#妄想好きの老人の独り言(その1の2)

  【第一章】 故郷
初めに生まれ故郷を紹介したいと思います。
人は生まれた時代や生まれた国、生まれた場所、育った環境等が人生に大きな影響を与えると言われてます。
私は南海の孤島と呼ばれている、沖縄県の東へ360キロ離れた半径2キロ程の小さな島、北大東島と言う所で生まれました。
日本地図を見ると奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島、八重山と弧を描いた南西諸島は観光地としても良く知られ、沖縄県の殆どの島はこの南西諸島に有ります。
しかし南北大東島だけは九州の大分県の東経131度と同じ線上の遥か南の太平洋の中にポツンと有り、南西諸島には俗せず、大東諸島に属しています。沖縄ではニライカナと言う言葉が有り、神々は太陽の昇る東から訪れると信じられて居ます。
琉球王朝の時代は沖縄県南部の太平洋側の知念村(現、南城市)に斎御嶽(せーふぁうたき)と言う祈りの場所が有ります。
斎御嶽(せーふぁうたき)の岩の隙間から朝の光が差し込む先、東5キロに久高島が有ります。
久高島は神々の住む島として位置付けられており、今尚琉球王朝時代の神事が執り行われ、琉球の始まりとされています。
大東島は久高島の遥か彼方の東に在り、昔から知られていました。
多くの外国の人々もそこに島がある事は知ってはいたが、余りにも小さな島で、沖縄では珍しく砂浜が無く、波が荒く船の接岸が難しく島に上陸する人はいませんでした。
1885年(明治18年)に日本国はこの島を沖縄県の管轄に置き、日本国領土としました。
日本の領土に成ってから僅か5年後に八丈島出身の探検家玉置右衛門の下に上陸がなされ、そこで初めて有人島に成りました。
島は玉置商会の所有に成り、その後に日本社会では初めての独特な社会主義的な共同生活のシステムが作られ、1945年の終戦まで続きました。
戦前は本土の人と沖縄の人は呼び方を変え、区別されていたようです。
父からよく聞かされていた事は、沖縄、朝鮮、台湾の人々は二等国民で、日本の人々は一等国民だそうです。
当時の北大東島はリン鉱石と砂糖精製が主な産業で、月に二回程船で大阪方面に運んでいたそうです。
ちなみに沖縄本島への直行便は年に二回程の船便が有る程度でした。
当時沖縄本島の師範学校に通っていた父は大東島に帰郷した時の帰りは大阪経由で沖縄本島に行くのが普通の事だったそうです。
その帰りの船で大阪の女学校生の母が実家のある那覇に帰る為たまたま乗って居たそうです。
そこで初めて父と出会ったと言っていました。
父の一目惚れだったと聞いています。
父は明治生まれの船大工の祖父に連れられ小学生の時に沖縄本島から来たそうです。
当時は今、絶滅危惧種に指定されているアホウドリが居たそうです。
学校の先生の殆どが本土出身の人で、玉置商会の東京本社で採用されており、先生も社員として扱われて居たそうです。
父は沖縄の人なので社員では無く、現地採用の先生と言う立場だったそうです。
月給は本土の先生よりは少なく、沖縄の先生よりは多かったそうです。
島内での会話は標準語が基本で、沖縄の方言が禁止されていて、戦後も私が小学校3年生頃まで学校には方言札が有り、方言を使うと方言札を首から掛ける事に成って居ました。
島内の土地や住まいの建物は全て玉置商会の所有で個人の所有は認められなかったそうです。
沖縄や台湾の人々は仲間と呼ばれ、本土出身の労働者は親方と呼ばれ区別され、その上に社員と呼ばれる玉置商会の人が居たそうです。
島には沖縄出身の医者もおり、孤島の小さな村は運命共同体の思いが強く、呼び名で区別されていても差別は無かったと話して居ました。
島内では日本紙幣の円は使えず、B円と呼ばれる島内だけで使える金券が使われて居たそうです。
食料品も個人の店は無く、会社所有の売店で買う事しかできません。
必要な物は付けで買う事が出来、後日給料日に天引きされて居たそうです。玉置商会は子供達の相続争いが起き、やがて経営が行き詰まり、東洋製糖株式会社に経営権が渡りました。
その後日本の外務大臣を務めた経験のある藤山愛一郎氏が社長を務める大日本製糖株式会社に経営権が移り終戦を迎えます。
終戦翌年にアメリカの施政権の下にある沖縄はアメリカ民政府の通達で南北大東島の所有権を持つ、大日本製糖株式会社の財産を全て没収しました。
【沖縄の祖国復帰後大日本株式会社との土地の所有権の問題が起こり何度か交渉の末1974年に解決を見ました。村長さんと父が東京に来た時に案内した記憶が有ります】
南北大東島は開拓以来初めて村民による村制が始まりました。
その為学校も大日本製糖株式会社運営の私立学校から県立の学校に変わりました。
戦前本土に疎開していた先生は殆どが島に戻る事無く、戦後の島は父と義理の弟の先生に島出身の高等学校出の人を代用教員にして急場をしのいだそうです。
当時の沖縄は戦争で多くの先生が亡くなり、どこの学校も先生が足りなく大変だったと聞いています。
母も戦後すぐに祖父の故郷今帰仁村で先生をしていたが、米軍の輸送船LSTで多くの人と一緒に疎開先から帰って来ました。
母は沖縄出身ですが、兄が大阪で帽子の制作、販売をし満州にも支店を持ち繁盛していたそうです。
その為母は兄の下で大阪の女学校に通っていたそうです。
母から満州の生活をよく聞かされており、濡れたタオルが一瞬で凍り付き、とても寒い思いをしたそうです。
又母の実家も那覇で商売をしており、お嬢様育ちの母は大阪の生活で姉と一緒に良く芝居を見る事が多く楽しかったと話して居ました。
貧乏育ちの父とお嬢様育ちの母は昭和12年に大阪で結婚式を挙げ大東島で生活を送る事に成りました。
大都会の大阪から南海の孤島の大東島を見て驚いたと思います。
島には砂浜が無く、いきなり切り立った岩肌が目の前に現れ、船が接岸出来ない港は陸から二本のワイヤーが海底に伸び、その間に船が停泊し滑車で陸から船へモッコや荷籠を降ろし人も荷物も同じ様に引き上げていました。
今も船が接岸出来ずクレーンで同じ様に引き上げています。
父も母も学校の先生をしており、何れは母の実家のある那覇に転勤出来るとの思いで島の生活を送って居たそうです。
戦後大東島の学校が私立から公立に変わり転勤が義務付けられて1957年頃に那覇の学校に転勤が決まって居たそうです。
連合軍の支配下にあった日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で日本の主権が回復しました。
1953年奄美大島が返還される頃には日本の経済も順調に伸び、1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」と書かれています。
アメリカの施政下にある沖縄は復興とは程遠く、混乱の中に有り、仕事も少なく生活の為に本土との密貿易をする事で生活の糧を得る人も多く居たそうです。
戦後の物不足の時代、特に砂糖は貴重品で密貿易の売れ筋で後に日本では知らない人が居ないと言われる人物も関係していたそうです。
台湾に近い与那国島は密貿易の関係者で人口密度が異常に高く成り歓楽街が出来ていたそうです。
特に朝鮮戦争が始まると沖縄のアメリカ軍の関係者を通じ拳銃などの武器が台湾を通し中国軍に売り渡していたそうです。
1967年私が高校生の時の新聞にもアメリカ軍の拳銃が箱ごとキビ畑から見つかったとの報道が有りました。
沖縄本島でも仕事が少ないのに小さな離島ではなおさらです。
戦前は砂糖キビよりも肥料用のリン鉱石が特産物で多く取れ、島は活気に溢れ、あの小さな島に3000人程の人々が暮らしていたそうです。
戦後はリン鉱石の需要が無くなり島の存続に関わる事態に成りました。
そこで島は砂糖の生産を中心に生活環境を整える事に決めました。
島に三つ有る小さな釜焚き工場を一つにして大型の工場を作る事に決め、その準備の為の交渉役に父が押され学校を辞め島に残る事に成りました。
その事は私達家族に取っても大きな出来事でした。
母は子供達の教育の為に那覇に転勤する予定で長男を那覇の高等学校に進学させていました。
那覇での親子水入らずの生活が実現できず落胆したそうです。
その後10年余り島に留まり那覇の本社に転勤に成りました。
北大東島は今でも共同社会体制の色合いが強く残っており、沖縄県で初めて大型キビ刈り取り機を政府の補助金を利用して共同で購入する事を決めました。
今では北大東島は村民の一人当たりの収入が沖縄県でも一位に成った事がある豊かな村です。
南北大東島は今でも本土の人はともかく、沖縄の人もあまり知ら無い本当に南海の孤島です。
東京のNHKで全国の天気予報を放映する時に日本の地図が出ますがその時に大東島の文字が出ます。
大東島は台風の通り道と呼ばれ、日本の気象には大切な場所なのです。
太平洋戦争時には船舶が交通の主力で有り、東南アジア方面の船舶の需要が増え、太平洋戦争開始と同時に南大東島に気象台が出来たそうです。
私が幼い時には台風が連続発生し、船便が一か月以上欠航して島の食べ物が底を付き、アメリカ軍が飛行機からコメや小麦粉をパラシュートを付け投下してくれました。
南北大東島には高校が無く中学を卒業すると親元を離れ高校進学の為に那覇に出ます。
ある時島に新任の先生が来た時の話です。
島に船が近づくに連れ砂浜の無い、岩がむき出しの切り立った岸壁はまるで鬼ヶ島の様だったと話して居ました。
しかしこの様な島だからこその贈り物が有ります。
気の遠く成る様な年月をかけ、切り立った岸壁は荒波に少しづつ削り取られ狭い所で2メートルから広い所では20メートル程の平らな面が出来ており波が穏やかな時には人が歩く事が出来ます。
その平らな岩場からの釣りは釣り好きの人には格別です。
海は透明度が高く魚が見えるのです。
見える魚を釣る事が出来るのです。
これ以上の醍醐味は他には有りません。
その平らな面には多くの潮溜まりが有り、小魚や貝、ウニ、タコ、ウツボ、色鮮やかな熱帯魚等がおり、時間を忘れて時を過ごす事が出来ます。
小さな子供に取っては夢の島です。
今から40年ほど前に成りますが東京で少年が熱帯魚販売店に入り盗みをした事件が報道されました。
私がこの少年と知り合いに成り、島の話をしていればこの様な事件は起こらなかったと言う気がしました。
又夏休みの大潮の時で満ち潮が夜の8時頃で、引き潮が夜中の時には夜の大潮は魚が眠る為に大きな魚が潮溜まりに来て、引き潮の時に取り残されるので簡単に銛で突く事が出来、島の楽しみの一つでした。
船着き場の有る西港で沈み行く真っ赤な夕日を眺めるのも好きでした。
子供の頃は夜には満天の星空を見上げ、流れ星や人工衛星を見つける事が楽しみでした。
都会では見る事が出来ない夜空は星が満天に広がり、川のように輝く天の川は夜空に輝く星の大河です。
竹取物語に出て来る「かぐや姫」が月に帰る描写が書かれていますが、この様に昔の話には美しい月の話が多く出て来ます。
現代の生活では考える事は難しい事ですが、昔は月の満ち欠けが如何に普段の生活に重要で在ったかを身を持って体験しています。
今や都会だけでなく田舎も街灯が付き「一寸先の闇夜」と言う言葉を実感する事が出来ません。
日本では東京オリンピックが開催され豊かに成り始めましたが、田舎の方ではまだまだ豊かさとは程と遠く、特に沖縄では生活をして行く事が大変な時期でした。
島でも電機が使えるのは夜の6時半から9時半までの3時間で勿論道には街灯等は有りませんでした。
その為新月の月の出ない夜は自分の指先さえも見えない真っ暗闇なので懐中電灯を使っていました。
昔なら提灯と言う事に成ります。
島での生活には懐中電灯とロウソク、ランプは必需品でした。
その反対の満月の夜は月明りで道がはっきりと見えるので懐中電灯は必要ないのです。
特にお盆の日の満月は一段と明るく、人の顔も見分ける事が出来ました。
十五夜の夜は親戚が祖父の家に集まり、美しい月を眺め親達は御馳走と美味しい酒を飲み日頃の疲れをいやしていました。
小学校低学年の私は兄弟や従弟と特別に明るい満月の夜に皆とやる鬼ごっこが楽しかった事を良く覚えています。
昔は今の時代とは違い生活に追われ、休みが殆どなく働く事が当たり前でした。
楽しみと言えば盆と正月、祭りと学校の運動会でした。
戦後の貧しい時代、多くの農村地帯では僅かな楽しみは子供も大人も村を挙げて楽しんだのです。
その事が子供は村全体で育てると言う事に繋がり、終戦後の日本の会社の終身雇用に繋がるのだと思います。
戦後の日本の復興は奇跡と呼ばれ、1991年のバブル崩壊までは自由主義国家の中で最も成功した社会主義的国家と言われたものです。
日本国は明治維新後に西洋の文化や技術を積極的に取り入れたが常日頃自然災害の多い日本国は飛鳥時代の聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の言葉通りにお互いが助け合う事で命を繋いで来た歴史が有ります。
日本民族の「アイデンティティー」は元々の共同主義的な社会で育まれたものだと思います。
その事は今も続いており「お互い様」、「おかげで何々」、そして「すみません」と言う言葉はよく使います。
外国の方が日本人はなぜすぐに謝るのかと言う間違った解釈をされている方がすごく多いと思います。
勿論「すいません」は謝る時にも使いますが、多くは相手を気遣う言葉です。
例えば、すみませんが何々を取ってくれませんかと言う意味は、お手数をかけて申し訳ありませんがと言う意味の相手を気遣う言葉です。
その他にも「すみませんね」お忙しい中来て下さいまして、「すみません」子供がお邪魔しまして等沢山の気遣いの言葉が有ります。
昔は今よりも災害の度合いが多く、生き抜く為には助け合いが必要だったと思われます。
助ける側も助けられる側も災害の多い日本ではその両方を体験する事が有り、自然と「お互い様」と言う言葉が生まれたのだと思います。
聖徳太子の十七条憲法「和を以て貴しとなす」の言葉通り、強いものが生き残る社会制度よりも災害時には多くの人手が必要に成り、お互いが助け合う事が生き残る確率が増えると言う事を国民は肌で感じ取って居たのだと思います。
40年ほど前のテレビ番組で西洋人がアフリカの観光旅行で現地の生活が変化していく様子を克明に語って居ました。
厳しい環境の中お互いが助け合い生活を共にしていたのですが、観光客が落として行くお金が村の生活に大きく影響を与え、今まで見た事もない様な品物や飲み物を知る事に成り人々の欲望を刺激します。
観光客が飲み干したコーラの空き瓶を村人が取り合う映像が流されました。人は欲しい物があると争いが始まるのが常で自然な形だそうです。
大東島の村社会では祭りや運動会等で子供は大人や上級生、村の青年達の優しさに接する事で、社会の仕組みを少しずつ分かる様になります。
当時の大東島の祭りは沖縄の祭りの「エイサー」では無く、八丈島独特の舞いながら和太鼓を叩く姿が今でも心に深くしみ込んでいます。
神社では奉納相撲に始まり、その後神輿を担いで島内を練り歩くのです。
学校行事の運動会も大人を交えて、村挙げて地区対抗のの運動会に成ります。
大人達は競技に勝つ為には栄養が大切と言って「ヒージャー」会の為ヤギ一頭を解体して鍋にして酒を飲みながら親睦を図るのです。
当時は肉を食べる事は贅沢で殆ど無く、子供に取っても運動会の練習の後の食事会は楽しみでした。
運動会の日は畑仕事や海での漁も休みで、朝から村挙げての催しの為、御馳走を作り学校に集まり子供や青年達の競技を応援するのです。
各地区に応援歌が有り大声で歌った記憶が有ります。
後に東京の明治神宮球場の早慶戦をテレビで見ていたら両校の応援歌に聞き覚えが有り、自然に大東島の運動会の歌を口づさんでいました。
早稲田と慶応の歌詞を島の地区名に変えていたのです。
当時の大東島はテレビが映らない為に殆ど情報が届かないのです。
この事からも戦前の大東島は如何に本土との結び付きが強かったかを示す材料の一つです。
戦後もしばらくはその習慣が強く南北大東島小中学校は毎年交互に船で島を渡り競技大会を開きお互いの親睦を図って居ました。
戦後の日本はまだ貧しく子供も働き手の一員とされる事が多く、学校を休んで家の手伝いをやらされる事が多く、学校に行く事がどんなに楽しいかを島の子供達は知って居ます。
島には学校所有の砂糖キビ畑が有り、修学旅行の費用を捻出していました。小学生の高学年から何回か畑の草取りの時間が有りました。
島にも仕事柄収入の格差は有りますが、子供達には差別なく全員が修学旅行に行けるように考えて居たのです。
戦後10年余り戦前の共同社会的な風習が続いていました。
大人に取っては小さな島でも子供に取っては十分すぎる大きさです。
まして島にはハブが生息して居ないので、危険が少なく子供達は伸び伸びと遊ぶ事が出来、野山を駆けづり回り遊んで居ました。
自然を常に感じ、季節毎に変わる草花や蝶々やトンボを取っては虫籠を作り、メジロを取っては竹籠を作り餌をやり育てる。
台風の多い島ではサトウキビが大きな被害を受けます。
この様な時でも子供は遊びを見つけます。
台風接近で風が強く成ると雀や燕が学校の軒下に避難します。
そこで何人かの友達と一緒に軒下の雀と燕を広い学校の運動場に追い出し強い風の影響で飛び立つ事の出来ず地面を這いずり回る雀や燕を追いかけて捕まえるのです。
小学校の5,6年生に成ると小刀一つ有れば切った木や竹を使い船やコマ、凧、竹とんぼ、竹馬等を作り遊びに事欠く事は有りませんでした。
今時の子供達と違うのは殆どがお金のかからない上に、日が沈めば遊びは終わりで家に帰る時間です。
今の時代は与えられたゲーム等の遊びが殆どで何時でも何処でもゲームが出来る為ゲーム依存症に成る人が多くて問題に成って居ます。
それに殆どの遊びにお金が必要で親に取っては頭の痛い話です。
本来子供の遊びにはお金が掛かる事が少ないのです。
最近は子供が何か習う場合は専門家に頼む事が多く、その為にお金が必要に成って来ます。
私達の子供時代は兄弟が多かった事も有り、兄や先輩から教わる事が多かったです。
子供達は遊びの天才で、何時の時代も変わる事無く遊びに夢中に成る物です。
子供に取って遊びは必要不可欠な事です。
遊ぶ事で身につ事が沢山有って子供達の遊びは常に真剣勝負で、時には喧嘩もします。
友達同士なので喧嘩をしてもすぐに周りの友達の助けを借りて仲直りをします。
その様に子どもは他人との関係を学び社会の一員に成る準備をするのだと思います。
人は生まれた時は等しく同じ環境にいれば似たようなスタートから始まります。
然し年々個人の持って生まれた素質と環境で変わって行きます。
人生の終わり頃には大きく変わって来ます。
かってテレビでアフリカの難民施設の子供をアメリカの夫婦が養子に迎えアメリカに連れて帰ります。
その後大学まで進学し、豊かな生活を手に入れました。
日本でも病院での赤ちゃんの取り間違いが起き、裕福で教育に関心が高い家庭の子供と生活に追われている家庭の子供を取り間違える事件が起き、成人するまで分りませんでした。
このニュースは人生には環境が如何に影響をもたらすかを目の当たりにした記憶が有ります。
教育に関心が高い家庭で育った子供は大学に進学し、豊かな生活を送る事に成りました。
もう一方の家庭で育った子供は病院が子供を取り間違ったせいで進学も出来ず、今の生活環境を作ったと言う事で病院を相手取って裁判を起こしたのです。
この二つの事でも分かる様に人は生まれた場所や育った環境で大きく変わると言う事です。
特に幼少期の環境は大きく影響を及ぼすと思います。
琉球時代の風習が色濃く残る沖縄に於いて大東島は沖縄県に属していますが風習や社会制度は古い日本の共同的な社会制度色濃く残っている村です。
私は物の捉え方や考え方は江戸時代の人と近いと自分では思って居ます。
祖父の家に遊びに行き何回か肥溜めに落ちた記憶が有ります。
昔は家の外の畑の近くに便所を造り一杯に成ると移動します。
使っている便所は囲いが有りすぐに分かりますが前に使てた便所が何か所か在り囲いも無く分かりにくいのです。
その為たまに行く祖父の家の便所の場所が分からず遊びに夢中に成ると落ちるのです。
自宅にも汲み取り式の便所が有り野菜に肥料として掛けていました。
また最近、世界は寿司ブームですが江戸時代にはマグロのトロが捨てられていたと言う話に多くの国民が信じられないと言います。
私は実感として分かります。
昔の大東島は肉はあまり食べる事が出来ませんが魚は豊富でした。
毎日刺身を食べて一週間も続くと飽きて来ます特にトロは刺身では食べません。
脂が多いので焼き魚にするととても美味しいです。
最近テレビで食の番組が多く有りますが試しに毎日トロの刺身を腹一杯に食べさせて見て下さい必ず飽きが来ます。
江戸時代の食生活を感じる事が出来るかも知れません。
また一方で生まれた時からアメリカの施政権の下で常日頃ろの買い物はドルを使い琉球時代の三線と歌が盛んな島にまた新しい洋楽が流れベトナム戦争の真っただ中、沖縄は今まで経験をした事の無いアメリカ世(ゆ)の時代に入りました。
当時の沖縄は今日の様に行きたい観光地の上位にランク付けされる事は無く、本土に来た時は琉球政府のパスポートを持って来ました。
中には沖縄の事を知らない人もおり、知っていても英語を使っていると思い君は日本語がうまいねとも言われました。
沖縄の生活習慣は今でも日本では無く東南アジアの生活習慣に近いと私は思って居ます。
中でも日本と決定的に違うのは沖縄は横の繋がりが強いのに対して日本は縦の繋がりに重きを置いている気がします。
その事を最も表して居る出来事が映像に残されています。
沖縄の県知事の殆どが庶民が踊るカチャーシーを当選した時に踊ります。
沖縄では同じ目線でないと当選しません。
今から25年ほど前に「ここがヘンだよ日本人」と言うテレビ番組でアフリカ出身のゾマホン氏が日本は素晴らしい所が沢山有るのに何でアメリカの真似ばかりするのかと話して居ました。
私も全く同じ思いで番組を見ていました。
私は19歳で日本に来ましたがパスポートのせいか知りませんが日本国を外国と言う意識が有り、常に外から日本を見る癖が強く日本語の上手い外国人的な感覚は今も変わる事は有りません。
ベトナム戦争時代の沖縄はアメリカ兵で溢れ、かの有名な映画「グリーンベレー」を見た後に当時のアメリカ軍が作った嘉手納基地から那覇軍港までの広い道の一号線をグリーンのベレー帽を被った兵士がジープに乗っている姿を見ると一瞬此処はベトナムかと思うほど錯覚に陥りました。
当時の沖縄は一号線の両側にフェンスが張めぐされており、軍事基地には戦車や軍事車両が所狭しと並び、反対側には芝生が広がる広い米軍住宅が立ち並んでいました。
貧しい沖縄の人々が暮らす狭い住宅とは対照的でした。
米軍基地の多い沖縄では米兵が起こす様々な事件が起きています。
1959年の米軍の戦闘機が小学校に墜落し、多くの小学生が犠牲に成った事は広く知られています。
中でも衝撃を受けたのは私が高校生の頃1968年の嘉手納基地内でのB52爆撃機が離陸に失敗し墜落しました。
搭載していた爆弾に引火し大爆発を起こしました。
当時はベトナム戦争中で沖縄にも核が有り、もし核納庫の場所に墜落していたら大変な事に成って居たでしょう。
その事を沖縄の記者が質問したら沖縄の米軍の最高責任者の弁務官は沖縄の人達だけでは無く我々アメリカの軍人と家族も住んでいるのでその様な事は起こりませんとのコメントでした。
勝手に人の処に土足で入り込んで来て自分達もいるので安心して下さいとは何事かと憤りを感じた事を思いだします。
本土のテレビ番組で日本の政治家は安保ただ乗り論を度々口にします。
此のまま日本の自衛隊がアメリカ軍の助けをしないのならば、日本が有事の際にはアメリカ軍は日本を助けないのではないかと話します。
此処が本土の人と沖縄の人との認識のの大きな違いです。
沖縄県民はいざと言う時にアメリカ軍は助けてくれるのだから少しは我慢しなさいと言われ戦後80年近くに成りました。
今の政治家は少し前の政治家と違い、安保闘争や本土での米軍基地反対のデモ等を体験していないので沖縄の気持ちを知る事が出来ないのだと思います。
戦後10年以上が経つと日本における米兵の事件が増え各地でデモが起きました。
中でもアメリカ海兵隊は嫌われ者で何処も受け入れる事を望みません。
アメリカに於いてもです。
日本政府とアメリカ合衆国は新安保条約を結ぶ為、これ以上反基地闘争が広がる事をを懸念して、いち早く厄介なアメリカの海兵隊を沖縄に移す事に成ったのです。
それにも関わらず学生による安保闘争が広がり政治に混乱をきたしました。昔の自民党にはこの事を知っている人が居たが今の自民党には歴史を学ぶ人はいません。
だから沖縄の基地についてちぐはぐな話をするのです。
深夜のテレビ番組でも何回か沖縄米軍基地問題は与野党が出て討論を行いました。
決まって結論は沖縄が其処に在る事が米軍の基地の70パーセント置く理由に成り地政学的に仕方がないとの結論です。
沖縄が如何なる反対をしようとも基地の移転はこれ以上は困難だと思います。
日本政府はアメリカの意向には逆らう事が出来ないからです。
そこで政府にお願いが有ります。
沖縄県民は基地が有る事で問題が起きているのではないのです。
アメリカ兵が訓練の為に沖縄の基地を使いそこで問題を起こしているのです。
沖縄の基地は地政学的には沖縄に無くてはいけないのなら仕方が有りません辺野古の基地を含めて受け入れましょう。
その代わり米軍の訓練は本土でして下さい、80年間沖縄は米軍の訓練と騒音で大きな被害を受けました。
基地を受け入れる代わりに静かな沖縄を返してください。
特に自民党の防衛大臣の経験者で基地を受け入れた事の無い選挙区で当選した議員は基地を受け入れる事を宣言して国会に出て来て下さい。
昭和40年代の沖縄は高校の授業に祖国復帰討論会が有り、クラスのホームルームで良く討論をした記憶が有ります。
戦後20年も経つとクラスには米兵との間に生まれたハーフや米軍関連の仕事についてる親の子供が一人や二人はいました。
当時はベトナム戦争の中に有り、ハーフの子供はアメリカ人の親から聞かされていたのだと思います。
真剣に今アメリカ軍が沖縄からいなくなると日本は共産国に成ると熱弁を振るっていました。
当時アメリカは世界の中心で為替レートは1ドル360円で強いアメリカの象徴でした。
那覇の街で映画を見てそばを食べても25セントあれば足りていました。
当時のアメリカはそれ程豊かでした。
日本国内でも映画スターや金持ちはアメ車と言って大きな車体のアメリカの車に乗る事がステイタスで有り、憧れの的でした。
本土に来ている沖縄の人は里帰りの帰りのお土産は関税が掛からないのでアメリカ製の「ジョニ黒」と言うウイスキーか煙草の「マールボロ」と「ケント」が定番でした。
その後日本の高度成長期を体験し、1ドル75円の時も有り、あんなに高かった輸入品も驚くほど安く成りました。
1980年代のバブル期には日本国の土地の値段でアメリカの国の土地を二つ買う事が出来ました。
日本の経済は正にバブルでした。
バブル崩壊後は失われた30年と言われ今なお厳しい冬の時代が続いています。
この様な日本にしたのは年齢の高い順に責任が重いと私は思います。
最近の治安の悪化は目を見張るものが有ります。
政府は日本を安全で安心に暮らせる社会と常に言っていますがそれは日本の防衛政策と結び付ける話です。
いま国民が一番求めている治安の悪化とはかけ離れています。
若者には今の社会が当たり前で昔の日本の治安がしっかりした住み易い社会の事は知りません。
我々年寄りには当たり前な話でも今の若者に取っては聞いた事の無い出来事が沢山有ります。
「温故知新」と言う諺がある様に昔の良い所を参考に此れからの新しい社会に役立ててもらいたいと思います。
生き物は子孫を残す為に本能的に行動をする遺伝子を持っています。
人間だけが何故か自己の欲望を満たす事に熱心で地球の未来や子供達の未来をおろそかにして来ました。
最後は生き物本来の遺伝子を発揮して子供達の未来に繋がる行動を取り、冥途の土産にしましょう。
  【第二章】国の在り方の前書き
ここからは日本の未来と世界の未来を考える年寄りの妄想の話に成ります。
特に日本の政治は与党も野党も国民を裏切って来ました。
与党も野党も選挙の時の公約の半分でも実現出来ていたら日本はどんなに住み良い社会に成って居たか過去のテレビ番組の政治家の発言を紐解いて見れば良く分かります。
1993年は自民党の55年体制が終わりを告げ、待ちに待った野党連合が政権を取り国民の期待を一身に浴び細川内閣がスタートを切りました。
然し政治家達は自分達の面子を重んじ内輪揉め、国民をそっちのけで身内同士の権力争いに明け暮れ、野党連合はあっけなく幕を閉じます。
しかも55年体制で自民党と最も対峙してきた野党第一党の社会党が連立を組みました。
社会党委員長の村山富市氏が総理に成り自民党と社会党、新党さきがけが連立を組み多くの国民の期待を裏切り政治不信の始まりが起きたのです。
いくら社会党が言い訳を多く並べても社会党支持者を納得させる事は出来ず次回の選挙で大敗を喫し、社会党の消滅の始まりに成りました。
村山内閣の発足当初から自民党の傀儡政権と言われ実質の権限は自民党が握り政官財の癒着が切れる事は無く今も脈々と続いています。
国民に取ってはまさに「青天の霹靂」でした。
この事は政治にあまり関心の無い40歳以下の国民の殆どが知りません。
又2009年の選挙で国民の期待を背負い再び野党政権が誕生しました。
この時も政権内部の意見の対立で支持率がガタ落ちしているにも拘らず野田総理は国会で自民党の解散要求を独断でのみました。
選挙の結果再び自民党に政権が戻りました。
度重なる政治家の嘘に国民はさらに政治不信に陥り無党派層が大幅に増え今では自民党の支持率よりも多く成りました。
2024年度の今現在の自民党の支持率が30パーセント弱ですが無党派層は40パーセント強です。
世界的に見ても政党支持率の一番多い政党よりも無党派層が多いとは考えられない現象です。
戦後政治は自民党の政治であり、野党は自民党が国民の信頼を失いかけた時のガス抜きの働きしか出来ません。
日本の野党は政権担当能力が無く、自民党に取っては最高のパートナーと言えるでしょう。
一度権力を手にした者は失いたくないのが世の常です。
その為政権与党の自民党は野党に成った瞬間から形振り構わず与党に成る事を画策するのです。
戦後の日本は実質的な政権交代が無いので自民党関係者のみが既得権益を手中収め、そのネットワークが日本中に張り巡らされている状態です。
野党も含めて一部の国民が其のおこぼれに預かって居る状態です。
80対20の法則で例えると国民の2割が其のおこぼれに預かって居る事に成ります。
80対20の法則は初めはビジネスの本として広く知られたが、今ではあらゆる事柄に当てはまるとされています。
その事から政治の世界に当てはめて見ると社会党が自民党と連立を組む事は政治家に取ってはそんなに違和感が無い事が良く分かります。
つまり国民の中で恵まれた立場にいる人達は2割でその中には与党も野党も入って居ると言う事に成ります。
恵まれた2割の特権階級の人達の中での政権交代と言う事に成ります。
残りの6割の人達の要望は選挙に勝つ為のパフォーマンスでしかないのです。
この事は世界的に見ても政治の行き詰まりを感じさせます。
先日の連合の会合に岸田総理が来賓として呼ばれた事が何よりです。
与党の応援団「経団連」と野党の応援団「連合」はどれも今や勝ち組で日本における特権階級に属しており、80対20の法則の20の中に入ります。例え政権交代が起きても20の中の交代で有り、多くの国民の声が届きにくい組織に成って居るのだと思います。
法則と言う言葉を使っている事は政治不信が日本だけではなく世界中で起きている事だと思います。
自国ファーストなる言葉が当たり前に成り、極右政党が台頭して来ており、戦争や紛争が世界中で起きて来ています。
昔なら革命と言う手段で政権を奪って来ましたが今の時代は難しく、混沌とした時代に成りつつ有ります。
歴史は繰り返すと言う言葉通りヨーロッパで生まれた産業革命で労働者が摂取され大きな格差社会が出来上がりました。
その為マルクスの思想が生まれやがて共産主義国が誕生しました。
世界は大国の覇権争いに巻き込まれ今や人類は滅亡に近づいています。
国内では江戸末期の時代の様に政治に金属疲労が起き国民の意志を組み取る事が出来ません。
此のままでは今の岸田内閣が終わり、例え野党が政権を取っても日本の政治は変わる事が無いと思います。
物事は「逆も真なり」と言う言葉が有る様に世界が自国ファーストの波に覆われている今こそ政治を地球規模で考える事も必要かもしれません。
その事を成しえるのは日本国以外には無いと思います。
日本国民のアイデンティティー「和を以て貴しとなす」の言葉通り争いを好まない国民性です。
資本主義で有りながら共同社会主義的な価値観を持ち、多くを欲しがら無い謙虚な人々が多く暮らす少し前の日本社会です。
近代から現代までの歴史観は白人が築いた価値観で占められており、その事が如何にも正しいかの如く信じられて来ました。
戦って勝つ事が国が残る唯一の方法で負けると他国の領土と成り奴隷にされる為戦いの歴史でも有りました。
人類がアフリカの南部で誕生してから今日までの歴史は人間同士の富の奪い合いの歴史でも有ります。
その結果今や人類の危機であり、地球の危機でも有ります。
アフリカのボツワナ国から始まったと言われて居る人類は道具を使う事で食料の確保が飛躍的に多く成り、より多くの子孫を増やす事が出来ました。
又文字の発見で多くの技術が後世に伝わり目覚ましい進歩をします。
人間は個体では動物の中でも弱い部類に入り、生き残る為には有る程度の集団が必要に成ります。
あまり争いの無い比較的小さな集団の時は黒人の突然変異で生まれた白人のアルビノは共に暮らす事が出来ました。
その中で黒人と白人の間に生まれたアラブ人は次第に勢力を増します。
北へ北へと移動を始めやがて今のエジプトに付き文明を開きます。
文明は富をもたらし、富の有る所には必ず争いが起きます。
その時には似た者同士が集まり集団を作り戦います。
さらに大きく成ると国を造り領土の確保に努めます。
白人は北アフリカに国を造りギリシャを経由してヨーロッパへと移動しました。
旧約聖書のリンゴは案外富を表しているのかも知れません。
この時代には人類は食料の保存や財産の所有が有り権力者の戦いが増えて行ったと思います。
戦いに敗れた権力者は自然に土地を追われ新しい土地に行く事に成ります。人間の持つ不思議な力は祈祷師や生贄の儀式などを執り行い、権力者の力を見せつける為に時の宗教集団と結び付き権力者自らを神格化します。
やがては宗教を柱とした国家が誕生し、権力者と宗教の結び付きが強く成り後に有名な十字軍の宗教戦争に繋がって行きました。
その争いは今も続いておりイスラエルとパレスチナ人の戦いも宗教と深い関わりが有ります。
ロシアのウクライナ侵攻もプーチン大統領はロシア正教の支持を取り付ける事で国民へ自らの行動が正しい事だと判断させるのです。
かっての日本でも天皇陛下を日本国唯一の神とし、これまでの神仏習合を廃止し軍部が天皇陛下の名の下、国の統帥権を独占して太平洋戦争に突き進むのです。
聖徳太子の飛鳥時代から続いた仏教の教えを広める寺院と天照大御神を祀って居る伊勢神宮を参拝する習慣は今も日本社会の日常です。
東京での初詣には「明治神宮」参拝後に「浅草寺」の参拝は普通にやって居ます。
権力者は昔も今も変わらず神の名の下に国民を戦場に送り、戦死者を殉教者にするのです。
日本がなぜ世界を変える事が出来るかを考えた時に大切な事は地政学的に日本が極東に位置している事です。
世界地図はイギリスのグリニッジ天文台を0度に定めています。
人類の歴史を見る時の経度は人類の発祥の地南アフリカのボツワナ国の東経20度を中心に人類が地球上を移動する様子を確かめる事だと思います。
日本は東の果ての極東に位置し多種多様な文化を作りながら日本国に付く時には人類のチャンプルー文化(ごちゃまぜ文化)の最終地点に成りました。
ボツワナ国からの人類の移動は北には陸路エジプトからヨーロッパへそして東への移動はメソポタミア文明、インダス文明、黄河文明そして朝鮮半島を経て日本へと文明は伝わりました。
また船での移動はマダガスカル島を経由してインド、スリランカ、そして南アジアのインドネシアへと繋がります。
又南半球にはマダガスカル島から海流に乗ってオーストラリア大陸に渡り、現在も独特の文化を持つアボリジニ人に繋がります。
パプアニューギニアを経て一部の南アジアの人々と共に南太平洋の島々を渡りハワイに着いたと思われます。
一方インドネシアやフィリピンに渡った人々は大陸から渡って来た人々と長い年月をかけ多種多様な民族を作り上げました。
ユーラシア大陸の北ルートと中央ルートを移動して来た民族はその交差点のモンゴル人と黄河文明の流れを持つ中国大陸の人々と混ざり多民族国家中国を作ります。
その一部の人々が台湾海峡を渡り台湾で南方系民族と混ざり現在も独特の文化を持つ「台湾原住民族」に成ったのだと思います。
その人々が南西諸島を北に進み鹿児島から高千穂に辿り着き天照大御神に繋がるのだと思います。
人々は北へ西へと移動して邪馬台国を造り卑弥呼の誕生を見ます。
一方中国文明は朝鮮半島に伝わり朝鮮に繁栄をもたらします。
繁栄は常に争いを引き起こします。
戦に負けた者は生き残る為に新しい土地に逃げて行きます。
そこで優れた文明を地元民伝え融和を図り国家を作り繁栄をもたらします。その繰り返しで文明はアフリカから世界へ広がって行きました。
日本でも朝鮮でも有名な倭寇は案外朝鮮半島で戦に敗れた王族が復権を目指して戦いに臨んだのが始まりかも知れません。
またその様な人々は日本に多くの文明を伝えています。
朝鮮半島に近い北九州や山口県、島根県、鳥取県は古来から日本に住んでいる人々と渡来人の間に子供を儲け繁栄を築きます。
島根県にある出雲大社は神社であるにも関わらず天皇陛下が行く事の出来ない唯一の神社です。
出雲大社の西には「大国主大神様」と「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」が国譲り、国引きの舞台と成った伊佐の浜の「屛風岩」が有り、神々を迎える始まりの場所でも有ります。
浜の海辺には弁天島が有ります。
弁天島を西に見て日本海の遥か彼方には朝鮮半島が有ります。
出雲大社を中心に日本古来の原住民と朝鮮半島から来た、渡来人の間に出来た子供達が優れた技術で日本列島を西へ西へと支配地域を広げて行きます。
京都、奈良に着く頃には邪馬台国を造り今の日本人のDNAの基に成って居ると思います。
韓国や北朝鮮は豊臣秀吉の朝鮮出兵や明治時代の韓国併合を激しく非難しているが時代を遥か昔の縄文時代に遡ると、時の朝鮮が日本を併合したのかも知れません。
日本の成り立ちの中で渡来人との交わりを頑なに拒んだ一部の人々は西へ逃れ関東を境にさらに北へ北へと逃れ最後は今の北海道に辿り着いた「アイヌ民族」が日本人の「原住民族」だと思います。
学説ではアイヌ民族は北方民族とされています。
北方民族の特徴はモンゴル人に見られるように太陽の光が氷に当たり反射する光から目を守る為に一重に成ったと言う事を聞きました。
私が初めてアイヌ民族の事を知った時に自分に似ていると感じたのです。
堀が深く髭が濃く二重で琉球人そっくりでした。
今年に入り「アイヌ民族」と台湾の「原住民族」の交流が初めて行われたと言う記事を見ました。
これも何かの縁かも知れません。
近い将来遺伝子解析が進み「台湾原住民」と「沖縄原住民」、「アイヌ民族」の遺伝子が凄く近い事が証明されるかも知れません。
日本と韓国で共に反日、反韓運動をしている人は近い親戚かも知れません。「骨肉の争い」と言う言葉が有る様に遺伝子が案外近いのかも知れません。
日本古来の神「天照大御神」は伊勢神宮に奉られ天皇家唯一の神の系統を今日に繋げています。
天皇家の宮中祭祀は国の安泰と国民の幸せ、五穀豊穣等を願い祈りを捧げる信仰です。
自然の恵みに感謝し自然界のあらゆる処に神が宿ると言う「アイヌ民族」の信仰心に相通じる処が有ります。
かってハワイの王様が日本の明治天皇に合う為に来日した時の有名な話が有ります。
大航海の時代から植民地の開拓に余念のない欧米はついにハワイまで押し寄せたのです。
ハワイの王様は有色人種の中で唯一植民地化されていない日本にアジアの盟主にと懇願されました。
まだ力不足の日本には西洋の優れた技術力に立ち向かうには荷が重すぎ、ハワイの国王の申し出を受ける事はしませんでした。
ハワイの国王も自然の恵みに感謝表す日本の信仰心にハワイの信仰心を重ねたのかも知れません。
その時にもう一つの申し出が次期ハワイの女王に成るカイウラニ王女と日本の皇族との婚姻を望みましたがこれも丁重にお断りしました。
皮肉にも60年後の太平洋戦争にはハワイの王様の言葉を借りて植民地に苦しむアジアの国々の開放をと叫び、大東亜圏構想を広げ太平洋戦争に突入して行きました。
真珠湾攻撃は60年前のハワイの王様の願いを果たそうと考えたのかも知れません。
ハワイの国王が来日した明治14年は世界が欧米中心に動いており、日本も中国の様に成るかの瀬戸際に在りました。
日本の宗教観は世界でも類を見ない独特な考え方で天皇家は国の安泰と国民の生活の為に五穀豊穣を願い祈りを捧げる事です。
また国の柱に成る国民の教えには仏教を中心に儒教などを取り入れ多くの寺院を設け後の寺小屋に繋がる教育の場所としました。
神仏習合の習わしが聖徳太子の飛鳥時代に出来上がりました。
日本人の自然界のあらゆる場所に神が宿ると言う信仰のもっともな教えが「お天道様が見ている」と言う言葉です。
親からよく言われたものです。
他人は騙せても自分は騙せないと言う事が正直に生きる事への大切さを教えているのです。
その心が外国人が落とした財布が戻って来る日本を驚きの感じでSNSに挙げるのです。
ヒンズー教や仏教にはヨーロッパのキリスト教やユダヤ教、イスラム教の様に一神教では無く多くの神が存在します。
日本でも八百万の神々が居ますが仏教との違いは万物に神々が宿ると言う原始的な南方系の信仰心に近いと言う事です。
アフリカで誕生した人類は海を渡り西へ移動した人々はマヤ文明、アンデス文明、アステカ文明等を作り上げました。
その多くは遺跡などで見て取れますが国として残る事は有りませんでした。一方ユーラシア大陸の東の黄河文明は朝鮮を経て日本に伝わり南の文明との交差点に成りました。
日本からさらに東への移動は大きな太平洋と言う海に遮られて行き場を失います。
民族のアイデンティティーは国の置かれた環境に大きく影響を受けます。
狭い日本でも初めの内は戦いに敗れた権力者は西へ逃げさらに北へと逃げて行きました。
やがて逃げ場が無く成り行く場所が無いので一部の有力な権力者以外はその場に留まる事を選びます。
今でも源氏や平氏の隠れの里が有ります。
また新しい権力者は災害の多い日本では少しでも人手が欲しいので残った人々を大切に扱います。
そこで聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の言葉が日本人の心の基本と成り、今日まで続いているのだと思います。
多くの文化が混ざり合う日本で完成した宗教観は八百万の神々で多くを受け入れ争いを無くす文化です。
商売の仕方はアメリカに習っても政治の在り方は長い歴史のある日本独自の方針で考える事も必要だと思います。
世界には多くの国が有り、多くの民族が其々の文化を持っています。
国内での政治にも多様性が求められています。
世界の姿も多様性を認め、変える処はその国の自主性に任せてそこに住む人々が幸せを感じる事が出来る様に協力する事が大切だと思います。
一神教の様に自らの神が絶対だと言う考えの排除の論理では世界の平和は訪れません。
争いの無い世界を目指すには多くの文明が混ざり合って出来た文明の最終到着点の東の果ての日本の文明が必要なのです。
日本人の心の中に有る自然を愛し、万葉の時代から歌を詠み、争いを好まず「喧嘩両成敗」成る言葉を国民に広く知らしめ定着させ現代まで繋がって居ます。
又勝負の世界に引き分けを作り今も国内では広く採用されています。
明治以降の日本は欧米列強の植民地に成らない様に全ての目標を富国強兵に置き植民地の回避に努めました。
時には欧米との間の力不足による不平等条約を結ぶ事も有りました。
なりふり構わず欧米の真似をしました。
イギリスが清王朝にアヘン戦争を仕掛け圧倒的な軍事力で中国に不平等条約を結ばせ一部を植民地化します。
それに続きフランス、アメリカも中国に植民地を持つ事に成ります。
それを見た明治政府は巧みに外国との条約を国ごとに使い分け時間を稼ぎ、軍事力を強化して行きました。
日本も欧米の技術力を取り入れ力を付けると明治12年に清王朝に琉球分割を提案します。
宮古島、石垣島、八重山それと今問題に成って居る尖閣諸島を中国に、沖縄本島から北を日本国に分ける案を中国は拒否しました。
琉球は歴史的に中国の属国で有り、日本国は脅かしで琉球を手に入れたのだと今も主張しています。
そのため中国はそもそも尖閣列島は日本の領土では無いと言う立場を取って居るのです。
もし仮の話してして琉球が独立国に成れば尖閣諸島は琉球の領土として認めるかも知れません。
明治以降の日本の政治は全て欧米の政治体制を真似て作り上げて来ました。役人の多くを欧米に派遣をし優れた技術を見て回り、多くの外国人技術者を日本に呼んで日本の発展に努めました。
その為西洋人の生活習慣を取り入れ和装から洋装に切り替え、鹿鳴館を作り外国人をもてなしたのです。
その事により明治以降の日本は欧米に追い付き追い越せを合言葉に軍事力に力を入れました。
日清戦争、日露戦争に勝ち欧米を真似して中国に植民地を作りました。
又朝鮮を併合して満州国の建国の為の前線基地にしました。
満州国を関東軍の指揮権の下に置き益々軍事力に力を入れ軍部の独走を許しました。
今のロシアと同じく言論の自由を奪いマスコミを軍部の宣伝機関にして、多くの国民を騙し、戦場に送り出しました。
戦死者を殉教者にして靖国神社に奉り、国の英雄としての体裁を取り最後は学徒出陣まで突き進み多くの若者の命を奪いました。
過去の戦争の歴史を紐解くと宗教と結び付ける事で戦意高揚に利用して戦死者を神とする事で立場の弱い国民を戦場に送り出して来ました。
この流れは今も続いており、此れからも続くでしょう。
靖国神社の問題は戦時中一億総攻撃と叫び特攻隊を編成し、狂気の作戦を実行させた事への生き残った政府役人と軍部の高官の戦死者への贖罪の意味合いが強いのです。
国の為に命を無くした人達の御霊を弔うのは当然の事ですが信じていない宗教の神に奉られても本人や遺族は納得が行きません。
当たり前の事です。
死んで尚、政治に利用されるとは戦死者も浮かばれません。
全ては今生きている人達が勝手に自分の都合の良い方向に利用している事を自覚してください。
此のままでは戦死者への冒涜に成ります。
第二次世界大戦で全ての物を失った国民は戦争の無い平和な生活が全ての物に勝る事を実感します。
額に汗して懸命に働き1964年に東京でオリンピックを開催をして世界が奇跡の復興と称えました。
その後経済は順調に伸びGDPが世界第2位までに成りました。
団塊の世代と呼ばれる後期高齢者は戦後の貧しい時代から段々と成長を続ける一番良い時代に生まれました。
若者には多くの借金を残し冥途に旅経とうとしています。
せめて最後に額に汗して働く人達が報われる社会を取り戻す手助けをして旅経とうでは有りませんか。
バブル崩壊後の日本社会はズルくて、賢い人達が出世をする社会に成り企業に活気が無くなり衰退の坂を転げ落ち続けています。
明治維新直前の状態にある事に権力者は気付いていません。
権力者は自らの力で今の地位にいると信じているのです。
権力は腐敗すると言う言葉通り政府の政策は知らず知らず権力者の都合の良い方向に変化して行きます。
やがてはその事を当たり前に思い気に掛ける事もしなくなり、そして腐敗するのです。
明治の初めに資本主義を取り入れ日本国の資本主義の父と呼ばれている渋沢栄一氏は今年1万円札に成りました。
当初と趣が変わり、新しい会社を作る為の資金集めの株式が今や投資目的の金儲けの手段に成り渋沢氏はあの世で嘆いていると思います。
全てが資本家の有利に働く様にその仕組みを変えて来ているのです。
1971年世界通貨の基準に成って居るアメリカが通貨制度を金本位の固定相場を辞め変動相場にしました。
その事が金(かね)を動かす事で金(かね)儲けが出来る為替相場成る仕組みが出来たのです。
今の日本が円安で苦しんでいる変動為替は本来の金融政策では有りません。本来金(きん)は価値が高く少量で持ち運びが出来、品物と品物の仲立ちに最適でした。
その為に世界各地で金と銀が貨幣として使われて居たのです。
同じ価値の金(きん)で金(きん)を買う事は意味が有りません。
だから1971年までは為替相場成る商売は無いのです。
今の円安も無く投資目的の資本家に悩まされる事も無いのです。
この事からも分かる様に社会の仕組みは自然と権力者の為に有利に成るように変わって行くのです。
日本でも国の借金が増え財政がひっ迫しています。
然しその中に有っても法人税や高額所得の人達の税率が下がり得をしているのです。
今の資本主義は当初の目的から変貌をして完全に「資本家」主義に成って居ます。
近い将来はインターネットの発達でキャッスレス時代に成り貿易も仮想通貨を使う様に成ると思います。
いずれ世界中央銀行が出来、世界通貨の発行を担い今の外貨準備高に応じ仮想通貨を割り当て貿易の対価の仲立ちを担う様に成れば本来の金融制度に戻り為替相場と言う金で金儲けをするおかしな制度は無く成り、まともな貿易が出来る様になります。
基本的には物と物の取引ですから貿易赤字や黒字と言う事は無くなります。
各国が発行する紙幣は国内だけで通用する通貨に成ります。
私の友人が今から60年前に話して居た事が現実の世界に成って居る事に驚いています。
科学雑誌に載ってた事を話して居たのです。
彼の父は電話の埋設工事の会社を経営しており将来は誰でもテレビ電話が使える時代が来ると言っていました。
当時は電話を持つ事は金持ちの人だけだった時代です。
まさに夢物語だったのです。
多くの人が同じ思いを持っている事は必ず実現できると信じて妄想を語りたいと思います。
次回は日本の平和憲法を生かした軍隊の無い防衛政策を語りたいと思います。

 


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