アルプススタンドのはしの方 感想
誰にも読まれない前提で書いてます。
何かの間違いで見つけてしまった方はご容赦ください。
2020年の映画。
なんか話題になってたし、Netflixでオススメされたから見た。私は結構Netflixのオススメは信用している。マッチ度はなかなか合ってたりする。
見始めは、テンポがよくて、サクサク会話が進む感じが心地よかった。ただ、野球の応援は、中学校の時に年1で行ってたくらいで、野球のルールは主人公たち並にわからない。だから、きっと「迷宮入りだ。」のところは、笑いどころなのだろうが、未だに何が行われて、どう勘違いしていたのか、理解出来ていない。
この映画では、「はし」と「真ん中」という言い方で、学校の中の人間関係ポジションを表していた。主人公たちは「はし」の方で、トランペットの女子や園田くんは「真ん中」。
物語のラストは、「はし」の子たちが野球を本気で応援することで、「真ん中」で頑張っている子たちの輪に加わり、一歩踏み出す勇気を貰う的なオチで大団円になっていた。
見ていく中で、映画のテンポ感に反比例して、私の共感や理解が遠のいていく感覚があった。
きっと、登場人物の中で最も自分に近い人物に、感情移入するのがあるあるだと思う。
私の中高生時代を振り返ったときに、私はいわゆる二軍で、クラスの「はし」とまではいかないけど、「真ん中」ほど発言権や人望(と見せかけた強制力)は無かった。私が送ってきた、この中途半端で、影の薄いポジションこそ、この映画に共感できずモヤっとした原因なのではないか、と考えている。
二軍は都合がいい。
クラス会的なものには呼ばれるし、逆鱗に触れなければそれなりに穏便な青春を手に入れることができる、「普通」と言えば聞こえのいい、そんなポジションだ。
しかし、文化祭などの行事では発言権を失い、少し提案すると「調子乗ってる」と言われる。かと思えば、修学旅行の班決めで人数が足りなければ、繰り上げ合格しましたみたいなテンションで一軍に迎えられる。
一軍は、一軍であることが良きことと信じて疑わない。
それは、世の中が、学校が作った「理想」を全うしているからだ。
友達がたくさんいて、学校が楽しくて、部活も勉強も恋愛も頑張って……。
彼らと私は何が違うのだろうか。
私はなぜ、「理想」の輪に入れなかったのだろうか。
大学生になって気づいたことがある。
積極的に行動しなければ友達を作りにくい大学で、私はサークルや部活に入らなかった。
周りからは、そのせいで白い目で見られることもあったが、余計なお世話だと思った。
軽音サークルなのに、練習後の飲み会のことばっかり考えている人。楽器が叩きたくて行った新歓で、楽器に全然触れず、3時間かけてあだ名を考える人。誰彼構わず勧誘していたのに、せっかく入部した1年生に対して、なんで入ったかなーと悪口を言う人。
私は無理だった。それだけ。私が無理だったから入らなかった。
この時点で私は、一軍とか二軍とか、スクールカーストとかの外に出たんだな、と思った。
飲み会がしたければそれでいいし、勉強がしなければそれでいい。
自分のための、自分だけのものさしで、幸せを考えられるようになったとき、初めて「理想」を超えられた気がした。
一軍のことを嫌悪していながら、その輪に入れなかったことを考えてしまう時点で、私は羨ましかったのかもしれないし、その理不尽な基準を受け入れてしまっていたのかもしれない。
一緒にいたいと思った子といればいいし、1人がよければ1人でいればいい。ただそれだけのことなのに、学校という空間が、教室の中の30人を同じものさしで支配してしまう。
映画の話に戻るが、あの「はし」の4人は、結局「理想」に向かって声を出していたような気がする。
演劇コンクールに出よう、野球への未練を昇華させよう、園田くんに想いを伝えよう。
それぞれに明確な幸せのものさしがあるなら、「はし」から「真ん中」へアプローチするのではなくて、「外」に飛び出す選択肢もあったのではないだろうか?
確かに、それぞれの決断のきっかけや、「しょうがない」と諦めてしまう主人公が再起することに繋がったという意味では、前向きに捉えられる。ハッピーエンドだ。
しかし、「真ん中」にいた野球部は、果たして演劇コンクールの応援に来るのだろうか?
その関係性の不公平感が、どうしてもチラついてしまって、モヤモヤしてしまった。
甲子園は特別で〜、野球部が必ずしも真ん中ではない〜、など納得させるための弁解は、自分でも複数思いつく。しかし、「はしの方」と題して「はし」を描くのであれば、その輪に囚われない広がり方を見たかったなというのが、正直なところである。
あと単純に、整った美男美女がキャストでは、茶番に思えてしまうというのが本音だ。
特に、メガネの女子が美人だと、主人公に意見するシーンで単に空気の読めないガチレス女のように、私の目には映ってしまった。だって、人にあんな意見がある時点で、自分に自信があってプライド高そう、そして、その起因が顔にあるのでは?と邪推してしまうので、もっと素朴で垢抜けていない、普通の体型の子で見たかった。
ダラダラ書いたが、
私が「真ん中」や「理想」に囚われて、ずっと醜い感情をひた隠しにしてきた、二軍のときの感情を思い出してしまうことで、この映画に共感できなかったのだろう。
強制的な野球の応援という行為は、とても特殊だが、この舞台が大学であれば、もう少し達観して見られたのかもしれない。
私には早すぎた。
追記。
この映画のオリジナルが、高校演劇だと知り舞台を動画で鑑賞した。とてもよかった。
映画のために足された要素が、映像としてのクオリティーは上げつつも、物語の良いアクを取ってしまった印象。
普通の高校生がやるからこそ、伝わる思いや空気感。
演技も脚本も素晴らしかった。
届くことはないと思うけど、とても感動しました。
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