武田砂鉄× 信田さよ子トーク書き起こしTBSラジオ 「武田砂鉄のプレ金ナイト」2024年5月10日放送

武田
武田砂鉄のプレ金ナイト、ここからはゲストコーナーです。
今日お迎えするのは、公認心理師・臨床心理士の信田さよ子さんです。よろしくお願いします。

信田
よろしくお願いします。

武田
信田さんとは何度かイベントでご一緒しました。昨年と今年、2回ほどご一緒しましたけど、そのときに僕は今いろんな流行りの音楽で「止まない雨はない」というのが、歌詞がたくさんあるんですよっていうふうに言ったら、へえそうなのって、ものすごく引きながら興奮してましたね。

信田
信じられない。

武田
いや、でもね、流行ってるんですよそういう非常にポップでね、前向きな曲っていうのは。ずっとそれが続いてますけど、最近信田さんのSNSを見てたら、足袋型のスニーカーを間違えて買って、足袋の靴下ないから履けないみたいなことを書いてましたけど大丈夫でしょうか、心配してたんですけど

信田
あれはあげました。

武田
あげましたか?

信田
はい他人に、はい。

武田
それはもう、注文するときにはその足袋型のスニーカー

信田
履けると思ったんですよ。

武田
普通に履けると思った?

信田
そう。で、いざ届いてAmazonでね、そしたら私、足袋型のソックス持ってないことを気づいて、あちゃーって思ったのが、それでXに投稿したらすごくウケてましたけど、

武田
そうですよね、僕もすごい心配なりましたけどね。

信田
はい。そういうところなんかね、笑ってやってください。はい。

武田
今あの、公認心理師・臨床心理士という紹介をさせてもらいましたけども、これご自身の仕事をこう説明するっていうのは、なかなか苦労されるといえば苦労されますかね。

信田
しますね、はい。私の実感と公的な見解がちょっとね、解離があったりして、公的には心の専門家っていうふうに言いますよね

武田
自分の中の認識としてはどういうことなんでしょうか?

信田
私の中の認識はね、心ってよくわかんない人だから。でも心理ってね、心のことわりですから。そういう意味では、心の専門家ですよ。うん会長でもあるし、ええはいはい。

武田
でもこの番組は以前、東畑開人さんお越しくださったことがあるんですが、最近東畑さんとの対談の中で信田さんが、私は「心」っていう言葉はあまり使わないようにしてるのよっていうことをおっしゃっていて

信田
そうですよ、あんまり使わないし普段から。

武田
何、なぜ故にと言われるとどうして?

信田
よくわかんないっすよね、やっぱり心っていう実体があるかどうかって言ったらそれはわかんないわけで、やっぱりそれを実体とするといろんなことがまずくなっちゃったりすることもありますよね。

武田
それは…

信田
だから東畑さんとの対談でも言ったんですけど、やっぱり私の基本は、心というものはカコウ的な実体があるとすると、やっぱりその心を扱うっていう、そういうふうにしちゃうことができないっていうか、それはなぜかっていうと今日のお話にも全体通じますけど、私が70年代から取り組んできたのがアディクションであり、アディクションというのは暴力と紙一重だし、暴力っていうのはもう家族の中で凄まじいものだし、その心なんて言ってる余裕ないっしょみたいなところが現場で。今でもそういうところがあるんですよね。

武田
そのアディクションっていう言葉っていうのは、改めて説明していただくというとどういう

信田
そうですね今アディクションって言ったのは、日本語では嗜癖というふうに、嗜癖っていうのはたしなむ癖というふうに書きますけど、嗜癖って言われたり、依存症って言われたり単なる依存って言ったりするということがありますよね。一番いい例が、もうギャンブルですよ。

武田
ギャンブル…最近ねわりとニュースに

信田
最近もう毎日のようにメディアを賑わしている某大リーグの、通訳の方ですね、ああいうことも含めてアディクションというふうに言っているわけですね。簡単に言うと行動の悪習慣。だからやめようと思ってもやめられない。うん。意志の力ではどうしようもないっていうことが本当その本体だっていうふうに言われてますね

武田  
この暴力とアディクションの最初の方で、(はい)その心が折れるっていう言葉っていうのが割とポップに使われるようになって多用されるようになったっていうそのことに対して、割とどちらかというと首をかしげるようなことをお書きになってましたよね。

信田
そうですよね。

武田
それはどう、心が折れるっていうことってでも、そこからまた非常に自己責任的なものが生まれる育まれてしまうっていうことなんですよね。

信田
でもね、私も実際心が折れるって言ったりするんですよ。心折れちゃったっていうのは自分でも使ってるんじゃんとか思ってるんですよ。それはね、心を鍛えるとかっていう使い方じゃなくて、折れるていうのがポイントですね。はい。だからマイナスの意味に使う。(うん)、だから、何て言うかな自己啓発的なものにならないようにしてるわけですよ。(うん)、私はもう本当にもう根っから自己啓発が大嫌いな人間なので、(ええ)、だから心を成長させるとか、心を鍛えるとか心穏やかにするとか、心を涵養するとかいろんな表現がありますよねそういうのはもう基本的に私は嫌で、(ええ)心は折れるもんだし、心は波立つもんだし、そうですよねそれ以外あんまり使わないかな、個人的にはね。ただあの公的には心の専門家です。

武田
でもその心という言葉をそんなに、それこそポジティブに使いたがらないっていうのは、それをポジティブに使ったときに本当はその個々にある心なんてものの正体ってのはわからないのに、あたかもあるかのように発見してそれをこっちにやったらもっと良くなるよ、あっちになったら良くなるよっていうふうに、ある意味アドバイスしやすそうに見えるけどそれが危ういのではということですか

信田
実はね精神っていうのも似たようなもんで、私達は精神という言葉を使わないんですよ。それは精神科医が特権ですからね。私達は心理っていうふうに言っていて、そういう意味でも大変難しい立場にあるわけですよ、うん。だから精神って言っちゃったときに精神科医のテリトリーになるので、心って言うしかないんだけど、心を実体化したときにそこで何が損なわれるかっていうと、社会的な影響とか歴史性とか、(うん)、そういうものがやっぱり希薄になっていくっていうことがありますよね。私の基本的立場は、その場の状況とか関係とか、そういう社会も含めてですね、そういうものと無関係に心を考えられないっていうそういう立場なので、

武田
だからどんな人でも置かれた状況からどういう言葉が出てくるのかっていうのを待つっていうこと

信田
待つっていうか、何ていうか…ここの中にも、私の暴力とアディクションにもありましたけど、生存戦略っていう言葉はね、ちょっと最近使わないけど、あの言葉を手に入れたときに私はすごくとてもいい言葉だと思ったんですよ。(うん)、つまりあらゆる心の問題っていうのは生存戦略で説明できるんじゃないかっていうふうに思って、つまり生きるためにやる。だからそういう意味では基本的に全て肯定されなきゃいけない。結果がどうあろうと、まず肯定されなければいけない。(うん)、だけど、アルコールだってギャンブルだってその人が生きるためにやったそれは肯定されるべきなんだけど、結果的にもたらされたものがその人は危うくしたり、周囲の人の生存を危うくするんだとしたら、やっぱりそれは何とかしなきゃいけないっていうところでしょうか

武田
生存戦略っていう言葉を、ある意味悪く使うというか、その生存戦略っていう言葉が自分にあれば、(うん)、何をしても、それが自分の自己肯定に使って、周りは非常にそれで痛めつけられたままの状態になるっていう可能性も

信田
それは悪く取ればねそうですよね。犯罪だってそうだし、ただそこで私の仕事は司法ではないので、ちょっと逃げなんですけど、私はそういう意味では目の前にいる人、その人たちが何とか生きていけるための援助をするってことが、(うん)、もう仕事だと思ってるので、基本的にそういう生存戦略的にそれを都合よく使う人がいるかもしれないけど、それも含んだ上で私はその言葉を使いたいというふうに思っていますね。

武田
暴力とアディクションの中でも、この15年間もいろんな震災もあり、社会状況も悪くなったときに、

信田
この椅子低いかな

武田
低い…上げましょうか

信田
ごめんなさいラジオでこんなこと言っちゃって、なんか武田さんがすごい上に見える

武田
僕も座高の高さには定評があるんで

信田
失礼、(ええ)、ごめんなさい、

武田
なかなか生放送中に

信田
聞いてる人ごめんなさいね

武田
椅子を 変えましたからね

信田
よかった、これでなんかねちょっと調子出てきた。(調子出てきました?)、はい、すいません、

武田
上から見下ろすようになるとね。

信田
いや、何か見上げる存在の砂鉄さんみたいな感じでした。はい。

武田
暴力とアディクションの中にもですねいろいろ震災であるとかいろんな紛争があるときに、例えば自分がDV被害に遭っていたりとかそういう方たちが、(うん)、何々比べれば私はとか、○○と比べたら私はそんなに大したことないんだっていう、その自分が受けている状況を、(うん)、何か周りのものと比べて、小さなものにしようとするっていう動きってのがあるというふうにお書きに

信田
そうですね、私日本は特に下方比較っていう言葉でね、あの本では書いてありますけど、比較っていうのは誰でもする、私自身が自分が唯一無二であって、他者と違うってこと自身が既に比較の中にあるわけですよね。そこには2種類あって自分より優れた、なおかつ自分より持てるものに対する比較と、自分よりもっと苦しむ、もっと持たざる人との比較、それを下方比較っていうふうに二つに分けると、日本って基本的に下方比較の国なんですよ。もちろん嫉妬とかそういうのはありますよ。(ええ)、だけどやっぱり権力にある人が使うのは、やっぱりもっと苦しい人がいるから我慢しなさいとか、あの人に比べたらあなたは恵まれてるんだからそんな文句言っちゃいけないとか、そういうふうにしてその人の欲望を制御し、我慢するということのために比較を使うっていう、それが下方比較、それがやっぱり日本、つまりこの国の危機のときに必ず出てくるんですよ。私が一番思ったのは、やっぱり3月11日のあの東日本大震災の後のあの何とも言えない空気、もう私はときの空気だけはもう2度と味わいたくないと思っていますね。

武田
その頃の空気感のこともお書きになってますけれど、まさにそういう比較するっていうことと、当時やっぱりその絆っていう言葉が出て、非常にフワッとした言葉で絆っていうのを置いたらば、家族は連携しなければいけないし地域社会は連携しなければいけない。もちろん、連携することによってできることってのはあったんでしょうけれど、その言葉をぱっと投げられただけで、あとよろしくね、でもここはすごく比較し合って、あれやっちゃいけないこれやっちゃいけないってことになった。それはコロナがね始まったときにもですね、(そうですね)、同じような空気感っていうのはありましたけどもね、(ほんとに)、ああいう状況でどうすれば、その比較することとかそのある意味適当に投げられた言葉みたいなものから、ふっとよけることってのはできるんでしょうね。

信田
やっぱりすごい変な言い方ですけど、やっぱりわがままでいる勇気っていう感じでしょうかね。自分勝手よねって言われることに耐えられること。だってわがままじゃないのとか自己中じゃないのって言われたときこそ、しめたと思って、「えー」って言いながら、しめしめこれは私の主体なんだっていうふうに思うとかですね。本当に日常的なことなんですよそれは、つまり私達の日常にそれはあふれているのでその都度やっぱりちょっとわがままじゃないのって言われたときに、しめしめって思うような回路を脳の中に作るとかですねそうしないと、この巨大な下方比較、私達を我慢という名で押さえつけていく力に対抗することはできないと思いますよね、抽象論では。

武田
3月だったかな信田さんや何人かの方とリモートでイベントをやったときに、愚痴とオチって、話してるときに出てきて、今それにそれこそテレビ番組とか、もしかしたら売れてる文化作品そうかもしれないけど、とにかくオチがどういうものかっていうものに対してものすごくみんな急いでいて、それがないと何か完結しない。それがあるといいオチだったみたいなものになる。そうじゃなくて、もっと今お話あった話とちょっと通じると思うんですが、この愚痴っていうものをもっと復権しようみたいな話をね

信田
そうです。そういう話でしたよね。

武田
つまり、あなたは「わがままじゃないの?」って言われたときに心の中で「よし」って思えって今ね、おっしゃってましたけど何かこう、これもまた言い方を間違えると難しいんだけど、ちょっと人のせいにするとか、(そうです)、うん頭の中でね、(うん)、その感じっていうのはどっかで持ってかないと、(うん)、全部背負っちゃうとなかなか呼吸困難になりますもんね。

信田
そうですね、やっぱり誰が背負ってるかっていうとやっぱりどんどんどんどん、やっぱ一番弱い人が背負ってるんですよね。力を持ってる人は絶対背負わないじゃないですか、(はいはいはい)、すごいですよね

武田
背負わなさったらね

信田
背負わなさって…もう何て言うの、もう何て言うのかな、存在してれば誰かが背負ってくれるっていう、当然でしょっていう図々しいほどの空気感っていうのはね、政治の世界見てるとよくわかりますけど、だから私たちはそういう意味では愚痴の復権っていう、イベントときもね、もっと愚痴を言おうっていう話が出たと思うんですけど私は本当に、だってカウンセリングなんて愚痴みたいなもんですからね。

武田
愚痴を言いにに来るっていう、(そう)、今こうなんですよと

信田
そう。それを愚痴っていうか、それともその人が困ってることを話してるって言うかですよね。だからよく日本の今の特に30代以上の男性って、弱いっていうことにすごくネガティブなイメージを持ってますよね。

武田
弱いと思われたくないってことですか

信田
そうそう、だから弱さを平気で出す人に対して嫉妬を覚えて叩くっていうのはあるじゃないですか。(なるほどなるほど)、だから弱さをそのままストレートに言って愚痴を言うと、やっぱ許せないって思って、だから私なんか今日の話も今後出てくるかもしれませんけど自助グループとかグループカウンセリングやってるけど、いろんな人に言うとね、何か傷のなめ合いですねって、10人に言うとね7人ぐらいから言われるんですよ。私はねそれが何かって言うんです。傷をなめ合うっていいじゃないのって述べられたことないし自分の傷を、はい、自分の傷を認められないでしょあなたっていうふうに言わないけど心の中で思ってる

武田
確かに傷のなめ合いっていう言葉ってのはすごくネガティブな言葉と何となく思われてますけれど

信田
ですよね。どうしてなんだろうな。

武田
なめ合うっていうことっていうのは、ある意味そこにいる相手と、非常にコミュニケーションが取れてるという、(そうですよ)、ことではありますよね

信田
それでもって自分で猫飼ってね、猫がね、もう1匹の猫をペロペロなめてるとかわいいとか言ってね、(はい)、自分では傷のなめ合いは嫌だって言ってるって感じ、なんか変ですよね。

武田
それはやっぱり傷をなめている光景とかなめられてる光景が、弱い光景が

信田
猫だったら許せるのかな。

武田
猫だったら許せる

信田
人間だと駄目なのかな、

武田
見られたくないってことなんでしょうかね。

信田
なんかね。そんな弱さを、なんか弱さに甘んじてる自分であってはいけないみたいな、だから男らしさは解体したっていう最近言いますけど、根幹のところですごくね弱さに対するアレルギーがありますよね。

武田
それどうやったら改善というか、変えられるんでしょうね。

信田
私に聞かれても

武田
ことだね…それはこちらで男性であるならば男性でやるよって

信田
どうなんですかね。なんかだからロールモデルっていうのかな、そういう弱さをオープンにするロールモデルみたいにして芸人がいるみたいに見えるけど。あの人たちはオチをつけることで、そんな弱さを自分は何とか克服してるぜみたいな巧妙な、適用的な姿を見せてますよね。私こんなにお笑い芸人が満ち溢れてるテレビの業界って何だろうと思うんですけど、私やっぱりずっとね、小学生から学校で生き延びていくときの一つのモデルがね、芸人だと思ってるんですよ。あの人たちを見ていて、ああやってやればいいんだ、ああやって切り抜ければ、笑いが取れるんだっていうのを学習していく。だからその相手を傷つけない程度に言って、すっと引いて笑いを取ってるって、有吉的なものとかね、そういうのってね私すごく今の非常に困難を極める人間関係の中を生きていく一つのスキルだというふうに思ってますね。

武田
そうですよね。でも本当にその限られた仲間内の中で会話にオチをつけなければいけないっていうプレッシャーを、その3人組なり5人組の中で抱えていてそれを休み時間ごとにね、話してくんだとしたら相当な負荷がかかりますよね。

信田
そうですよね。だから本当に小学生からね大変だと思いますよね。

武田
本当にどうなっちゃうのかなっていうね。今回暴力とアディクションというご本の中で、DVの問題っていうのはずっと信田さんが追って来られたところで、この本を読むとわかりますけれども、そのDVっていうものは、暴力というものは非常に言葉にするのに時間がかかるし、加害している側も被害を受けている側も、それが暴力であるんだ、DVであるんだっていうことを認めようとしない。(うん)、うなずこうとしないっていうことっていうのが書かれてますけれども、それはやはりずっとカウンセリングを続けてこられてもやっぱりずっとそれは感じてこられたところなんですか

信田
そうですね、なんていうのかな。これは多分アメリカの政治状況と関係して…またそんな大きく出ちゃってすいません。1980年代からアメリカは変わりましたよね。ベトナム戦争が75年に終わって、レーガン政権になってから、やっぱり時の政権がですね、弱者をどう扱うかっていうことが非常に政権の一つの大きな課題になったっていうか、ちょっといえば、内向きになったっていうか、そこで出てきたのがアディクションという言葉だったり、そしてアダルトチルドレンとかですねそういう言葉が一斉に85年ぐらいから出てきた。それと同時にトラウマって言葉もアメリカで出てきたんですよ。それから10年遅れて日本では95年からトラウマとかアディクションって言葉が一般的にね。あとアダルトチルドレンとかっていうのが、メディア的にも扱われるようになったって。だからアメリカから10年遅れてるのは日本だっていうふうにもし仮定するならば、そういうような政治的な政治社会的な状況とそのDV虐待トラウマって言葉が出てきたのは何ていうかな、パラレルだと思いますね。それはどういうことかっていうと、普遍的なラインっていうのはですね、健常者を基本にした心理学や精神医学、精神医学は違いますけど、それがだんだんその目線を低く取ってきた。つまり、男性中心から女性中心、その後で様々なインターセクショナルな様々な差別っていうふうに世の中がだんだんなってきてるじゃないですか、だからそういうふうにしないと、やっぱり政治的な状況というか政治権力が持たないようになったというふうに私は思ってるんですね。だから逆に言えば日本は90年代の終わりまでは暴力なんてことは、家族の中にないというふうにされても全然日本の政治は平気だったんですよ。ところが95年に東日本じゃないや、阪神淡路大震災が起きて、あそこで一つ大きな日本転機が起きた。そこで何が出てきたかっていうと、やっぱり心が傷つく。心が傷を負う、それから人間はある種もろいものだというようなものを取り入れざるを得なくなったんですよね。そこで被害者っていう言葉が出てきて、そしてその被害者は社会の中だけではなくて、家族の中にもいるんだっていうことがある意味では共有されるようになったっていうのが、私は大きい大まかな流れだと思ってるんですよ。ただそれが95年以降なんですけど、実はアディクションの世界って80年代からそれをもう見ていたんですね。アルコール依存症がアディクションの中心なんですけど、70年代から私はアルコール依存症やその家族に会っていて、やっぱり一番衝撃だったのはものすごく殴られてるってことですよ、妻たちが。酔った夫がどんなことをしてたのか、そして酔った父が子供たちに何をするのかっていうのが全部酒癖が悪いとか、アルコール中毒の問題因子だろうということで片付けられてきたんですよ。それが初めて家族のその経験がそれはもう回収不能なくらいにもうやられてしまっているってことがだんだんわかってきたのが80年代ですね。ですから私は80年代の半ばから女性のアルコール依存症のグループとか摂食障害の女性たちのグループやるとものすごい彼女たちが性虐待を受けていたり、アルコール依存症の女性たちって飲むと、夫からボコボコにされるんですよねそういう人たちをシェルターに逃したりとか、そういうのをしてるとやっぱり家族の中って本当にいわゆる家族っていいものって言われてるそういう家族って、実はほんの一部なんじゃないかなっていうぐらいにちょっと私の認知が変わったんですよ。

武田
以前の本で、家族っていうのは、主語が不要な空間であるっていうことを信田さんがお書きになっていて、(はい)、その言葉っていうのは、ぞっとしますよね確かに、(うん)、動詞だけで、そこにいる支配者が、その動きを決めることができてしまうっていう。でもそれはこれまでの流れでいくと、その主語というものは別に個々に無くていいんだという。もうその中で動きは、統率する人間が全て決めてしまっていいんだっていうことになってたっていうことですもんね。

信田
そうですよね、本当に。それはおそらく、私はアダルトチルドレンの本書いてからいろんなシンポジウムに呼ばれて、ほとんど同世代の、団塊の世代の知識人と言われてる人と何人も一緒になったんですね。そのときに、みんながね、ACって嫌な言葉だねって言うんですよ。なんでかって言ったら、そんなに人のせいにしていいのかと、何でも親のせいにしていいのかと、自己責任はどこに行ったって言うんですよ。お前らそういうこと考えてたんかいみたいな。私は思ったんですけど名のある哲学者とかねそういうふうに皆さんおっしゃって、その人は何を言ったかっていうと、家族って…なんていうのかな、家族って…何て言ったらいいのかな、自分の分身だよねみたいなこと言うんですよ。自分っていう一部っていうかね。「えー!」って思って。この人勝手に一部って思ってるけど思われてる方は嫌だろうなって思ったりして。だからそのときにちょっと個人的には私と同世代の男性たち、70年代闘争かいくぐってきたはずなのに、その家族を見てないっていうか、家族の中にも権力が構造があるっていうことに。やっぱりこの人たち嫌なのかなってちょっと思ったりしたんですよね。

武田
気づくのがやだ、考えるのがやだっていうこと

信田
なんだろうね…あそうだ、自我の延長って言ったんだ。(自我の延長)、うん。

武田
自我の延長ってことにしたいというか、それで考えたいという

信田
疑ってないの

武田
疑ってないんですね。だから問われたこともないっていう。(ない)、だからそういうふうに信田さんに言われたときに、おい、そんな人のせいにしちゃ駄目、(そう)、すんなよと

信田
子供からね、親の被害受けたなんていう、そんなのそれは誰だってあるよと。僕だってあるよと

武田
それを乗り越えてきたんだよって、(そう)、いうことを言うわけですよ。

信田
それをね、事改(ことあらた)にも、20・30・40になってからね親のせいにして、それってあなた自立してないでしょみたいなこと言うんですよ。今でもACって言葉そういうふうに扱われてきましたけど、私はもう本当にあのときに自立ってことは絶対使わないって決心したんですよ。こんな危ない言葉はないなとか。

武田
それこそ今共同親権の議論がかなり急いで進んでいるところがあって、まさにこの本の議論の中でDV、今のね共同親権の中でDVがある事例っていうのは除外するっていうふうに言ってはいるけれども、果たしてそのDVというものをどうやって認識するんだと、認識できる状況、その認識というものが、それこそね、そういった国会議員の人たち今、賛成というふうに言ってる人たちにあるのかっていうことになると、相当首をかしげるし、そもそも非常に難しいものだということをお書きになってますよね。

信田
この間もね国会の参考人のところで、どうやって証明したらいいのかそれを、つまり被害者支援をやってる人たちがね。性被害だってそうですよね、証明できない。だからそこではやっぱり被害者の証言っていうものをどこまで取り入れるのかって話になって、DV事例は除くって言われたんですけど、私DV被害者のグループもずっとやってて、だってもう別れたい一心で、そうするとね、夫はね調停のときにね、調書ありますよね、そっからDVって言葉外せって言うんですよ。(外せ)、うん、つまり、お金は出すと、だけどDVという言葉は外してくれって、つまり、自分がDV加害者って言われることはものすごい恥なんですよ彼らにとっては。そうするとね妻たちはもう一刻も早く別れたいってお金を出すっていう、引き換えにDVって言葉削りましょうって削る人がずいぶんいるんですよ。そういう人たちはそういう事例はDVってカウントされないじゃないすか。

武田
それはもういち早くその関係性を断ちたいがために、(そうです)、本来のDVっていうものをもう優先するために外すと。(そうですね)、その書類上は完成した書類上はDVではなかったということに、(そうです)、なってしまうわけですね。(はい)、その状況の中でそれこそ今、こういった共同親権みたいなものが、(そうです)、通ってしまった場合というふうに考えると

信田
私達本当にね、本当に夫の面会交流、夫との面会交流で子供が大変だったりとか、そういう事例、そういう事例ばっかり見てるんでしょって言われたらそうなんですけど、そうすると、もう必ず家庭裁判所はね、子供の意見を聞きましょうって言ってお母さん排除して、子供といった一対一で聞いたりする。だからそういうときに何を言ってもそれをお母さんに洗脳されてんでしょみたいな目で見られたりして、とても大変な思いをするんですよね。だからそれは信田が偏ってるって言われたらどうしようもないけど、だって今養育費だって義務化されてないでしょ、(そうですよね)、そしてDVの加害者は何の義務もないじゃないですか。そこはそのままにして、共同親権だけってどうよって私は思ってますね。

武田
ねしかも非常に迅速に進めようとしている

信田
なんでだろうって思いますね。

武田
東畑さんとの対談の中でも、このハラスメントっていうのは法律を整備することによって、どうにかすることができるかもしれないが、DVっていうのやはり最後まで残ってしまうんじゃないかってことをお話になっていて、なのでこれは最後まで残ってしまうっていうふうに

信田
それはプライバシーとか、sexの問題とか最も個人的なものとか、親密圏とか、やっぱりその外部の目から遮断されるプライバシー保護とその暴力被害の問題ってすごい難しいところなんですよ。

武田
そうすると、その非常にプライバシーのある空間を外から、中にもちろん手を突っ込むんじゃなくて、どういうものかを想像する力っていうのを、持たないと大変なことになるわけですよね。

信田
それは歴史的にそういう弱者の側に立つっていうのがだんだん浸透してきたときに、家族における弱者って何か、ってときに、やっぱりそのジェンダー不平等指数ですかね平等指数が124を下っている日本の現状から考えて、やっぱり男性の方が優位に立ってるっていう現実は否定しがたいわけでしょ

武田
そうですね。

信田
だからやっぱり男女はもちろん、結婚するときは平等な、その対等性を保証するっていうことで結婚するわけだけど、様々な結婚生活の中で不平等っていうのはやっぱりどうしようもなくあるわけだから、そこをね実は自覚してないのは女性の方なんですよ。女性の方が私はわがままなんじゃないかっていうふうに言って、なかなかDVって思いたくないっていうのもあるので、(うん)、そこのところは本当に難しいところですね。

武田
以前、家族と国家は共謀するというね、非常に刺激的なタイトルをつけましたけども、そう考えるとどうその家族の問題国家の問題、本当にたくさんの問題がありますけれど、どういう眼差しを持つっていうことが今求められるんでしょうね

信田
私はね、やっぱり家族の問題で最後まで残るのはDVの問題だと思うし、一般社会の中で一番根幹的な問題、性犯罪の問題だと思ってるんですよ。それやっぱり男性中心的に動いてきた国家の一番根幹を揺るがすことだから。だから性暴力の法律が変わったのはすごく大きいし、やっぱりDVの問題って最後の最後まで残ると思いますよね。

武田
でも本当にその、さっきね最初に出てきた政治家の人たちがとにかく人のせいにする技術だけはたくさん持っている。だけど、弱い人たち弱いとされてる人たちが、そういった人のせいにする力、回路みたいなものを持たずに全部背負い込んでしまうっていう、これをそのまま反転させるってことはなかなか難しいかもしれないけれども、何かそこで、できる矢印というのは

信田
私はね、今いろんなそのキャンセルカルチャーとかね、いろんな問題ありますけど自分が被害を受けてるって自覚がものすごく大事だと思ってるんですよ。それって人のせいにするってことと別なんですよ。だから被害の自覚っていうのを尊重しなきゃいけないっていうふうに思ってて、被害の自覚が人のせいにすることとすり替えられて、認められないってことはすごく私は残念だと思う。被害の自覚がないと加害者が現れないんですよ。(そうですよね)、うん、だからいろんな時の権力がね、何で性犯罪の法律にここまで抵抗したのか、DV防止法の中で加害者に絶対手をつけないのか。もう絶対やろうとしないでしょ。(うん)、それってやっぱり何を恐れてるかですよ、うん。やっぱり日本の、それはもう革新政権も含めて勢力も含めてですよ、家族の中に、国家権力で規制するってことに対するものすごい抵抗というか、おそれがあってそこでは自民党と左翼的な政党が同じ危惧を持ってるっていうふうに私は考えてますね。

武田
その被害の自覚っていうものを、ある意味今はこう、茶化すとかね、軽んじるみたいなことってのも、たくさんいろんな話題で見たりもしますからね、そういうものに対して、ある種第三者がそれはおかしいぞっていうふうに言ってくっていうことも非常に重要なのかなってことも

信田
そうですよね。本当にそういう視点を持ってるラジオの番組があってよかったです。

武田
そろそろお時間でございます。今日ご紹介しました『暴力とアディクション』は青土社から発売中でございます。信田さん本日はありがとうございました。

信田
本当にありがとうございました失礼します。

公式YouTube
https://www.youtube.com/live/bSz9Ux0WZ64?si=qiw81rr-LDGScESc
※信田さん出演は冒頭より20分47秒〜

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