好きです奥秩父

「奥秩父」という名著を世に残した原全教さん(1900~1981)は、改訂版として出版した「奥秩父正・続」の中で、なぜ私の故郷は秩父ではなかったのかと語っている程だ。

氏の奥秩父への愛は山だけではなく、山麓のひなびた集落に住む人間にまで及ぶ。数えきれない程通った秩父の山や谷の知識は山麓の狩人や炭焼き、山小屋の人間など多くの人によってもたらされた。とくに荒川源流、滝川に入るときなど栃本集落に立ち寄るときなどは故郷の父母に会いに行くような描写だ。

全教さんが数えきれないほどに山中に入っていけたのはきっと彼らに会えるからってこともあったと思うのだ。奥秩父は氏の第二の故郷であり、血の繋がった親戚よりも大切な人々が住んでいるところだったのだ。

私も奥秩父が大好きだ。全教さんの「奥秩父」を読み、そんな旅をしてみたいと思ったことも何度かあるし、実際にやってもみたこともある。

僕が最初に通いだしたのは高尾や丹沢、そして奥多摩から奥秩父といった家から近い日帰り可能なところであった。

奥秩父通いがライフワークとなり夏のアルプスの時期を除いて通うようになった。いつしか山小屋の人とも仲良くなり、小屋の人に会いにいく山行もするようになった。

山岳ガイド、山田哲哉さんとの出会いも大きい。山田さんと初めて出会ったのは奇しくも梅雨の十文字峠であった。この時に山田さんに言われた「十文字は雨の日こそ輝くよ」ってのはその後の奥秩父への考えに一石を投じてくれた。

初めての1泊山行は雲取山。奥多摩駅から石尾根を延々歩き、午後からの落雷に怯えながら夕刻前に雲取山荘にたどり着いた。翌日は飛龍を周り丹波に降りた。七ツ石からみる飛龍はとくにかっこいい。ミサカ尾根は大昔、飛龍の神が山を燃やしながら登ったそうな。禿岩の位置を間違えていたのを知ったのは随分後のことであった。

金櫻神社から黒平を越えて金峯にも詣でた。人気のない和名倉を大洞林道支線から大常木林道を経て丹波にも越えた。月明かりに照らされた将監の小屋や大菩薩の陰影が忘れられない。

甲武相の尾根の下、飯尾から長作へ続く忘れられた峠を越えて、牛飼というユニークな名の集落へ降り立ったこともあった。このとき、秋切沢を遡って奈良倉を極めた。この秋切沢は延々とワサビ田が続く道であった。人の気がなくなり朽ち果てたワサビ田にも昔日には賑わいがあったのだ。こんな所は奥多摩の山中にいくつもあった。季節は冬、降り立つ鶴峠への道は雪に覆われ、めざとく見つけた奥秩父東部の稜線は白く覆われていた。長い車道歩きを経てたどり着いた余沢の集落は夕げの香りが立ち込めていた。

それも思えば随分昔のことに感じられる。まだ10年も経っていないのに。

SNSが発達し、山行のことや好きな山域の話を分かち合えるようになってきた昨今。奥秩父や奥多摩が好きという人を多く見かけるようになってきた。僕が山を始めたほんの数年前までは陽の目を見ない存在だった奥秩父。とても良いことだと思う。

時は経ってフリークライミングに傾倒している昨今。最近奥秩父に行っていないなと思ったことがある。でもそれは全くの間違いだった。クライミングのメッカであり、通っている小川山や瑞牆は間違いなく奥秩父であったのだ。僕はいつまでも好きな奥秩父に通い続けるだろう。

奥秩父の何が良いのかと問われ、森が深いとか地味なところが良いとか言ったりするけど結局それはどこのやまにも言えること。昔から人との関わりがあって、山中にもその形跡がたくさん残ってる。そんな人臭いところが良い。というのも他の山域にもあるだろう。ようは初めての頃に通いだしたから愛着があるのだ。我が子かわいさ的な奴だ。小屋に上がれば知り合いがいるからかもしれない。全教さんと同じなのかもしれない。でも考えてもわからないけどなにか説明出来ないところでここが好き。

季節問わずに様々な表情を見せてくれる山、沢、滝に岩稜。ここから何かを学びそして昇華させて行きたいと思う。

画像1

千丈の滑ナメ

画像2

笠取付近の稜線から

画像3

梅雨の白丸集落 お地蔵さんと奥多摩槍

画像4

馬頭集落

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?