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アートスペースProject Space haziでCharlie Donaldsonさんの展示を鑑賞

愛知県岩倉市のアートスペースProject Space haziでCharlie Donaldsonさんの展示を鑑賞した。

コラージュによる平面作品。ぱっと見では色味が様々に絵柄的な配置を調整された作品と見える。そこで用いられている素材にはところどころ、粗い写真を加工した図像が嵌め込まれている。

作者のステートメントによれば、作者自身が課した制作上の制約があり、それはコラージュで用いる画像選択において、ネット空間より抽出できるパブリックドメイン(ざっくりといえば著作権フリー)の図像を用いる、という点だ。

パブリックドメインの図像は、法的によほどの悪用でなければ如何様にも使用することができる。

図像には特定の何らかの意味性が付加するものがある。パブリックドメインではしかしながら、例えば政治性や宗教性など、ある歴史や文脈が付加する図像であっても、それらから切り離して使用することが、法的に可能となる。ステートメントからは、作者がそのような事態について関心があることが理解できる。
そうなったとき、図像の放つ絵柄や印象のみによって評価や審美が為されることとなる。例えば人が何かに追いかけらえている図像があったとしたならば、スリリングな印象を受けるのみで終わるかもしれない(何から追われ逃げようとしているのかは鑑みない)し、人が何かに憤怒したり顔をしかめている図像があっても、愉快な表情だとして鑑賞して笑う対象となるだけかもしれない。
余談だが、日本のお笑いバラエティにおける平成期以後の大喜利での「写真で一言」という形式は、そのような文脈切断的な図像の扱い方が根底となっており、笑いの発生する仕組みになっている。

図像が切り貼りされ、文脈から切断されることについて、作者はポジティブと捉えているのかネガティブと捉えているのか。
状況によってそれはいずれもあるだろう。その点は鑑賞者に解釈を投げかける意図も多分に含んでいるように見える。
パブリックドメインが研究や表現活動、商業活動において無償で扱うことのできる豊かな素材と見るか、無闇やたらと吐いて捨てて消費ができる、ぞんざいに扱っていいものと見るか。

図像使用がたとえ法的に適切だとしても、図像に含意された様々な文脈が無視され消費されることは果たして、倫理的に適切かどうか、様々に問うことができよう。
しかし図像一枚から、それが本来どのような文脈で用いられたり記録されたものかを判別するには知識が要る。ある政治的な事件や出来事を映した写真があった場合、それがいつどのような場面を捉えたものであるかを、知識として知っている必要がある。その図像が何であるかを知らなければ、もしくは説明がなければ何が何やらわからず、印象もしくは想像のみで意味を捉えることとなる。

作者は、図像の切り貼りによって新たな物語を構築する意図がある、ともステートメントで説明している。これは素朴に受け止めればある種の捏造や歴史修正の欲望が見て取れなくない。
現実ではありえない、もしくはありえなかった出来事を空想して構築するのがフィクションの特徴であるが、何かの歴史や意味を語るのに培われてきた様々な知識が、創作者と鑑賞者との相互関係の中で共有している前提がなければならない。
例えばある偽史を描く何らかのフィクションの場合、そこで描くのが偽史であることを作品自体やステートメント、インタビューなどの類など何らかの手法で提示し、描写の意図も説明する必要がある。

作者が説明を省略するときは、適切な理解をするための知識を観客が持つことに信頼を置いているだろう。もし観客の大半が読解できずとも、歴史や文脈の適切な知識を持つ複数の読解者がいるはずだあると見極めているはずだ。その見極めがうまくいかない場合、その作品は成功していないと言えるだろう。作品の発表から時がたち、適切な歴史や文脈の知識を以ってその作品が構築しようとする意図や主題を評価されることは、多々ある。

しかし、そもそもそうした手続きを無視するとしたならば歴史修正的態度となる。

知的財産権保護によって作者や製作者は自己の作品や商品の権利保護ができるが、世間一般の多くの人が文化資源に触れたり活用することに障壁ができてしまう。広範に平等に文化資源を使用できないことは様々に不利益を生む。
パブリックドメインは、知財保護によって発生する不利益を解消するため、知財保護の枠組みから外れたものについてはできる限りあらゆる人に隔てなく、文化的享受ができることを目的に構築された仕組みだ。

ただし制限が取っ払われれば法の定める範囲内であったとしても、湯水の若く図像を使うことができる。パブリックドメインの傘の下で逡巡なく図像を使用することは、歴史修正などの意図や態度がなくとも、いくらでも使い捨てできる。何かの深刻な状況を映した図像ですら、大量消費大量廃棄的に取り扱うことができる。

私自身残念ながら、作者が使用した図像が何を映したどのような意味を持つかがまるで理解できなかった。
パブリックドメインであろうがなかろうが、何かを鑑賞する人はそこで扱われる図像に込められた歴史や意味などをできる限り知る必要があるかもしれないし、自らが如何に無知であるかを自省する必要があるかもしれない。

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