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202311/24 愛知芸術劇場でAAF戯曲賞記念公演「鮭なら死んでるひよこたち」を観た直後の感想。

愛知芸術劇場でのAAF戯曲賞記念公演「鮭なら死んでるひよこたち」を観た。

殺処分を免れた雄ひよこであるカラーひよこと、産卵後に息絶える鮭がそのタイトルモチーフとなっている。

AAF戯曲賞は、戯曲を読んでから観劇するのが推奨される演劇公演で、今回の場合はもし戯曲を読まなかったとしても、タイトルを読んでその意味解説を知るだけで、どんな思考や心情を立ち上がらせた上で観劇すべきかが提示されていると思う。
なので作品解説的にストーリーや展開についてをここで書かないが、やはりタイトルで謳われることがまず強烈であるのだから、それを観客が直視せねばならないことなど記さねばと思う。

雄のひよこは卵を産まないし食肉にも向かないので、生まれてすぐに殺処分される。「ひよこ シュレッダー」で検索すれば無機質で残酷な映像が幾らも出てくるだろう。カラーひよこは前述の通り、かつてお祭り縁日で売り物とされるため出生直後の殺処分を免れた雄ひよこだ。しかし、有毒スプレーで色付けされ、縁日屋台で煌々と灯で照らされて箱びっしり詰め込まれた劣悪環境の苦痛で消耗する。そうして多くは衰弱死し、また客に買われたとて雄ニワトリは「コケコッコー」と大きめなボリュームで鳴くわけで、成長して以後もペットとして飼い続けられることなどまずない。

また鮭は産卵のため川を遡上するのに残存体力全てを費やし、雌は産卵、雄は射精で最期のひとふんばりを使い果たす。子孫を残すために生き、子孫を残したら死ぬ。
子孫を残すことが生物の役割であると自然観察や進化生物学などにおいては割り出されやすいが、子孫を残すことを選択しない生き方を幸福と捉える人間の生き方からしてみれば、抗うべき価値観であり、認め難い概念となる。

さて、ポストドラマ的慣習の色濃いAAF戯曲賞公演にしては、今回の劇は割とわかりやすい演劇的な掛け合いで展開していく。平たく言えば、演出コンセプトを重んじて観客に我慢を強いる体裁に、できる限りしないよう配慮されている。受け止めやすい演技のノリで賑やかしくコメディ的やりとりが続く。
けれども、そこで交わされる内容や状況には無機質な恐ろしさが終始込められている。

劇は進行していくがストーリーのところどころで中断が挟み込まれ、その都度役者ひとりひとりがアドリブで漫談をする。劇の合間の漫談ショーはあらゆる大衆的演芸では定番であるし、それらを踏まえたものだろうと読める。しかしそこで役者の生の声で発せられる内容は、序盤は漫談じみているが、次第に各々の役者の個人的状況を踏まえた社会批判や風刺、疑問が提示される。具体的な団体や組織名も名指しされる。コミカルさの度合いは人それぞれだけど、ひとりひとりが決して短くない時間で物事を述べる。

役に入って叩き込んだ演技と台詞が織りなす演劇の予定調和の一方で、個人個人が冷や汗かいてスリリングなアドリブトークで切実な憂いを述べる。演技の技芸的魅力と、切実な心情の生身の訴えとで、劇中の不条理が世俗の現代生活の不条理と地続きであるのが表されるし、劇だからこそ現実がむき出せるという、劇の構造的特性もよく見えてくる。

さてここからは劇を観て私自身が観想したことなど。

現代生活で低予算で安価で栄養を取るには、鶏卵と鶏肉はかかせないだろう。
ただし、狭いケージに閉じ込められて死ぬまで卵を産ませ続けられる雌の方が前述した即座に殺される雄ひよこよりもっと悲惨かもしれなくて、苦痛に苛まされる時間は圧倒的に長い。また、鶏肉生産用のブロイラーは過剰に肉付きをよくするため品種改良されており、成長するまで呼吸器や筋肉への負担で常に苦痛の状態にあるという。そして当然最終的に〆られる。
大豆食品は蛋白質源の代替となるが、大豆生産における様々な犠牲や不条理も調べてもらうとわかるけれど、なかなかのものである。

けれども私個人は所得が多いわけでなく、安価な鶏卵や鶏肉を食べられないとなれば栄養不足に陥るだろう。また食肉をしなければ心身に必要な栄養が足らず、不調や精神不安に苛まされる懸念がある。
以前に、アメリカでの食肉牛の屠畜・加工工場で働いた体験を研究としてまとられめた「暴力のエスノグラフィー」という本を読んだけども、そこで展開される牛の死と苦痛と共に、過剰なプレッシャーと危険ばかりが付きまとう労働者の疲弊とが折り重なる。
人間の立場で動物の心情や境遇にシンパシーを持てないとしても、動物を虐げることが人間自身も同様に虐げられることに繋がる想像はできるかもしれない。

※11月25日・26日も当日券ありとのこと。

舞台装置のシーソー。終演後に観客も乗れます。


出演された遠藤麻衣さん(右端)と一緒に記念撮影。

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