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膜の向こうとこちら側

少し変な話をする。気のせいと一蹴されればそれまでの話。

ホテルやコンサートホールやレストランが並ぶ都心の奥まった一画を会場にしたマルシェに出店をしていた時のこと。終了時間になり、片付けを済ませてさあ帰ろうという時、ふと顔をあげて、あれ?と、自分の目に映っている光景に思考がバグを起こした。それは一瞬のことだったかもしれないし、随分その光景を眺めていたような気もする。

私の周りの世界は濃く鮮やかな色をしているように感じられ、視線の先はあ薄い膜の向こう側のように解像度の低い世界が広がっていた。人々の姿はまるでデジタルデータで、画素数の低い粗い点の集まりがうっすら人の形をとって歩いているように見えた。確かに、あれ?と思うくらいの時間、その景色は私の眼には見えていて、この世界は本当にあ存在するのだろうかという考えが全身に行き渡るには十分な時間でもあった。

ある時は、家の玄関ドアを開けて一歩外に踏み出す瞬間、ドアの内側と外側は同じ高さなのだけれど、足が階段一段分くらい沈み込んで、うわ、切り替わった、と咄嗟に思った。目の前の景色はいつもと同じだけれど。

ある時は、知り合いを訪ねて行ったアメリカの地方都市にある広大な州立公園でのこと。細い道を入っていくと木に囲まれたピクニックエリアがあり、エリアの真ん中には大きなピクニックテーブルと椅子がある。そこには誰もいなくて、車を停めて駐車場からくる友人たちを椅子に座って待っていた。皆がやってくるのが分かり、そっちの方を向いて手を振って次にふとテーブルに目を落とすと、黄色い鉛筆があった。黄色は目立つ。ん?テーブルの上には何もなかったはず。誰もいないし。でも、私は、さっきは自分が黄色い鉛筆に気が付かなかったんだと思って、その鉛筆をおもむろに手にして皆と一緒に車に戻った。車は友人宅へ向かい、私は後部座席で鉛筆を握り締めていた。友人宅へ着いて、車がガレージに入り、さあドアを開けて外に出ようとしたら、手には何も持っていなかった。え!?

ある時は、学生時代に住んでいた2階建ての古いアパート。2階の角部屋に住んでいて、一方の壁側には2階にあがる鉄製の外階段が付いていて、窓から顔を出せばよく見えるし、足音も聞こえる。窓を閉めていたある日、カンカンと階段を上がってくる足音がして、時期的にいつものNHKの集金のおじさんだなと思って財布を用意して玄関で待っていたけれど、誰も現れない。階段を上り始めてからものの10秒くらいで私の部屋の前には着くはずなのに。

私のいる場所が変わるのか、私がどこかに行っているのか。
いわゆる流行りのスピリチュアルは論外だと思っているけれど、そういうレベルではなく、目に見えているこの世界は現実なのかと思うことがある。
気のせいと一蹴にはできないでいる。



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