見出し画像

最後の輝き

画像1

日本古来の美術には、水墨画など侘び寂の系統と、琳派など金色極彩色の系統のものがあるように、否、そういう対局の概念もあるとしよう。千年も昔の仏像も最初は極彩色だったようだが、今日では侘び寂の佇まいを呈するものも多くある。ここで経年変化の科学的な話しなどをするつもりはないが、正直言って、今作られたような極彩色の仏像よりも、経年変化後に魅せる美に惹きつけられてしまうのは何故だろう。

枯葉や人物をモチーフに絵画的表現をずっと試み続けた末、私が辿り着いたのはそれらを黄金色に輝かせたい欲求に囚われたことだ。人間には侘び寂と共に金色(Gold)への憧れもあるのだ。工芸の世界では金が多用されれ、沈金や蒔絵は至高の一つかも知れない。

だが、黄金色の輝きの表現に辿り着いたかに見えてもそれは一時的で、絶対にその輝きには永遠に到達し得ない事も分かって私は天を仰いだ。フランスの作曲家エリック・サティーの、曲に付けたタイトルで1つ面白いのがある。 「最後から二番目の思想」と言うタイトルがある。それは何だろうと思ったが、なるほどそう言う節回しはあると思った。「貴方の堅い決心はまだ最後から数えて2番目なのでは」などと揶揄にも使われそうだが、果たして私はこの絵のタイトルをサティーに習って「最後から二番目の輝き」と命名し、少しは落ち着けたのだ(笑)。自然は常に1番を表現し、人間の表現は常に2番かも知れない。

1日の終わり、夕日は最後の輝きだと言って反対する人はいないと思う。西の空が徐々に色付き始め、やがて最高潮の輝きに達するが次の瞬間には輝きは2番目以降のものとなる。夕日を眺めながら、5秒10秒と数えて目を閉じ再び目を開ける。そうすると明るさの度合いの変化に気付くはずだ。そうやって今の瞬間が最高潮だったかも知れないと発見する喜びが私にはあった。カメラで何枚も撮れば科学的には分かるがそう言う問題ではないのは自明。

花火は勿論華やかさの競演と興奮の坩堝に人を連れて行ってくれるが、私の場合それ以上に注目するのは、一発の打ち上げられた大仕掛けの見せものの光彩が輝きの峠を越えて、それが漆黒の闇に消えて真っ暗になる前の最後の瞬間、いぶし銀の様な輝きだ。気にした事があるだろうか?   そんな最後のかすり傷みたいなものまで見ていないで気持ちは次に行っちゃうのが普通ですが、まぁ〜、でも日本人は桜にせよ、花火にせよ、好みの共通点は同じですね。パァ〜と咲いて、パァ〜と散る、あれですね。でも散り際という言葉もあるね。

焚き火は面白い、人間の原初的な感情に火を付け高揚とさせる。だが、ここでも私が美しいと感じるのは、勢いではなく、もう寝静まったかのような残り火に近づく状態の輝き方だ。特に周りが夜のように暗く、少し離れた所から見れば、それはゆらゆらと煌めく銀河のように見えることすらあるのだ。

廃墟は美しいと言ったら下手をすると変人扱いされ兼ねないが、朽ち行くものにも過去の栄光や輝きがあり、廃墟を見ていると私は愛おしい気持ちになる。汚いのではなく、その表面には見えない何かが滲み出て来る気がする。何を見ているのだろうか?  次いでに自分の過去も透けて見えて来る気がする。

死に化粧とは何だろう?   朽ち行き失われて行くものに対し人が出来る事は何だろう?  せめて施し、せめて補うということか。でも何を ?

「最後の輝き」「朽ち行くものに輝きあれ」

この絵を仕上げて自分の気持ちを整理してみたら、私の脳裏に浮かんで来た言葉はこれらのものであった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?