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どうする家康 第36回「於愛日記」

 「お慕いする人が逝ってしまった」後、二人の子供を養う為、浜松城での勤めに出る事となった於愛に対して、上役のお葉は彼女の両頬を持ち上げ、「嘘でも笑って居なされ。皆に好かれぬと辛いぞ」と助言する。その助言に従い、努めて明るい笑顔を作るようになった於愛は奥女中の「皆に好かれ」るようになり、遂には徳川家正室の瀬名に「良い、笑顔じゃ…あいや、殿の事、宜しく頼みます」と側室としての勤めを託され、瀬名が死んだ後は事実上の正室としての役目を果たすようになる(この回で、正信と忠世が彦右衛門と千代の処遇について於愛の指図を仰いだのは、その為である)。しかし於愛には「私の笑顔は、偽りで御座います」という引け目があって、その事が常に心に引っ掛かっている―ここだけを見ると、於愛の屈託は偽りの外面と真実の内面との葛藤から来ているかの様に見える。

 しかし於愛が古い日記を見ながら、「殿の事は、心から敬い申し上げているけれど…お慕いする御方では、ない」と独白している所から見て、これは同時に公の勤めと私的感情との葛藤でもある、という事が分かる。そして実の所、この第36回で描かれているものの多くは、16世紀末の日本列島における武家社会の女性達の公的勤務なのだ。勿論、彼女達に偽りの外面と真実の内面という葛藤がない訳ではない。一例を挙げれば、この回冒頭に登場したお葉は家康の最初の側室であり、彼女は家康との間におふうという娘を生しているが、にも拘らず(第10回を見れば分かる様に)彼女にとっても家康は「お慕いする御方では」なかった。だがこの回の主人公と言っても良い於愛を例外として、今回登場する女性達は皆、その内面を必ずしも明らかにしてはおらず、彼女達の多くは公の勤めにその身を捧げている。例えば、北条氏直に嫁いだ家康の娘おふうは父の意を体して、「我が父は戦を避けたい一心。どうか、父を信じて下さいませ」と秀吉に臣従するよう北条氏政、氏直父子を懸命に説得していたし、彦右衛門と千代に対する家康と於愛の裁定に感じ入った平八郎の娘稲は、「夫婦を成すもまた女子の戦と思い知りました。真田家、我が戦場として、もーし分なし。殿、慎んでお受けしとう御座います」と言って、父の反対で拗れていた真田への輿入れを進んで受け入れるのだ。稲は上の台詞の後、父に向かって「父上、本多忠勝の娘として、その名に恥じぬよう、立派に勤めを果たして参ります」と高らかに宣言しており、ここから見ても、彼女にとって真田家に輿入れするという事は私的感情の問題ではなく、武家の女として果たすべき公の勤めである、と認識されている事が良く分かる。これは何も稲という豪傑に特有の事例ではなく、この回の前半で於愛が稲に「お稲殿、好き嫌いは脇に置かれませ。北条家に嫁いだおふう殿の事は知っておりましょう?いま正に、戦を避けようと、懸命に北条殿を説得して御出でです。そなたも、同様の役目が求められております。大事な、お役目で御座いますよ」と言い聞かせている事からも分かる様に、「好き嫌い」よりも「お役目」を優先させる事は、当時の武家社会においてはごく当たり前の事であった。当然、これは徳川家だけの話ではなく、「新たな側室にご執心で、奥に入り浸っておる」秀吉を内心苦々しく思いながらも、北政所として豊臣家の奥向きの事を取り仕切っている寧々や、家康の好意によって「我が正室として、京での勤めを支えてくれれば良い」事になった旭にしても、やはり公の勤めに従事しているのだ。こういった徳川家、豊臣家の女性達と比べてやや異色であるのが、嘗て武田信玄、勝頼の下で忍びの統率者をしていた千代である。彼女の場合、この回に登場する他の女性達とは違って、最早仕えるべき主家は滅亡しており、かと言って、(彼女が離れに住んでいた所からも分かる様に)鳥居元忠の妻という公の立場にある訳でもない為、如何にも宙ぶらりんの立場に置かれている。彦右衛門に拠れば、「こいつは儂を、儂を、慕っておると、言ってくれたんじゃ」という事だが、於愛の「彦殿を慕う気持ちは、真のものか?」という問いには「さあ…分かりませぬ。きっと偽りで御座いましょう、ずっとそうして生きてきたので」という不可解な答えを返している。この時の於愛の表情から見て、彼女は千代の中に自分と同じ「偽りの顔」によって生きて来た女を見たのであろうが、ここにはもう少し屈折した心理もあっただろう。「非道な事を散々してきた私の言葉に、信用など有りますまい」「今更、人並みの暮らしが許されるもので御座いましょうや?お情けなら無用に」と言う千代には、忍びとして様々な謀略(例えば、三河一向一揆、大岡弥四郎事件、築山殿事件)に手を染めて来た自分には幸福な生活など許されていない、という或る種の諦念が感じられるが、これは見方に依っては、過去に手掛けた公の勤めを現在の私的感情よりも重いものと見做している訳であり、彼女もまた武家の女として公の勤めに忠実であろうとしている事が分かる。同時に千代には築山殿事件に対する贖罪意識もあったであろうし、「貴方は私に騙されたのさ。もう私の事は忘れなされ」と彦右衛門に言っている所から見て、彼を庇おうという意図もあったのだろう。

 ここまで於愛、お葉、おふう、稲、寧々、旭、千代といった女性達の言動を見てきたが、これによって、この回で描き出されているのは彼女達の偽りの外見と真実の内面―言い換えれば、建前と本音―の間の葛藤と言うよりは、公的勤務と私的感情の間に設定された様々な関係である、という事が明らかになったと思う。この二つの対立項の違いは何処にあるのかと言えば、偽りの外見と真実の内面という対立項においては、前者は後者を隠す方便に過ぎないのに対して、公的勤務と私的感情という対立項においては、両者はそこまで一方的な関係ではなく、相互に影響を与え合っている、という点である。この回を観る上で意識しておくべき事は、16世紀末の日本列島における武家の女にとっては、私的感情(もっとはっきり言うと、恋愛感情)よりも公的勤務(即ち、奥女中や妻としての勤め)の方が遥かに重要な意味を持っており、大抵の場合、後者に対して前者は従属的な意味しか持たない、という事だ。だがこの事は同時代の武家の男にもそのまま当て嵌まるのであり、その証拠に、この回には公私の葛藤に悩む男達も登場している。先ず家康にとっての私的感情とは、矢張り何を措いても瀬名、信康の死に対する哀しみと憤りであり、(回想にも出て来る様に)第26回での彼は、私的感情としては信長に対して強い殺意を抱いていたにも拘らず、公の勤めとしては富士の裾野で信長を懸命にもてなしていたのだ。また第34回で秀吉への臣従を決意した家康は、(「御方様の目指す東国の夢」を象徴する)木彫りの兎を布に包み、それを小さな箱に収めた上で、更にその箱を大きな箱に仕舞っていたが、これは正にこの時、家康が私的感情を心の奥底に封印した事を表している。同じ様に、千代を見付けていたにも拘らず、密かに離れに匿っていた彦右衛門や、千代に対して「真田の忍びである疑いが晴れておりません…真田は、信用なりませぬ」と言い募る事で、娘を嫁に遣るまいとしていた平八郎もまた、私的感情と公的勤務の間で葛藤していたと言える。ただ家康、彦右衛門、平八郎においては、公私の葛藤がそのまま偽りの外面と真実の内面の対立ともなっており、その所為か、最終的には何れにおいても私的論理は公的論理に回収されてしまう(即ち、家康は信長への復讐を諦め、彦右衛門は千代を娶る事を許され、平八郎は娘の輿入れを認めざるを得なくなる)のに対して、於愛、お葉、おふう、稲、寧々、旭においては、彼女達の夫に対する関係性が単純な愛情や憎悪には還元され得ない所から、公私の葛藤はより複雑な様相を呈している。この男女の違いは、この時代の武家社会においては女性に比べて男性の発言権の方が大きい(換言すれば、男性の我儘が罷り通る可能性が高い)為に、彼女達としては公的勤務と私的感情の間の矛盾が深刻なものと成らない様に、両者を何とか調停しなければならなかった、という所から来ているのであろう。

 尤も武家の女性にとって、公的領域と私的領域との関係は、常にどちらかがどちらかを(大抵は前者が後者を)従属させる、という形を取った訳でもない。この回では於愛の行為において、この二つの領域が重なり合っている様に見える事例が三つあった。一つは、於愛による按摩や瞽女への施しである。これは於愛自身「私も目が悪いでな、何となく他人事には思えぬゆえ。また来月も御出でなさいな」と言っていた事から分かる様に、その私的感情から出た行動でもあるのだが、同時に彼女が按摩や瞽女達に米や着物を渡してやる時、息子の長丸、福松だけではなく、女中達や稲にもそれを手伝わせていた所から見て、これは徳川家の事実上の正室である於愛が公の勤めとして取り組んでいる事業でもあるのだろう。つまり彼女にとって盲人達への施しは、私的行為であると同時に公的行為でもあった訳だ。二つ目は、彦右衛門と千代に対する家康の裁定に際して、彼女が果たした役割である。家康は千代に向かって「そなたは、嘗て我らが夢見た世を、穴山梅雪らと共に目指した一人と、心得ておる。只々、その身を案じておった。我らが夢見た世は、忍びなど要らぬ世であった…忍びの過去を捨て、鳥居元忠の妻と成るがよい」と言うが、これは望月千代を武田の忍びとして糾弾するのではなく、「御方様の目指す東国の夢」を共に実現しようとした同志として認め、尚且つ彼女を「鳥居元忠の妻」として徳川家に迎え入れる、という裁定であった。この予想外の裁定に動揺した千代が「…今更、人並みの暮らしが許されるもので御座いましょうや?お情けなら無用に」と言った時、家康はこれに「情けではない…幸せになる事は、生き残った者の務めであると、儂は思うぞ…彦を支えよ。これは、我が命じゃ」と答えるが、「情けではない」と述べ、尚且つ最後に「これは、我が命じゃ」と念を押している所から見て、この裁定は家康が徳川家当主として発した公の言葉である。同時にこれは「於愛の助言に従った」ものでもあり、その助言とは「人の生きる道とは、辛く苦しい茨の道。そんな中で、慕い慕われる者有る事が、どれほど幸せな事か。それを得たのなら、大事にするべきと思うまで」という私的な性格の強い言葉であった。この私的論理は、於愛自身は全うする事の出来なかった「お慕いする人」との生活を言祝ぐものであり、家康の公的論理と一つになる事で、今川義元が目指した「王道」や瀬名と信康が目指した「慈愛の心で結び付いた国」にも通じるものと成っている。三つ目は、この裁定の後、家康と於愛の語らいの中で明らかとなった二人の関係性である。そこで家康は「思い返せば、これ迄も儂は、そなたに救われてきた。そなたが何時も笑顔で、大らかで居てくれたから。そうでなければ、儂の心は、何処かで折れていたろう」と語るのだが、この回をここまで観て来た人は、於愛の「笑顔」や「大らか」さが生まれついての無邪気な素質などではなく、彼女が「お役目」に取り組む中で、努力して身に付けたものである事を知っている筈だ。つまり家康は於愛の事を誤解している。とは言え、これは封建時代の男の手前勝手な思い込みという訳でもない。なぜなら上述の盲人達への施しにしても、家康が彦右衛門、千代への裁定を下す際、於愛がした助言にしても、決して周りの環境に強いられてした行為ではなく、於愛自身が自分の意志で行った事であり、於愛の「笑顔」や「大らか」さにしても、最早内心を隠す仮面とは言えないものと成っているからである。それゆえ於愛は先程の家康の言葉に対して、「殿にお仕えしていて…救われたのは、私の方なので御座います」と言い、怪訝な顔をする家康に向かって、嘗てお葉がした様に自分の両頬を持ち上げてみせてから、微笑みつつ「こうする事を、何時の間にか忘れさせて下さいました」と言うのだ。この瞬間、於愛の中で公的勤務と私的感情とは一つとなっており、自分の笑顔が偽りのものであるかどうか、という事は最早如何でも良いものと成っている。それゆえ彼女はこれに続けて「御方様と信康様の事、お話し下さいませんか?今まで訊きたくても訊けずに居りました。でも、ずっと願っておりました、何時か殿が、お二人の事を、笑顔で語られる日が来る事を…お二人の、たわい無い思い出が聞きとう御座います」と述べるのである。「殿の事は、心から敬い申し上げているけれど…お慕いする御方では、ない」と言っていた於愛が、敢えて家康の私的感情について尋ねたのは、家康が彼女の「お慕いする人」に変貌したからではなく、飽くまで「敬い申し上げ」る主君でありつつ、(丁度、平八郎や小平太の様に)その主君に対して「友垣」に対する様な感情を抱いたからである。ここでは公的領域における敬意がそのまま私的領域における愛情に近いものと成っている。於愛のこの言葉を受けて、家康は瀬名と信康についての愉快な思い出を語ろうとするのだが、「鯉」の話をしようとした所で吹き出してしまい、結局(少なくとも観ている人には)何の話をしようとしていたのかは分からない儘だ―しかしこの時、家康と於愛の居た部屋が、嘗て家康と瀬名が幸福な時間を過ごした築山のあの部屋に良く似ている事を思うなら、於愛は何時の間にか家康の心の奥深くに入り込んでいた(逆に言うなら、家康は於愛に自分の心の奥深くに入る事を許した)、と見て良いのだろう。彼らは西郷義勝と於愛、徳川家康と瀬名の様な「慕い慕われる」夫婦ではないにしても、互いに尊敬し合う幸福な関係にあったのだ。

 ところがこの回には二人、こうした公の勤めから逸脱しつつある様に見える男女が居る―それが豊臣秀吉とその側室茶々である。秀長は最近(1588年頃)の兄について、「兄は益々、己の思いの儘に生きるようになりました。もう訛りは使いませぬ」と評していたが、これは何を意味しているのだろうか?秀長は前回、秀吉の人との付き合い方について「人を知るには下から見上げるべし…兄が昔から良う言っておりました。人は自分より下だと思う相手と対する時、本性が現れる。だからみっともねえ訛りを使い、卑しき振る舞いをして、常に一番下から、相手の本性を良う見極めるのだと」と述べていたが、秀吉の訛りには別の狙いもあっただろう。つまり「みっともねえ訛り」(即ち、その地位に有るまじき馴れ馴れしい話し方)を使う事で公的領域と私的領域の境界に揺さぶりを掛け、その隙に乗じて(第33回で数正が言っていた様に)「人の懐に飛び込んで人心を操る」という政治手法である。秀吉がこうした遣り方を止めたのは、最早日本国内の誰も秀吉には逆らえないという状況になった為、殊更に「相手の本性を良う見極め」たり、「人の懐に飛び込ん」だりする必要が無くなった、という事であろう。これは言い換えれば、秀吉が政治(更に言うなら、他者)に対する緊張感を失い、これまで彼が公的領域と私的領域との間に保ってきた絶妙な平衡感覚を失いつつある、という事でもある。他方、第30回で「徳川殿は嘘つきという事で御座います…茶々はあの方を恨みます」と言っていた茶々は、今や秀吉寵愛の側室と成った訳だが、火縄銃の銃口を家康に向けた時の目付きを見るに、今でも彼の事を恨んでいるのであろう。茶々は内心では、父と母を死に追いやった秀吉の事も恨んでいる筈で、こうした女性が寧々や旭の様に豊臣政権存続の為、公の勤めに励むとは思えない。恐らく秀吉と茶々はこの先、公の勤めを等閑にし、天下を私物化しようとする事だろう。それは彼らにとって、天下に対する復讐という意味を持っているのだろうか?

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