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【昭和のあるある】思い出日記

昭和から平成へ! 

さて、最近では「64(ロクヨン)」とういう小説や映画にて紹介されましたように、昭和64年はたった7日間でした。
平成に入り、バブルも終わりを告げると日本国内には全てにおいて『閉塞感』というものが漂っていたような気がします。
平成に入りすぐに就職した会社は同期入社が約30名。
入社した日の社長の挨拶の中には入社を祝う言葉こそあれど、「株価が大暴落しました」という言葉から、なにか不穏なものも感じたものでした。
なぜならば、その会社は『都市の再開発で地域に貢献する』というお題目で地上げを行っていたものの、バブル期に高騰した土地を取得したためバブルが弾けると担保価値も下落し、私たちが入社した頃には資金繰りに大変苦慮していたことを後に知りました。
でも、新入社員研修はバブル期にあったような『自衛隊式自己研鑽』方式で、約1週間の合宿研修ではビジネスマナー研修から始まり、ディベートやらなんやらと世を徹して同期と討論をしたりするため、就寝は朝方。
殆ど寝ないまま翌日の研修が始まれば、座学時間は睡魔との戦いとなるのです。太ももにシャーペンを刺して必死に睡魔に打ち勝ったものでした。
そんな研修を受けて、配属後も猛烈度合いは変わらず・・・
終電で帰宅することも多く、会社に泊まることも稀にありました。ひたすら『やりがい』という目に見えないもので自分を納得させていたため当然ながら残業代などを申請することはありませんでした。

さて、ここでの「あるある」ですが、平成に入ってからは「ゆとり」「デフレ」などのワードが出てくると思いますが、実は様々なものが普及したのも平成の特徴ではないでしょうか?
ポケベル(ポケットベル)、パソコン、携帯電話、インターネット・・・特にインターネットの普及で、昭和族としては予想すらできないことが起きました。
昭和族ではお店に行かないで買い物ができる(ECサイト)ができるなんて、予想すらしませんでした。それに昭和族の夢であった携帯電話やテレビ電話など、ビジネスではなく一般の人に普及することなど考えたこともありませんでした。
昭和族の電話は「黒電話」。街中では「公衆電話」が当たり前。
誰が昭和の時代に街中で小さなテレビのようなものを持って、何かを見ているような光景を予想したでしょう?平成の30年間はこのような変革が大きかったように思います。


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