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どうする家康 第31回「史上最大の決戦」

 第31回「史上最大の決戦」は第16回「信玄を怒らせるな」、第17回「三方ヶ原合戦」と類似した所が多く、そこから見て、このドラマにおいては三方ヶ原の戦いと小牧・長久手の戦いとが対比されている、という事が分かる。以下、両者の良く似た場面やモチーフを対比した上で、そこから見えて来るものについて考えてみたい。

 先ず第16回には、武田家との戦いは避けられないと見定めた家康が服部半蔵に命じて、武田家の人質となっていた異父弟の源三郎を救出させる、という場面があった。言い換えれば、源三郎奪還を以て、武田家との長く苦しい戦いが始まる訳である。だがこれは作劇上の仕掛けであり、史実に照らせば源三郎救出は1570年11月であるのに対し、武田信玄の西上作戦が始まるのは1572年の9月なのだから、実は源三郎の一件と武田軍の侵攻との間には何の因果関係も無い。ここで小牧・長久手の戦いを巡る状況に目を転ずるなら、徳川家と豊臣政権との対立は、1586年10月、家康が秀吉に臣従する事で終息するが、家康に秀吉への臣従を決意させた出来事の一つが、石川数正の出奔である。恐らくこの事件は第33回辺りで描かれる筈で、それがどの様に解釈されるのかはまだ分からないものの、このドラマにおいて、源三郎奪還によって武田家との戦いが始まった事と、数正出奔によって秀吉との戦いが終息に向かう事とが対比されているのは確かだ。次に第16回では、秘教集団の道場を思わせる鍛錬場で武田兵が心身を鍛え上げている異様な場面があったが、第31回では、武田の遺臣に稽古をつけ、生傷の絶えない井伊直政が、腕の傷に包帯を巻いている場面があった。第16回に登場した勇猛果敢な武田兵は、第17回、第18回で描かれる三方ヶ原の戦いにおいて徳川軍を打ち負かす事になるのだが、第31回で直政と稽古に励んでいた旧武田兵は(彼ら自身は未だ劇中に登場していないとはいえ)、第32回では池田恒興、森長可の軍勢を撃破する筈である。また第16回において最も印象的であったのは、家康が重臣達との評議に際して、彼らに叱咤激励される場面であったが、第31回では打って変わって、家康自身が重臣達一人一人の覚悟を確かめていく。信玄との対立が避けられなくなった時、「儂の独断では決められぬ…御主らには…妻子がおり…家来もおり…所領もある…各々で…決めて良い」と家臣達の去就について各々の自由に任せた家康は、如何にも自信の無さそうな弱々しい君主であったが、重臣達はそれに対して「…皆の衆、どうする?うちの殿はこの通り、頼りないぞ」「勝ってみせるから付いて来いと言えんとは…情けない」と叱責しつつ、「信長とも手が切れますな。代わりにこれからは信玄に媚び諂って生きていけばいい」「この美しい浜松も、苦労して手に入れた遠江も、信玄にくれてやりましょう!」と反語的な言い方によって激励する事で、逡巡していた家康に武田家との全面対決を決意させるのである。ところが第31回では、家康は秀吉と戦うべきか否かという問題を重臣達との評議に掛ける前に、旧武田兵を手懐けようと悪戦苦闘する井伊直政、家中の若者達に『論語』の講義をする榊原小平太、槍の稽古に余念のない本多平八郎の下を個別に訪れ、直政を激励し、小平太の知略に期待を掛け、平八郎からは逆に発破を掛けられる事で、言うなれば、彼らの同意を事前に取り付け、その上で重臣達との評議に臨んでいる。これは一面では、家康がより狡猾に家中を制御するようになった、という事ではあるのだが、他面では、家康は自ら家臣達を叱咤激励し、家中を纏め上げて事に当たるだけの力量を身に付けた、という事でもある。さて第16回において、武田信玄は西上作戦を開始するに当たり、武田軍将兵を前に「天下を鎮め、世に安寧を齎す…それは容易い事ではない…織田信長…その器に非ず!彼の者、敵を増やし、戦乱を広げる許り…民は何時まで苦しめば良いのか?この期に及んで見て見ぬ振りをするのは、我が罪と心得たり!時は今、この信玄!天下を鎮め、人の心を鎮める為、都へ向かう」と自らの大義名分を高らかに呼ばわり、将兵の士気を鼓舞していた。これに対して、第31回での家康も「皆々…ここまで良う付いて来てくれた。この戦は、未だ嘗てない日の本を二分する大戦となろう…機は熟せり。織田信雄様のもと上洛し、今こそ我らが天下を取る時ぞ!」と将兵に訴えかけている。ここで注目すべきは、小牧・長久手の戦いを前にした家康もまた、西上作戦に取り組んだ信玄同様、京に上って天下を取る事を目指している点である。即ち、上方政権との関係という事で言うなら、ここでの家康は三方ヶ原の戦いにおける家康ではなく、寧ろあの時の信玄と良く似た立場に置かれている。なぜならこの時点で三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヶ国を支配している家康は、嘗ての今川領と武田領を合わせた地を領有しており、言ってみれば、武田信玄の後継者と言っても良い存在と成っているからだ。また信玄と家康は軍事行動を起こすに際し、どちらも上方政権における有力者の呼び掛けを大義名分としている―それは前者では足利義昭、後者では織田信雄であった。そして信玄といい、家康といい、実際には自分自身が天下を取る積りであったのだから、信玄―義昭、家康―信雄という同盟関係は、どちらも最初から同床異夢であったと言える。それはさて措き、第16回において、家臣達に押される形で信玄と戦う決意をした家康は、第17回においては、武田軍との決戦を前に岡崎の築山を訪れ、そこで瀬名と言葉を交わす。対する第31回では、重臣達との評議の後、秀吉と雌雄を決するという事で家中を纏めた家康は、今では奥向きの事を取り仕切っている於愛の下を訪れ、そこで彼女と語り合う。何れの回においても、家康は奥を差配する正室(若しくは、正室と同じ役目を果たしている側室)と対話する事で、家族に別れを告げ、尚且つ奥の女性達に対して大戦への覚悟をさせている(つまりここでも彼は入念に根回しをしている)と見る事が出来ようが、瀬名に対しては木彫りの兎を渡し、「これは、儂の弱い心じゃ…ここへ置いてゆく」と言う事で、自らの「弱くて優しい心」を彼女に預けて行ったのに対し、於愛に対してそうした事は言っていない。これは三方ヶ原の戦いの頃の家康が、摩利支天像を作り、徳川家の当主として雄々しく振舞おうとする一方で、他方では「弱くて優しい心」の象徴である兎の像を作って、それを瀬名に預ける、という二面性を持っていたのに対して、小牧・長久手の戦いを前にした家康は、この両面をどちらも自分に属するものとして受け入れ、それらを一つに統合しようとしている、という事なのであろう。現に自室で薬を作る(この行為自体が、家康の心中に瀬名が生き続けている事を示している)家康の後ろには、あの時の木彫りの兎が置いてあるのだ。ところで、石川数正の屋敷にも木彫りの神像が祀ってあったが、これはひょっとすると家康から贈られた物ではないのか(とは言え、これはあの時の猪に跨った摩利支天像ではない)?仮にそうだとするなら、第17回では瀬名に預けていた兎が(これは第25回で家康の下に戻って来る)第31回では家康の手元にあるのに対して、第17回で家康の手元にあった神像に似た像が第31回では数正の下にある事になる。これが何を意味しているのかは、今の段階では何とも言えないのだが、数正邸の神像が家康と数正との関係性を象徴しているのは確かであろう。それにしても、大坂から帰宅した後の数正や岡崎城に詰めるよう妻に命じる数正から強い疲労感が感じられる事を考慮するなら、この回の数正は第20回における大岡弥四郎の様に、打ち続く戦によって精神的限界に達していたのだろうか?或いは、第18回における夏目広次の様に、身を以て何かを守ろうとする決意を固めつつあったのかもしれない。さて第16回では、武田軍の旗指物だけではなく、ドラマの冒頭と結末に使われていたアニメーションにおいても、百足が武田家の象徴として繰り返し登場していたが、第31回では、本多平八郎が肩に掛けた大数珠が恰も百足の様に見える(因みに、この回で初めて鹿角脇立兜と大数珠を身に着けた平八郎は、漸く我々の知る「本多忠勝」になった訳だ)。前者の百足は徳川軍から見た武田軍の不気味さ、強大さを表していたのであろうが、後者の大数珠はその反対に、この小牧・長久手の戦い以降、徳川軍自体が嘗ての武田軍の様に畏怖の念を以て見られるようになる、という事を表しているのであろう。最後に1572年の合戦と1584年の合戦とを対比するなら、一言坂の戦いと羽黒の陣は何方も前哨戦であるが、前者では本多平八郎、内藤信成率いる徳川軍が武田軍に敗れ、後者では酒井左衛門尉、松平家忠率いる徳川軍が森長可軍に快勝している。また三方ヶ原の戦いには、次回描かれる長久手の戦いと似た所があるが、これまた前者では徳川軍が大敗したのに対して、後者では大勝している。こうして見ると、三方ヶ原の戦いの時にはあれほど頼りなかった家康が、十二年後の小牧・長久手の戦いに際しては、戦国武将として「すっかり頼もしく」なった、というだけではなく、三方ヶ原の戦いの頃には二ヶ国を領有していたとはいえ、まだまだ織田家や武田家に比べるなら弱小勢力でしかなかった徳川家が、小牧・長久手の戦いの頃には既に天下を取る事が出来る程の実力を備えていた、という事が分かる。

 ならば逆に問うてみよう―なぜ徳川家はこの時、天下を取れなかったのであろう?勿論、これに対しては、「秀吉の軍勢は、今や十万を超え」ていたとか、秀吉の調略によって「畿内の秀吉を日の本全土でぐるりと取り囲む」策が崩れてしまったとか、石川数正の出奔であるとか、色々と理由を挙げる事は出来ようが、ここではこの問題を「欲望」という観点から検討してみたい。実は家康及び徳川家は欲望に対して抑圧的である。それは直政、小平太、平八郎がひたすら刻苦勉励して大戦に備えていた事や、家康が自室で薬作りに励んでいた事などを見ても分かる事だが、この回から口髭を蓄える様になった松本潤演じる家康が、何処となく織田信長を彷彿とさせる、という事もその抑圧的イメージを強めている様な気がする。重臣達との評議に際して、「乱世を鎮め、安寧の世を齎すは、この儂の役目と心得ておる!…秀吉に…勝負を挑みたい」と言った家康の言葉は、「天下を鎮め、人の心を鎮める為、都へ向かう」と呼ばわった信玄のそれを想起させ、ここから見ても、彼には武田信玄の後継者という側面があった事が分かるが、同時に清洲同盟を大義名分に、織田信雄の救援要請に応える形で出馬した家康には、織田信長の後継者という側面もあった筈だ。だが信玄と信長が武を以て天下を治めようとした覇者そのものであったのに対して、家康はそれを良しとしない。家康は何とかして信玄、信長の覇道と、於愛が「御方様が目指した世」と呼んでいたものとを綜合し、「慈愛の心で結び付いた国」に力による裏付けを与える事で、「安寧の世を齎す」事を悲願としている。これは敵対する勢力を悉く粉砕していった信長に比べるなら、より宥和的ではあるのだが、秀吉という新たなる覇者を「何も持たぬ百姓であった男が、ありとあらゆる物を手に入れてきた…それが羽柴秀吉じゃ…そういう男は…欲に果てが無い」と切って捨てる家康には、見方に依っては、下剋上を封じ込めようとする抑圧的な所もあった。勿論、秀吉もまたこの後、自らが支配下に置いた土地において刀狩に取り組んでいく事を見ても、中央集権体制を築こうとする以上、兵農分離を進め、身分制度を固定化させていくのは避け難い事だったのだが、秀吉に比べて家康の方が人間の欲望に対してやや抑圧的であったのは確かである。尤もこれは家康が他者に対して抑圧的であったという意味ではなく、家康(更には三河武士の多く)が禁欲的であった、という事だ。それは家康がつい最近入手した初花肩衝を、祝いの品として秀吉にあっさり献上してしまった事を見ても分かる。無論、家康には「秀吉の腹の内を探る」という意図もあっただろうし、そもそも茶の湯にそこまで執着していなかったという事もあったのだろうが、彼が常日頃質素倹約を旨としていたのは事実だ。家康が禁欲的であった事―或いは、人間的欲望に対して抑制的であった事―は君主としての美点であり、彼が天下人に相応しい人物であった事を証明している。だがこれは同時代人の目にはどう映ったのだろうか?本多正信が「此奴を調略すれば秀吉の懐にふかーく入り込む事が出来る」と言っていた池田勝入こと恒興は、「秀吉の事は、好きにはなれん…が…信雄と家康よりは気前が良ーい」と言って秀吉方に付く訳だが、この時の恒興と彼の娘婿森長可の面構えを見ていると、彼らは秀吉の気前の良さに惹かれただけではなく、家康の禁欲性を直感的に感じ取り、それに反感を持ったのではないだろうか?また秀吉に「二度と、天下に手を伸ばすに及ばず」と言われて安土城から追いやられ、家康に泣きついた信雄だが、彼にとって家康というのは何処か圧迫感を感じさせる存在ではなかったか?それは秀吉との戦いを決意した家康が信雄と会見した際、「人払いを」と言って、部屋から三家老を締め出し、しかもご丁寧に障子を締め切った上で、「池田恒興殿の調略、お出来になりますか?」と尋ね、信雄が「遣ってみる」と答えると、畳み掛けるかの様に「お出来になるかと訊いております」と言った場面からも窺う事が出来る―しかもこの後、家康は信雄に三家老の誅殺を示唆するのである。或いは、池田恒興が秀吉方に付いた事で信雄が動揺した時には、家康は「信雄!…秀吉相手の戦が思い通りに行かぬ事は元より承知の上…既に火蓋は切られておる。総大将が狼狽えるな…信長の息子じゃろう…しっかりせい」と言って叱責していたが(そしてこの場合、これは正しい助言なのだが)、「はい」と答えた信雄の目には、家康があの恐ろしい父を想起させる存在に見えた筈だ。第4回(1562年)において織田家と徳川家の間に清洲同盟が締結されて以来、この同盟は同盟と言いつつも、家康から見るなら常に信長の圧力を感じさせるものであったが、それから二十二年経った今、今度は信雄が家康に圧迫されるようになった訳だ。これは皮肉な成り行きと言えるが、この八ヶ月後、信雄が家康に無断で秀吉との単独講和に踏み切ってしまうのは、彼の領土が秀吉側に次々と攻略されていったという事情も然る事ながら、矢張り彼は父親の様な男の下に居る事に耐えられなくなったのではないか?逆に彼にとって秀吉は、父の遺産を掠め取った「盗人」かもしれないが、父の様な不安を感じさせる存在ではないのであろう。詰まる所、池田恒興と織田信雄は秀吉の享楽性に惹き付けられたのだと思う。そしてこれは彼らだけではなく、この時代の多くの人々もまたそうだったのだ。家康は秀吉の「欲に果てが無い」と言っていたが、石川数正の顔を見て、「儂も、そなたの様な家臣が、欲しいのお」と言った秀吉は、貪欲さというよりは空虚さを感じさせる顔をしていた…それとも底無しの欲を持った人間というのは、ああした顔をするものなのだろうか?数正自身は家康に秀吉との会見の模様を報告した際、「何もかも芝居の様であり、いや、何もかも赤子の様に心の儘にも思える…得体が知れん」と言っていたが、秀吉は赤子の様に貪欲で、尚且つ赤子の様に無欲なのかもしれない。思うに、秀吉というのは水を湛えた器の様なもので、各人がそこに己の欲望を投影するのだ。そして秀吉は他者を押し退ける事で、他者の欲望の対象を横取りする事はあっても、他者の欲望を抑圧する事は無い。信長の抑圧的な専制に疲れ切っていた人々は、秀吉のこうした享楽性をこそ支持したのであり、それはこの時代の人々の気風に合ったものでもあった。数正はこの事を直感的に感じ取っていたからこそ、重臣達の評議においても、「猿を退治しましょう」ではなく、「猿を…檻に入れましょう」と言ったのだ。というのは、秀吉は己一人の矮小な欲望に従って勝手気儘に振る舞っているのではなく、帝から乞食に至る万民の欲望―言わば、天下の欲望―を吸い込む事で天下人となっているからである。何人も天下の欲望を退治する事は出来ない。

 そしてだからこそ、この時、徳川家は天下を取る事が出来なかったのだ。家康や徳川家の禁欲性は、この時代の人々には抑圧と見做されたのである。堅苦しいしみったれた連中だと思われたのである。とは言え、世相は変化するものだ。この後、秀吉の死に至る十四年の間、豊臣家の天下が続くが、恐らくその末期には、世の人々は豊臣政権の享楽性に倦怠を感じる様に成っていたのだ。それゆえ秀吉の死の二年後、石田三成と徳川家康が雌雄を決しようとした時、多くの人々は後者を支持したのである。秀吉の放埓な専制を経る事で、漸く禁欲的な徳川家が世に入れられるようになったのだ。

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