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木の葉

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枯葉と呼ぶか、落ち葉と呼ぶか、それによって人々が抱く情景はそれぞれ趣が微細に変化するであろう。風に舞う枯葉は可憐さと儚さを誘うように・・・散策で踏みしめる落ち葉はまるで伴奏者の肌触りのように・・・

新緑と紅葉はどちらがお好きですか? と尋ねられたら、私は嬉しい悲鳴を挙げるに違いない。どらも感動ものだが、人の心に二通りの感情を懐かせる。それはわざわざ私が言葉を費やさなくても、春と秋に木の葉から受け取るメッセージは皆同じだ。

ところが、青葉(新緑時)と枯葉(紅葉時)ではどちらの絵を描きたいですか? と問われれば、初めて私は後者に軍杯を挙げる。絵の設定としては殆ど色のない枯葉から始めた方が、色彩の追求が進められることにいつしか気が付いたからだ。勿論、青葉の絵を否定するものでも何でもないことは言うまでもないが、その色彩については後述するとして、しかし、またところがである。

絵の重要性に囚われて、紅葉時ばかり気にしていた私はそのずぅ〜っと後になって、初めて新緑の威力を知ることになる。馬鹿を言ってんじゃねぇ〜、どっちなんだと言われそうだが、私は良く見ていなかったのだ。

植物の辿る色の変遷は大雑把に言えば、青→緑→黄色→赤→無色の順番の様な気がするが、新緑の緑は単なる緑ではなかった。色相はそうは変わらないけど、明度と彩度は日々刻々とその度合いを増して行く。緑の内だけでも色の一生はあったのだ。     

長野県蓼科高原(標高1500m)に在住していた最後の頃は、一年で最も好きな時期は紅葉時の10月を抜いて新緑の6月が第1位となった。絵では朽ち行くものの美学に拘るが、実生活では芽吹きの初々しさが生きる喜びと呼応していたからだ。

話しを絵に戻そう。この絵はどう言う過程を経て成り立ったのかを説明するのは結構難しい。最初はコラグラフと言う版画に近いアナログ技法、それをデジタルデータに変換して、最後はインクジェットプリントアウトである。詳細を書き出したら切りが無いが、これは新芽、青葉、紅葉、枯葉など木の葉の捨て難く持ち合せる色の変遷を色彩の循環として表現を試みようとしたものである。どちらの色系統も良い、どちらの気分や眺めも良い。木の葉に触発され学んだものは多い。このデジタル版画は、赤系・青系2つの領域を錯綜する色彩の攻めぎ合いの結果だ。生涯木の葉を眺めながら、この戦いは命続く限り私の中で駆け巡るだろう。

旅に病んで夢は枯野を駆け巡る

先人の偉大な句をあげて、その末席に私も寄り添いたい。

色彩は枯葉を駆け巡る。







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