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『大村はま国語教室』読後の覚え書き

 次の文章は『教育文芸みえ 第18号』(2000年12月三重県公立学校職員互助会刊)に掲載されたものです。

一 はじめに

『大村はま国語教室』(大村はま著 全十五巻別館一 筑摩書房 一九八二年一一月~一九八五年三月)は大村はま氏の五十二年間にわたる授業実践、著作、講演、及び自伝等をできるだけ記述し、残そうとしたものである。ここには偉大な実践者の業績がすべてではないにしても、後学の者が学ぶに充分な記録が記載されている。このたび、『大村はま国語教室』全巻を読む機会を得るに及び、大村はま氏の理論、授業構築のための基本姿勢のようなものを抽出できるのではないかと考えた。また、それらの問題点もおのずと明らかになってこよう。これらのことを念頭に、『大村はま国語教室』読後の混沌とした思考を整理し、記憶し続けることを主な目的として以下の文章を記述することとする。

二 『大村はま国語教室』授業実践における理論

大村はま氏は実践家であって理論家ではない、という言葉を耳にすることがある。そのとおりであろう。しかし、それは理論に裏付けられていない実践を行っているということではない。大村実践にはその背後にきちんとした理論的な裏付けが読みとれるようである。以下に大村実践における理論と目されることがらを取り上げてみることにする。

1 国語の授業の目的

まず第一に、国語の授業を行う目的であるが、それは学習者の日本語を使う能力を高めることである。大村氏の言葉では「優れたことばの使い手」、「すばらしい言語生活者」を育てるということとなる。音声を媒体とする場合の、聞く力、読む力を高めること、文字を媒体とした場合の読む力、書く力を高めること、これらが、国語の授業の目的であることが前提として認識され、授業が組み立てられている。大村氏は日本語を実生活において正しく豊かに使える言語生活者を育てることを目標としていたようである。
 国語という教科は日本語の理解、表現を目的とするという考え方は、時枝誠記氏の『改稿国語教育の方法』(有精堂 一九七〇年四月)に見られるものである。やや古い考え方だが、国語科というと、聞く、話す、読む、書くことの力をつける外に、学習内容によっては知識を吸収し、思考の仕方や倫理的なことがらを学び、果ては一つの文芸作品を味わうことなどがその目的のように思われる向きもあるようである。しかし、大村氏は教員を始めた当初から国語の授業の目的を、聞く、話す、読む、書く力をつけることと考えていたようである。上記の時枝理論が一九七〇年に出版されたものであるから大村氏の考え方は当時としては斬新なものであったと思われる。
 次に、それらの力をつけるための方法についてであるが、それらの力は学習者自身が読む力は読む訓練をすることによって、書く力は書く訓練をすることによって、聞く力は聞く訓練をすることによって、話す力は話す訓練をすることによって高まると考えていたということである。読む力を高めるために、読む方法を聞かせ、書く力を高めるために、書く方法を読ませてもその能力は伸びないということである。また、読む力を高める目的で感想文などを書かせることは目的に合わない方法だということも述べている。
 そうすると、学習者の日本語を使いこなす能力を高めるためには、読む練習をさせること、書く練習をさせること、聞く練習をさせること話す練習をさせることが重要であることが分かってくる。これらの練習をどのように学習者にさせるかということが、国語教師の命題となるわけである。
 大村実践の理論とは話題が異なるが、読む授業偏重の問題について少々考察を加える。
 読む、書く、聞く、話すという四つの力はそれぞれに別の行為能力であるから、別々に練習しなければならないわけであるが、現在の授業実態として、読む練習が外の練習よりも多く為されているようである。これにはそれなりの理由があるのではないか。一つは、伝統的に読む学習がなされ続けてきたということであり、指導する側としても読む学習をさせる方が指導しやすいということもあろう。しかし、その根本的な理由として、読む学習をすることが、日本語を駆使する訓練になるからであるということが考えられる。語彙の獲得にしても、文法的に正しい表現方法の獲得にしても、修辞法の獲得にしても読む学習をすることによって学ぶことができるのである。聞く学習をすることによっても学ぶことはできるが、情報の量、方法の簡便さ、自学のしやすさということでは読む学習には及ばないであろう。読む学習によって日本語の表現の様様なありようを学び、そのあとで、あるいは並行して書く学習、話す学習が成立するのではないだろうか。もちろん話す能力は話す練習によってのみ培われるものであり、書く能力は書くことによって培われるものであろうが、その前提として、話し、書くための日本語の知識が習得され、能力が培われていなければならない。その能力は、最初、生育途上に父母などによって話しかけられ、話すことによって基礎を形成するものであるが、高度な日本語表現の様々な様相を獲得するには、学習者の発達に応じて、過去の優れた文章を読むことが最も効果的な学習となるのであろう。この理由により、国語の授業はこれまで、読む学習偏重と思われるようなことが綿綿と行われてきたのであろう。
 ただ、そのような理由で読む学習が多く行われてきているとはいえ、話し、書く学習が読む学習に比して少なすぎる嫌いがあることも事実である。練習しなければ上達しないことであってみれば、話し、書く学習も一定の時間を確保されなければならないのに、充分なされてきていないということが言えよう。

2 学習の成立

大村実践の理論に話題をもどす。
 次に、学習の成立の問題である。「教育の目標が究極的には個人の指導であるからには、学級集団はそのための一つの媒体であり、その媒体を超えてなお教師対ひとりひとりの子どもとの関係がある」と『教育心理学入門』(永野重史、依田明共編 新曜社 一九七八年四月)のいうとおり、教育は、個人の学習を支援することを目的とする。また、当然のことながら、学習は個人においてのみ成立するのである。よって、いかに授業が優秀な学習者たちの活動により、上手に成立したかと見えても、学習していない一人がいたのではその学習者にとってその授業は存在しなかったことと同様のことになる。
 大村はま氏はこのことをよく理解し、一人の学習しない学習者も出さない方法で授業を工夫して行っている。従来の学習では(そして現在でもほとんどの場合そうなのであるが)一つの文章を同じ教室の学習者が同時に読むということが行われてきた。大村実践では、その既成の方法を捨てて、読むという学習を全員がそれぞれにするのであれば、一つの文章を全員で読まなくてもよいという方法をとっているものがある。そして、ひとりひとりがそれぞれに必要な文章を是非読まなければならないような工夫が為されている。そのことによって、教室内のすべての個人の読む学習が成立しているのである。このような学習が、書くこと、聞くこと、話すことにもそれぞれ工夫されて為されている。これは、既成の方法しか知らない指導者にとっては画期的な方法である。また、一つの文章を読んだり聞いたりする場合にも学習者すべてが是非とも読んだり聞いたりしなければならないという意識を持って学習するような工夫が為されている。ひとりひとりの学習者の学習がそれぞれにおいて成立することを目指す方法がとられているわけである。

3 効果的学習成立の要件

(一) 動機づけについて

学習が効果的に成立するためには、「児童・生徒が学習材料に対して快適と感じる場合には容易に学習され、不快と感じる場合には効果的な学習は期待されない」と『教育心理学入門』(前出)にあるとおり、学習者にその学習材を学習することの喜びを感じさせることが重要となる。また、同著は人間を「知的好奇心が強く、活動的で、しかも社会的接触を求める存在」であると述べ、この知的好奇心を満たそうとする心理が内発的動機づけとなるという。
 大村実践はこの理論のとおり、学習者の日本語、あるいは日本語文化に対する知的好奇心を刺激し、学習者が自ら学習に参加する姿勢を見事に引き出している。学習者が心から知りたいと思うような課題を設定することによって、学習者は自分の知的好奇心を満たすべく自ら調べ、記述し、討論し、発表する。その過程の中で、学習者は自ら読み、書き、話し、聞くという学習を行う。そして学習材によっては、語彙を富まし、正確な言葉遣いを学び、豊かに日本語文化を味わう。さらには調査の方法、記述の方法、討論の方法、発表の方法、質疑の方法等をも学んでいくのである。
 ここで重要になってくることは、どのような課題がすべての(大多数の)学習者の知的好奇心を刺激し、自ら学ぼうという気持ちを起こさせるかということを考えることであろう。しかも、それが国語の学習につながらなくてはいけない。この難問とも思える教材の開発を大村氏は次々と行っていく。おそらくそれは絶え間ない熟考の成果であり、あるいは絶えず教材開発に思いをはせていることの賜物なのであろう。

(二) 学習指導の過程について

これはあるいは、当然考えなければならないことを行っただけなのかもしれないが、大村実践において、一年次から三年次へと向かうにつれて、低次の学習から高次の学習へと移行しているということがあげられる。入学当初、国語の教科のガイダンスから始まり、「中学校は大人になるための学校」だとして、大人が行ったらおかしいことは行わないというような指導、自己紹介の仕方、「学習記録帳」(ノート)の書き方と順次学習に慣らしていき、様様な研究発表、文集作成へと学習を発展させていっている。学習者の発達と学習の習熟の度合いをよく考えた学習指導過程が行われている。
 また、国語学習に必要なあらゆる分野にわたってそれがなされているということも、記述しておく必要があろう。読み、書き、聞き、話すそれぞれの学習についてやさしいものから高度のなものへと発展させていくということのみならず、古典学習についても、漢字学習についても語彙学習についても学習者の実態に応じて無理のない、そして学習者の国語の力のある能力を確実に高める学習がなされているのである。

(三) 学習者を困らせない学習指導について

大村氏はいう、「なんとかして素人のように命令を発せず、しかも、ちゃんとすべきことはしてあったいうふうにしたい」と。ここに氏の指導理念の中心的な考え方があるようである。「もっと深く読め」とか「まめに書け」とか「よく考えよ」というような命令を発せずに、指導者の指示に従って、いやいやではなく自らすすんで学習していたら、深く読み、まめに書き、よく考えるていたというふうになるようにしたいというわけである。
 この考え方に基づいて様様な教材が開発され、それぞれの目的に応じた学習が組み立てられている。そしてこの考え方は、指導方法の細部にわたって、生かされている。それが学習者を困らせない指導方法として、学習の様様な場においてみられる。
 うまく話せない、うまく書けない学習者に対する指導として、大村氏は「もっといろいろな面から考えてみなさい」とか「まだ、大切なことにふれていない」というような言葉を学習者に言うのではなく、そのような言葉を使わずに学習者にいろいろな面から考えさせること、大切なことにふれさせることを指導しなければならないと言う。「もっと深く考えなさい」とか「自分の言葉で言いなさい(書きなさい)」と言われても学習者は困るだけで、そういわれて考えられるものではないというのである。そして、どうすればよいかというと、教師が、学習者のたちの中に席を持ち、学習者の一人の立場になって、もっと「いろいろな面」、「大切なこと」、「深い考え」の例を示してやればよいというわけである。そうすれば学習者は仲間の学習者としての教師の言葉に刺激されて、もっと豊かな発想や、深い考えを持ち、いきいきとした発言が続くようになると言っている。「もっとたくさん書きなさい」というのではなく、学習者がもっとたくさん書けるような指導、「もっと豊かに書きなさい」というのではなく豊かに書ける指導をしなければならないというわけである。
 これは、学習者が書くこと、話すことにつまった場合、書く内容、話す内容を指導するということである。書き方、話し方を指導するのではない、中身をどのようにすればよいかを直接書いてやったり、話して(あるいは話す中身を書いたものを渡して)やったりする。この方法はえてして書かれたもの、話されたものは指導者のものであり、学習者自身のものではないという批判を指導者自身が持つことが多かったために、あまりなされてこなかった方法ではないだろうか。しかし、学習者自身とすればどう書き、話せばよいかというお手本を指導者に示してもらうことで、書き方、話し方を学習することができるのである。書き方、話し方のどちらの指導の場合も、学習者の表現する余地を残して指導する必要があろうが、話し方の指導の場合は、場合によっては、すべて指導者が話してしまって、どのように話すことがよかったのかを示すこともある。そして続きを学習者に任せたり、次の機会に学習者に話させたりしていくわけである。その際、学習者の自尊心を傷つけるようなことがないような配慮はなされている。
 今の手法は、書き、話している途中の方法についてであるが、書き、話す前の指導も見事である。つまり、学習者がうまく話せなかったり、書けなかったりするのは、話す中身、書く中身を豊かに持っていないためであるとして、学習者に話したいことがら、書きたいことがらを豊かに持たせる指導をしている。
 たとえば、書くことの指導の場合、書きたいと思われるような題材だけをたくさん書き出させる、「題材集め」をしている。そして、外の学習者たちが考えた題材も見ることによって書きたいと思うような中身をたくさん持つことができるというわけである。さらにその題材の内のいくつかについて、書き出し文、最後の文のみを書かせたり、構成だけを書かせたりする。書くことをたくさん持った学習者は、いやがらずに楽しんでこれらの学習をすることができることであろう。
 話すことにしても、学習者が本当に話したいと思い、外の人が知らなくて聞きたいと思うようなことを持たせることによって、話すことができるようになるという指導を行っている。このような工夫された方法によって、学習者は、書くこと、話すことを学ぶことができるのである。
 さらに、学習者を困らせずに学習させる方法として有効なものは、「てびき」の活用であろう。「司会の仕方」にしても、「発言の仕方」、「質問の仕方」にしてもどのようにすればよいのかが、実際に話せばよい言葉で書かれていて、書かれているとおりに話せばよいように書いたものをわたしておくというものである。もちろん、その時時に必要な中身は学習者が考える必要があるのではあるが、その補わなければならないところを必要に応じて補って、「てびき」に従い発言すると、発表ができるというものになっている。そして、その「てびき」のとおりに発言、発表しなければならないというのではなく、あくまでも「てびき」はモデルであって、なくてもよいのだが、話すことが分からないときにその「てびき」を見て話すというようなことである。
 この「てびき」は話す学習の場合ばかりではなく、書く学習の場合も、あるパターンのようなものを与えて変える部分を書かせるというふうに使ったり、研究の手順を書いたものを「てびき」として与えてその手順で調べさせたり、文集をつくる手順を書いたものとして与えたりというふうに様様な局面で様様に工夫されて使われている。そして学習者は困ることなくその「てびき」に文字通り手引きされて学習を進めることができるのである。
 この「てびき」にはもう一つの役割がある。それは、「てびき」を読むことによって、「読む」ことの学習がなされるということである。正確にすみずみまできちんと読んで正しく情報を取り入れて理解しないことには、きちんとした文集が仕上がらなかったりする。よって、学習者は与えられた「てびき」を意識的に熱心に読むことになる。大村氏は、書いたことは言わない、言ったことは書かないという方法意識を持って、読む学習、聞く学習を学習者にさせることを考えて、様様なものを学習者に提示しているのである。
 以上は書く学習、話す学習の場合の話しであったが、同様に読む学習においても学習者が自然と自ら深く読み、深く考えるような方法がとられている。

4 言葉を豊かに、正確に、実際の生活において使えるように学習させる指導

見出しのことばは大村国語科指導の目的とも言えるものであるのでこれを目指して学習が組み立てられているのではあるが、特に言葉そのものを扱ってこの目標を達成しようとしている指導にその特徴が表れている。
たとえば次のような学習指導がある。「驚く」という意味の類似の言葉、「ぎょっとする」、「たまげる」、「息をのむ」などを指導者がたくさん集めて学習者に提示する。二人一組でその中から一つことば、たとえば「息をのむ」を選んで、そのことばにぴったり合う場面の文章を書かせる。「息をのむ」という言葉のところに「驚く」を入れておいて外の学習者に示し、どの言葉がそこにぴったり合うかを当てさせるという学習である。学習者は「驚く」という意味の類似の言葉の一覧表を見ながら話し合い、「このことばでなければ」というものにしぼっていく。ことばをその場面に合わせながら、細かく頭を働かせて考えることで、ことばの感覚が磨かれていくわけである。
 この学習によって「驚く」に類似する様々な表現とその使い分けを学習するばかりではなく、ことばとは、そのように正確に、ある場面にはそこにふさわしいことばを使うのだという感覚が養われるであろう。様様な表現を豊かに知ること、その表現を正しく使うことの大切さも学ぶこととなる。そしてこの感覚を日常の表現活動に生かそうということになる。優れた国語科学習指導である。
 この例に顕著なように大村実践ではことばを豊かに知り、正確に表現すること、日常生活でそれらのことばを使いこなすことを目指して学習が組み立てられている。

5 「単元学習」ということについて

大村実践では教科書が扱われることが少なく、様様な資料や図書館が利用されて学習が行われることが多い。教科書を扱うにしても、教科書を1冊の本と見なし、一つの資料として扱っている。それは、大村実践がある目標を遂行するために組み立てられているからであるという事情によるからである。そしてそのひとつの目標を達成するためのひとまとまりの学習を単元学習と呼ぶようになった。
 話す、聞く力を高めるための学習、読む力を高めるため、書く力を高めるための学習、というような目標の細部に、まめに書けるようになるためとか、よい読書生活を送ることができるようにするためとか、語彙を増やすためなどの目標があり、その目標を達成するにはどのような学習がよいかということが考えられる。そして、その目標を効果的に達成できる学習が考案されていくわけである。まれには、楽しそうな学習を先に思いつき、暖めていて、その学習をすることで、ある国語の力を育てる目標が達成されるというようなこともあったかもしれないが、目標がなく、楽しい学習だからするというようなことはなかった。
 このような組立でできる学習であるから、それに、教科書が資料として使えれば使うけれども、使えない場合は、外の適当な資料を用意するということになるわけである。
 学習の目標は、おおまかには読み、書き、話し、聞く力を高めることではあるが、これらの場面の多様な要素を取り上げ、ことばを実際に使って生活する上で必要な力はどんなものかと考え、そのそれぞれの必要な力を高める目標を達成できるような学習が考え出されている。

6 班別学習について

学習は個人において成立するものであることはすでに述べたが、大村実践では、その個人の学習を効果的に成立させるために、多くの場合、効果的な班が編成され、班別学習が行われていた。その班は個人の学習を分担して行わせ、集積する場であり、一つの成果を共同によって築き上げる場である。築かれたものはクラス全体なり、冊子としてなりなんらかの形で発表される。
 班の編成の仕方は、学習の目的によって異なる。能力の似た学習者を集めて高い能力の学習者の班、低い能力の学習者の班とする場合もあれば、班の質を均質にする場合もある。いずれにせよ、指導者が学習者の能力のどんな点が優れていて、どんな点が劣っているかを知っていなければ編成できない班構成である。大村氏は学習者をよく観察し、その実態を細かく把握して必要に応じた班を編成できるようにしていた。
 そして、能力の違う班を作ったときは、劣った能力の学習者たちの班が優れた能力の学習者たちの班にひけをとらない学習ができるように配慮した。また、均質な班を作ったときも、班内で劣った能力の学習者が充分活躍できるような配慮も行っている。そして、それぞれの学習者がそれぞれの能力に応じて精一杯学習しているのである。

三 大村実践を模倣する場合の問題点

高等学校の国語科の授業は、私の知る限りでは多くの場合、教科書を読み、段落分けし、発問に答えさせ、主題をまとめ、感想を書かせるというようなことがなされている。この授業形態が悪いとは言えないが、大村氏の実践の前ではまことに稚拙な方法に思われてしまう。
 昨年『第62回国語教育全国大会』の分科会、高等学校現代文総合Ⅱ(論説的文章中心)に参加したが、そこでの指定討論者(助言者か)の発言にも、大村はま氏が登場し理想の指導の在り方として紹介されていた。私の印象ではその分科会の発表も含め、発言すべてが大村はま氏の手のひらから出ていないように思われた。比喩的な表現ではあるが、大村はま氏の手のひらの上を一所懸命かけずり回っているような印象である。
 大村はま氏の国語教育に取り組む姿勢は、国語科教員の理想であるように思われる。すべての小中高の国語科教師は《大村はま》にならなければならないのであろう。しかし、それができていない理由がいくつか挙げられるように思う。
 まず、《大村はま》になるためには、絶え間ざる授業創造への意欲が必要である。常にどうすれば学習者が、楽しみながら目標を達成できる学習が組み立てられるかを、考え続けなければならない。これを考え続ける情熱が必要である。このことは常人には困難なことであるように思われる。
 次に、ずば抜けて優れた国語の能力と秀逸な言語感覚がなければならない。
 さらに、多大な労力と惜しまぬ献身が必要である。必要と思われることを片っ端から片づけていく労力を惜しんでいては《大村はま》にはなれない。準備の労力、作文を読む労力、学習者各自の評価を細かくつける労力。授業にもよるかもしれないが、ある一時間の授業を始めるために、どれだけの準備が必要か。その授業の結果を受けて、どれだけの作業が必要か。書かれたものにすべて目を通すのにどれだけの時間が必要か。現在の授業準備、結果の処理でさえ勤務時間内には終わらないのに、《大村はま》になろうとすれば献身的な自己犠牲なくしては不可能なのではないか。
 また、時間的、労力的な問題ばかりではない。《大村はま》的授業の準備のためには様様な資料が必要である。それもたとえばある本を一クラス分そろえるというようなことが行われている。その予算はどこから出たのか。図書館予算や国語科予算で出なければ自己負担ということになる。大村氏は図書館の担当も兼ねていたということなのでおそらくは図書館予算もある程度自由にはなったのであろうが、中学校の図書館にそんなに予算があるものではない。『国語教室』には大村氏個人の研究費と考えて自費を使って資料を集めたという記述があるが、氏は自分が学習者のある国語の力を高めるのに実践したい授業の資料を集めるため、自費を相当費やしているに違いないのである。
 資料に対してのみではない。大村氏は効果的な学習が成立するためには、学習を滞らせない準備が必要であるとして、各班ごとにハサミ、のり、定規、等の必要な文房具をそろえている。これも学校の予算から出たとは考えにくい。
 このように大村実践は氏の絶え間ざる努力と情熱と献身的な労力と(多大な)自己負担によって成り立っている。これらは一般の国語科教師には模倣できないことではないだろうか。
 また、授業が図書館で行われることが多かったようだが、これも難しい問題となるであろう。一校のすべての国語科教員が《大村はま》的な授業をすると仮定してみると、一校に国語科教員が8人いるとして(私の勤務校の場合)国語科の教員が同時に授業を行わないように時間割を組むことは不可能である。そうすると図書館を使わない授業と、使う授業との調整が必要となってこよう。勢い、教室で《大村はま》的授業を行う方法を考え出さねばならないことになる。
 このほか、評価の問題も難しいと感じられる点ではないだろうか。これは現在の制度が悪いのかもしれないが、評価を数値化しなければならないことになっている。しかも、私の勤務校では一〇〇点満点の一点刻みで成績を出さなければならない。《大村はま》的授業を行って学習者を評価する場合、これは不可能なのではないだろうか。大村氏は評価表を作成し、各学習者について細かく評価表につけ、成績を出していたようである。そこには常人には計り知れない労力があったことであろう。しかし、それを数値化するにしても五段階がやっとのことであろうと思われる。アチーブメントテストと呼ばれるいわゆる定期テストも行っていたようであるが、評価表で出された評価とテストの結果とはどのように合わされていたものか、『国語教室』には記述がない。
 以上のような問題が考えられるが、いずれにしてもすべての国語科教師が《大村はま》に近づかなければならないことは事実である。教師は各自の可能な研修、研究の努力を怠ってはなるまい。

四 おわりに

一番の眼目の具体的な実践には触れなかった。参考にするには再び『大村はま国語教室』を繙くしかないと考えたからである。
 先日、高等学校新学習指導要領の伝達講習会に参加した。そこで説明された内容の概要は、おおむね大村はま氏が目指してきたものと一致するように私には理解された。新指導要領における国語の記述を実践するためには、参考にするのであれ、批判的に検証するのであれ、先行実践としての大村はま氏の方法は避けては通れないものと思われる。

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