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「味わう」ということ「味が分かる」ということ

 高校生の時下宿をしていたのですが、同じ下宿の後輩が、先輩これ美味いですよと言って、マクビティーのダイジェスティブビスケットを食べさせてくれました。それを食べたとき、美味いと思い、これが美味いということか、と美味いものを美味いと感じる感覚に初めて気づきました。

 私の母は漁師の娘なのですが、教員の夫に嫁ぎ、子供の私に画一的教育をしました。こうであるべきだ、こうすべきだということが教条的に決まっているのです。腹が減ったと思ってご飯を食べたことはありませんでした。時間がきたらご飯は食べるべきものなのでした。不自由なく育ったのですが、自分で物事を評価するということを知らずに高校生まで育ったのでした。

 それでダイジェスティブビスケット体験をしたのです。自分で味わって美味いかまずいか決めればいいのだということです。振り返ってみると、手塚治虫の『火の鳥』シリーズの漫画を読んで面白いという経験はしているのです。それを、言葉に出して面白いと言ったことはありませんでした。物事を味わい、美味いと感じたら美味いと言語化することで、それが美味いことが認識できるのです。

 それまでは日本近代文学の小説を分かりもしないのに読んでおいたほうがいいと思っていろいろ読んでいたのですが、その後は面白いものを探して読むようになりました。三浦綾子の『塩狩峠』を涙をボロボロ流しながら読んだ記憶が蘇ります。

 食べるものだけでなく、音楽も絵もそのほか様様なものを自分で味わって評価するようになりました。他者がよいと言ったものをそのまま鵜呑みにせずに、実際に自分でも味わってみて良いかどうか判断する癖がついていきました。

 食べるもので美味いものをその後経験することはなかなかありませんでした。出汁の味も薬味の味も知らずに大人になりました。食べられて腹がはれば充分だったのです。大人になってレストランやら旅館やらで食事をするようになり美味さを味わう質が高まったように思います。繊細な料理を味わう経験を重ねることによって私の食べ物を味わう能力が上がったのです。

 音楽なども、聞いて良いと思うものが増えていきました。ヒットする曲はたいてい良いと思う曲でした。演歌なども坂本冬美とか聞いて、声の良さから歌を好きになりました。クラッシックはよく分かりませんでした。よいと言っている人がいるのだろうから、良いのだろうと思い聞いてみることはあるのですが、クラッシック音楽の素晴らしさを理解できるとは言うことができません。モーツァルトやメンデルスゾーンなら聞いていて心地よいと感じることができます。ベートーベンもぎりぎり。ブラームスやマーラーとなると良さを感じる能力はありません。

 小説に関しては独自の趣味を持って、好きな作家を指折り挙げることができます。近代文学の作家は概ね読みました。戦後の作家は好きな作家を決めてそれらの作家の作品をできるだけ全部読むようにしています。それでも最近の作家の作品は読めていません。好きな作家がだんだん亡くなって生きている方が僅かになってきました。丸谷才一、つかこうへい、井上ひさし、みな亡くなりました。筒井康隆と小林信彦がまだ頑張ってくれています。

 大江健三郎も村上春樹もすこし読みましたが、私には難しいのかもしれません。大江健三郎は若いときより年齢が上がってからのほうが読みやすくなりました。これで私の読書能力がどの程度のものかおおよそ検討がつくかもしれません。

 味わう能力は経験の積み重ねによって高まる。人によって好みは違うし、評価も違うかもしれません。良いものは多数の人が支持するものとは限らないかもしれません。しかし、誰も支持しないものを良いものと言うことはできないのではないか。もしかしたら、現在の人には理解できない天才による作品があるかもしれないのですが、理解できなければ評価ができないのです。小説の世界に純文学と大衆文学という手垢のついた分類方法があります。芸術性を追求しても誰も理解できなければ評価されません。一部の能力の高い読者だけに支持されればよいのでしょうか。たくさんの人に面白いと支持されても、既知の価値観の繰り返しを描いていたのでは飽きられます。鑑賞能力の開発されてない人に支持されるのであればただのたくさん売れただけの作品ということになります。

 作家がどこを目指すのか。作家の自己満足の基準によるのかもしれません。私達味わう側は自分の感覚で味わい、楽しみ、あるいはつまらないと思うことが大切です。そして評価したらできれば誰かと交流できるといいですね。人の評価を聞いたときには自分の気づかなかったことに気づくこともあるかもしれません。先日私はビールの味の文章を書きました。大多数の人が支持しているビールよりも私の飲んでいるビールのほうがずっと美味いと思っています。でも、それは人の味を感じる感覚の違いなのですから、どちらが美味いという比較はできないのかもしれません。多くの人はAを美味いと思い、私はBを美味いと思うということです。

 この文章は何を目指しているのだか分からなくなってきました。とりあえず、自分で味わって評価しろ。自分の味わう力を高めろというところくらいにしておきましょう。

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