簿の世界史 ジェイコブ・ソール

原題「The Reckoning」(=決算、または報い)というタイトルが象徴的な一冊。内容としては、ギリシャ時代から現代に至るまでのヨーロッパの帳簿・会計の歴史なんですが、初っ端から不正会計についてのエピソードが出てくるあたり、今も昔もこの問題は避けて通れないんだなぁと。

帳簿というのは、事業体の収支の履歴であると同時に、損益がどうなっているのかを理解可能な形で客観的に見せてくれるツール。成功を収めた商人は欠かさずに財産や取引を余すことなく帳簿に記し、商売を管理していたというのが冒頭。しかしメディチ家の例では、中興の祖である老コジモの没後、実務を軽視するエリート的な新プラトン主義の流行もあって子孫は帳簿による財産管理を怠り、最終的には資産と権力を失うことに。こういう事業の切り回しというのは、どうしても属人的な部分を無くせないもののようで。

その後、時代を下って絶対王政下のフランスになると、帳簿の本格的な政治利用がなされるように。政敵の反体制的な活動を暴いたり、国家の財政の健全性をアピールするための道具になったり(ただし粉飾決済込み)と活躍の場が広がるんですが、真実を映す鏡であり、虚実交えた都合のいい宣伝の道具でもあるという二面性がなんとも。しかし、秘密主義とそこから生まれる神秘性による権威が重要になる絶対王政と、起こったことを明らかにしていく帳簿は相性が悪いというのも、身も蓋もなく納得させられます。

近代に入り、王を戴かない政治体制に移行すると、民間の商人による帳簿に再びスポットライトが当たるんですが、産業革命の時代に差し掛かる頃らしく生産活動の分析という役割が与えられることになります。陶器で有名なウェッジウッドは、こういった工業簿記的な手法を活用していたとか。そして独立後のアメリカでは、鉄道ブームにより加速度的に扱うデータの量が増え、会計技術がますます複雑化。分かりにくく専門知識がないと理解不能ということは不正の余地が多いわけで、やっぱりここでも粉飾会計が出てくることに。またか……。

そんなこんなで現代に続く会計の歴史なんですが、20世紀以降は更なる会計技術の専門化に加え、コンサル業を通じた監査会社と監査先の癒着で不正の余地がますます広がっていっているとのことで、どうしたってこの辺の処理は倫理とは切り離せないようです。会計はデータを扱う客観的な分野というイメージが強くとも、帳簿を付ける人間の几帳面さや倫理観が求められる、属人的な要素を排除できない分野なんですね。本文中たびたび出てくるキリスト教文化や当時の会計に関わる絵画への言及からも、そういった要素の重要さがうかがえます。自分の身の回りの数字を正しく扱えるよう(家計簿とかね)、背筋を伸ばすために一読したい本でした。

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