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どうする家康 第32回「小牧長久手の激闘」

 小牧・長久手の戦いは豊臣政権にとっても徳川家にとっても転機となる戦いであった。この戦いにおいては、十万人とも言われている秀吉軍が三万人の織田徳川軍に惨敗しており、結果として、それはこの時点における豊臣政権の弱みと徳川家の強みとを露呈させている。

 このドラマに描かれている初期豊臣政権の弱みとは、池田勝入、森長可といった織田政権有力者の一部が、未だ羽柴秀吉に心服していない事である。小平太が秀吉を扱き下ろす檄文を小牧山城周辺に貼り出した時、勝入はわざわざそれを本陣に持参しただけではなく、秀吉の面前で「それ、羽柴筑前守秀吉は…野人の子なり」「…元々馬前の走卒に過ぎず、信長公の寵愛を受け将帥に上げられると、その御恩を忘れ、その子等を蔑ろにし、国家を奪わんとする八虐罪の者なり。悪逆無道の秀吉に…」とこれ見よがしに読んでみせていたが、この時の芝居掛かった態度から見て、これは小平太の檄文を口実に将兵の前で秀吉を嘲っていた、と見て良いだろう。それが分かっているからこそ、秀長や秀吉子飼いの武将加藤清正、福島正則らは、憤懣遣る方無いといった顔で勝入と長可を見ていたのである。また逆にだからこそ、秀吉はそれを「豪放磊落に」笑い飛ばしてみせねばならなかったのだ―当然の事ながら、新たなる覇者たらんとする者が、「野人の子」や「馬前の走卒」や「その子等を蔑ろにし」といった言葉に一々腹を立てていては、沽券に関わるからである。尤も秀吉は自分で演じてみせている程、「大らかな」人でもないという事は、「おーしゃーも!も!も!も!も!も!もっとひでえ事ばっか!言われ続けてきたんだで」と言いながら(ここには若い頃、自分の尻をよく蹴り飛ばしていた柴田勝家の様な人々に対する怨念が感じられる)、小平太の立札を粉々になるまで下に叩き付けていた事や、自軍の兵士達に立札や書付を(絵踏みの様に)踏ませていた事からも窺う事が出来よう。因みに、この五年後、聚楽第の壁に秀吉を風刺する落書が為された時には、その時の番衆十七人は鼻削ぎ、耳削ぎにされた上で、逆さ磔にされ、更に落書に関与していたと目された百人以上の者達が処刑されている。この事件は本願寺を弱体化させる為の口実にされていた可能性もある様だが、それにしても、秀吉が「野人の子」や「馬前の走卒」といった嘲笑に対して内心穏やかでなかった事は明らかである。小平太の立札に話を戻すと、秀吉は「所詮!人の悪口書いて面白がってる様な奴は、己の品性こそが下劣なんだと…白状してる様なもんだわ」と如何にも真っ当な反論をするのだが、この言葉は実際には小平太でも、その主君である家康でもなく、目の前にいる勝入と長可に向けられている。こうした水面下の暗闘は、三河中入りを巡る勝入と秀吉の主導権争いにも窺われ、勝入が「筑前よ…ここは儂に従っとけ…この池田勝入がいるから、織田家臣達がお主に付いて来ている事を、忘れんで貰いたい」と露骨に自分の影響力を誇示するのに対して、秀吉は押し殺した様な声で「そういう言い方はせん方が良いぞ」と言う事で、「腹ん中じゃ、まんだ自分が上だと思っとる」勝入を抑え込もうとしている。最終的に、小牧・長久手において秀吉軍が織田徳川軍に敗れたのは、徳川方が密かに抜け道を作っていた事に秀吉方が気付かず、まんまと奇襲攻撃を受けた為であるが、更にその原因を探るなら、池田勝入、森長可と秀吉、その子飼いの武将達との間に緊張関係があり、それが性急な中入り作戦へと繋がってしまった事が大きいだろう。しかしこの緊張関係は、必ずしも勝入、長可が秀吉を(前回の正信の言葉を借りれば)「こーんの卑しき猿が天下人とは笑わせるなー」と蔑んでいた事から生じた、と許りは言い切れない。楽田城での秀吉は常に高い所に据えられた床几に座っているが、一々上から物を言ってくる秀吉の態度は、信長の乳兄弟池田勝入にとっては耐え難いものであったに違いない。また敗戦の後、即座に「儂の策ではねえ」と言って、討ち死にして反論も出来ない勝入に責任を擦り付けているのも、天下人の振る舞いとして褒められたものではあるまい。こうした傲岸不遜な所や無責任な所、更には「もっとひでえ事ばっか!言われ続けてきたんだで」という言葉からも垣間見える執念深い所等は、彼が日本列島全土を支配下に置いた時、誰憚る事無く発揮され、豊臣政権そのものの寿命を縮める事となる。

 これに対して、劣勢であった織田徳川軍が見事秀吉軍を破ったのは、偏に有能な家臣達が家康の下に結集し、一丸となって事に当たったからである。具体的には、先ず本多正信が逸早く秀吉軍の三河中入りを警告した事、そしてそれを受けた榊原小平太が堀を改修する振りをして秘密の抜け道を作り、そこを通って中入り勢に奇襲を掛けた事、更に井伊直政が旧武田兵を率いて奮戦し、本多平八郎が小勢を以て秀吉本軍を足止めした事などにより、織田徳川軍は秀吉軍を打ち負かす事が出来たのだ。これに加えて、(前回描かれた)羽黒の陣で酒井左衛門尉が森長可軍を打ち破った事も大きいだろう―恐らく三河中入り作戦には、池田勝入と森長可が羽黒の陣の雪辱を果たそうとして性急に事を進めた(そして更に、この二人に手柄を独占させない為、秀吉も慌ててその中入り策を採用した)、という側面もあった筈だからだ。この内、(謀臣として知られる)正信を除いた四人―小平太、直政、平八郎、左衛門尉―が後世「徳川四天王」と呼ばれる訳だが、勿論、「今川義元に学び、織田信長に鍛えられ、武田信玄から兵法を学び取った」家康の手腕も忘れてはならない。家康がこの三人の名前を列挙している事からも分かる様に、彼は自分をこうした東海地方の名将達の後継者として位置付け、彼らと自分との連続性を強調している。対する秀吉は「野人の子」であり、信長の「御恩を忘れ、その子等を蔑ろにし」ている手前、実質的には織田政権の後継者であるにも拘らず、寧ろ信長と自分との関係性を目立たなくさせ、全く新しい権威の創造へと向かう事となる。また家康が正信に「憎んだり恨んだりするのが苦手なんじゃろ、変わった御方よ」と評されていた事と、秀吉が自分を謗る立札を兵士に踏ませていた事とを比較してみると、憎しみや恨みという点では、この二人は極めて対照的な性格である事が分かる。こうした違いが生じたのは、前者が駿府で幸福な少年時代を過ごし、その後も自分を慕う忠実な家臣達と共に領国を経営していく中で武将として成長していったのに対し、後者が(第4回で柴田勝家に尻を蹴られていた場面からも想像出来る様に)それとは全く異なる環境において人格形成を果たした為であろう。さてここまで見てきたのは、「徳川四天王」と家康という徳川家の中心に居る人達であったが、実は徳川家の強さの本質はそこではなく、寧ろ冒頭アニメーションの「泥」を見ても分かる様に、彼らが大地との結び付きを保っている事にこそある。三河中入りの脅威に直面した家康らは、堀を深くしているかの様に見せかけながら、秘密の抜け道を作る事で、空堀を利用して密かに軍勢を動かす策を思い付くが、その際、兵士達だけではなく小平太、直政、平八郎といった将まで総出で土を掘り、泥塗れになって事を成し遂げようとしていた。今や五ヶ国を領有する大大名であるにも拘らず、将兵総出で地面を掘り、声を合わせて「このーひとーほりーがー、どっこい、どっこい、つちをかたーめてー、あしーがたーめー」と歌える事こそが、徳川家の強みなのだ。つまり小牧・長久手の戦いにおいては、大地との結び付きを介して一致団結する事が出来た徳川家の和が秀吉軍の不和を打ち破った、と言う事が出来る。だが軍議に際して、石川数正と平八郎、直政、小平太との間に意見の対立が現れ、戦勝後の宴会においても、数正が一人離れた所で浮かない顔をしていた事を見ても分かる様に、この和には早くも罅が入りつつある。数正が「敵はあれだけの兵に食わせるだけでも一苦労、長引けば、秀吉に焦りも出ましょう。さすれば!我らに有利なる和議を結ぶ事も」と言った時、左衛門尉も頷いていた所を見ると、(これまで常にそうであった様に)この二人の家老の間に大きな意見の相違はなかった筈だ。にも拘らず、数正だけが長年仕えてきた徳川家から出奔する破目に陥ったのはなぜだろうか?それは次回明らかにされる筈だが、一つには左衛門尉には(第18回における「空城の計」を見ても分かる様に)ああ見えて「勝負師」という一面もあって、平八郎や直政の様な血気盛んな武将にも相通ずる所があったのに対して、数正には寧ろ外交官としての性格が強く、秀吉との直接対決は危険過ぎる賭けだと思っていたのかもしれない。また宴会の時の様子から想像するに、(「戦いは五分の勝ちをもって上となし、七分を中とし、十を下とす」と言った、と伝えられる武田信玄の様に)下手に勝ち過ぎた所為で却って和議を結ぶ事が難しくなってしまった事を、数正は懸念していたのかもしれない。何れにしても皮肉な事に、人の和によって秀吉軍を破った徳川家は、この後、数正の出奔によってその和が崩れた結果、その後は豊臣政権の下で十二年雌伏する事となるのに対して、不和が因で織田徳川軍に敗れた羽柴(1586年からは豊臣)家は、寧ろ池田勝入、森長可が戦死した事で、前よりも大きな力で政権を掌握する事が出来るようになり、この後、十四年に亘って我が世の春を謳歌する事となる。だが満ち足りたものはいずれ欠け始め、欠けていたものは再び充足へと向かうのがこの世の常である。

 実の所、戦国大名としての徳川家が絶頂を迎えたのは、この小牧・長久手の戦いにおいてであった。家康の言葉通り、この戦は(1600年迄は)徳川家にとって「最後の大戦」となってしまったのだ。徳川家は小田原征伐にも参加しているが、あれは飽くまで「秀吉の戦」であり、徳川家にとっては不本意な戦であった。とは言え、秀吉に屈服する直前が絶頂期であったのは、長宗我部、島津、北条、伊達といった他の戦国大名も同じ事だ。しかし徳川家は1590年、秀吉の命により本拠地三河から捥ぎ離され、(旧領主の北条家と縁戚関係にあった事を除けば)殆ど縁も所縁も無い関東地方へと移封されるのだから、本領に留まっていた長宗我部、島津、米沢を奪われたとはいえ、隣接する地を領有し続けていた伊達よりも不利な環境に置かれた訳である。先祖伝来の地から引き離されるという事は、家中の団結を支えていた土地との結び付きを失うという事であり、それは徳川家にとってかなりの打撃であった筈だ。そうした逆境にありながら、なぜ徳川家は豊臣政権下において第二勢力としての力を維持する事が出来たのか、という問題については、これから『どうする家康』においてじっくりと描かれる筈であるが、一先ず言える事は、徳川家が「上手く年を取った」という事だ。しかもそれは(数え年七十五まで生きた)徳川家康一人に止まらず、関ヶ原の戦いの時には既に五十を超えていた(即ち、当時の人にとっては高齢と成っていた)平八郎、小平太や数え年四十歳(四十は「初老」である)と成っていた直政などにも言える事だ。小牧・長久手の戦いは彼らの壮年期、青年期に当たっていたが、関ヶ原の戦いはその老年期という事になる。家康と徳川家臣団がどの様に「上手く年を取っていく」のか、という事もこれからの見所の一つとなろう。

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