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どうする家康 第40回「天下人家康」

 第40回で描かれているのは、豊臣政権の様々な矛盾が顕在化していく過程である。秀吉が死んだ後、五大老五奉行の合議制によって運営されていく事となった豊臣政権には、初めから三つの矛盾が内在していた。先ず、前回の「太閤、くたばる」を観れば分かる通り、秀吉には二つの遺言があった。その内の一つは、「…天下人は、無用と存じまする…豊臣家への忠義と、知恵有る者達が話し合いを以て、政を進めるのが、最も良き事かと」と提言する三成に対して「…儂も同じ考えよ。望みは偏に、世の安寧、民の幸せよ。治部、良い、遣ってみい」と答えた秀吉の言葉であり、これは後に文書化される。もう一つはその数ヶ月後、寝所へ呼び出した家康へ向かって、恥も外聞も無く「世の安寧、など、知った事かー。天下なんぞ、どうでもええー。秀頼が幸せ、なら、無事に暮らしていけるなら、それでえー」と本音をぶちまけた秀吉が、「済まんの…上手く遣りなされや」と家康に天下を委ねる意思を表明した言葉であり、これは(寧々も承知していた様に見えたが)家康しか耳にしていない口頭による遺言だ。秀吉死後、五大老五奉行が合議制によって政務を執る事となり、家康も当初はそれに協力していたが、この体制が行き詰まり始めた時、秀吉によって徳川政権樹立を容認されていた家康とその事を知らない四大老五奉行とでは、それぞれ違った動きを見せるようになっていく。次に、豊臣政権の下には、秀吉によって取り立てられた豊臣恩顧の大名と後から秀吉に服従した外様大名が含まれているが、当然の事ながら、後者は元来豊臣家に対して然したる忠誠心を持っていない。最初の遺言を文書化した時の秀吉が外様大名から五人の有力者を選び、五大老として十人衆に加えたのは、彼らを豊臣政権へ組み込んでおきたいと考えたからだろう。しかし十人衆による合議制が機能しなくなった時、各地の外様大名は戦国時代の頃の様に、自分勝手な振る舞いを見せるようになっていく。最後に、豊臣恩顧の大名の中には、制度化された統治機構の運営に携わっている者達と未だ十分には制度化されていない暴力装置を担っている者達がおり、一般的には前者を文治派、後者を武断派と呼ぶ訳だが、秀吉の無謀な朝鮮出兵は彼らの間に亀裂を齎してしまった。秀吉という重しが無くなった後、両者の対立は先鋭化していく事となる。

 この三つの矛盾は順に姿を現すが、先ず文治派と武断派の間に角逐が起こり、更にそれに伴って各地の外様大名が不穏な動きを見せ、遂にはこうした問題に対処出来ない四大老や五奉行を前にして、「格別な力を持つ」家康が直接事態の収拾に乗り出す事で、豊臣政権が事実上の徳川政権へと変質していく、という形で展開していく。同時にこうした状況の変化は、三成と家康両者の中にあった三つの矛盾をも明るみに出していく。その第一は、原則に関するものである。三成は何かと言うと「殿下のご遺言」「太閤殿下のお決め」「殿下のご遺命」を盾に取って物事を進めようとするが、秀吉の遺言(これは当然、三成が知っている文書化された遺言の方だ)と言っても、こういう体制でこういう風に政を行えという大枠に過ぎず、その時々に出来する問題に対しては、政務に当たっている者達がその都度個別に判断していくしかない。だが三成は固定化された原則に拘泥する余り、次第に流動的現実に対応出来なくなっていく。更に「奴らが私の考えを、理解した事は御座いませぬ」という三成の頑なな態度もまた、彼と加藤清正、黒田長政らとの対立を一層激化させていく。こうした状況を見た家康は、融通無碍な懐柔策を用いる(具体的には、諸大名と友好関係を築いたり、縁組を結んだりする)事で、武断派や有力外様大名といった「危なっかしい者共の首根っこを抑える」事に成功するが、これは他の四大老五奉行から見るなら派閥工作に他ならず、油断ならない策略にしか見えなかっただろう。第二に、三成は「道理」に基づく制度的支配を貫徹させようとするのだが、如何せんそれを徹底させる為の強制力が欠けている。これに対して、家康は豊臣家に次ぐ250万石もの大大名なのだから、いざとなれば自分の力をちらつかせる事で、諸大名を自分の思い通りに動かす事が出来る。しかしこうした手法は、四大老五奉行にとっては恫喝以外の何物でもなく、まるで戦国時代宛らの弱肉強食の論理を振り翳しているかの様に見えた筈だ。なお寧々は「治部が上手く出来なければ、その時は、力有る者に遣って貰う他ないと、私は思うておる」と言い、前田利家も「家康殿、貴公は、腹を括るしかないかもしれん」と述べる事で、共に家康が「天下人」と成る事を容認していたが、豊臣政権を支えてきた彼らにとっては、力の無い「道理」など有り得ない話だったのだろう。第三に、「殿下のご遺言、確と実行する事が、我らの使命。即ち、秀頼様ご成長遊ばされるまで、我ら五人の奉行が、政を行い、皆様五人に、それを支えて頂く。我ら十人衆が一つに成って、物事を進める事こそ、何より肝要で御座る」という三成の言葉からも分かる通り、彼が推進する合議制は秀吉の遺言とその遺児秀頼によって正統性を付与されているが、見方を変えれば、この正統性の拠り所と成っているのは高々秀吉の大まかな遺言と幼い秀頼でしかないのだから、これは極めて脆弱な体制である。他方で、家康には実効支配を可能とするだけの力があるが、秀吉が家康に天下を委ねた事は彼以外の誰も知らないのだから、彼の支配には不確かな正統性しかない。上記三つの矛盾は、煎じ詰めると、法による支配と権謀術数との対立という事になるが、本来統治者はこの二つをどちらも使い熟せなければならない。しかし秀吉は二つの遺言によって分裂した意思表示をしてしまった為に、前者は三成が、後者は家康が担う事となり、本来「同じ星を見ている」筈であった両者は対立する破目に陥ってしまう。この対立の中で、三成においては原則への拘泥、強制力の欠如、支配の脆弱さという矛盾が露わとなり、同時に家康においても狡猾な策略、恫喝による強制、不確かな正統性という矛盾が露呈する事で、五大老五奉行による合議制は機能不全に陥り、三成は失脚して統治機構から弾き出され、家康は亡き秀吉が持っていた全ての力を手中にする事となる。因みに、三成失脚については、小和田哲男氏が「事前に家康が、婚姻政策だとか、或いは自分の屋敷に七将達を招待して、色々と準備というか裏工作をしていた、それが上手く功を奏した」(https://www.youtube.com/watch?v=daInLZe9OqQ&list=PLsGOYTCGI-q52mZlVA7NtL8xwTI2-h48z&index=62)と述べている通り、一般的には、家康自身が武断派の武将達を嗾けて三成を失脚させた、と考えられている様だが、このドラマの家康は、寧ろ自分と三成とが協力する事で望ましい体制を作る事が出来る、と考えていた節がある。しかし「一時の間、豊臣家から政務を預かりたい。共に遣らんか?」という家康の提案は、三成からすれば無血クーデターへの誘いに他ならず、彼が「狸…皆が言う事が、正しかった様で御座る…天下簒奪の野心有り、と見て良う御座いますな」と反発したのは無理からぬ事だ。三成が法による支配という己の立場を堅持する限り、「天下泰平の為、止むを得ぬ判断」という家康の論理を受け入れる事は絶対に出来ないのだ。

 ところで、彼らの対立は、理想主義と現実主義の対立として捉え直す事も出来るだろう。家康の権謀術数に直面して、「お決めを破ったのは、徳川殿。道理が通りませぬ」と頭を振る三成からは、如何にも青年らしい潔癖さが感じられるが、それに対して、この回から老人らしいメークに変わった家康は、如何にも「狸親父」然とした風貌である。またこの回では、三成がすっくと立ちあがり、つかつかと立ち去って行くという場面が三回あるが(具体的には、呼び止める前田利家を振り切って立ち去る場面、「一時の間、豊臣家から政務を預かりたい」という家康の提案を撥ね付ける場面、そして伏見城治部少丸から退去する場面)、これはゆらりと歩を進める家康とは対照的な身振りであり、それぞれ前者の果断さ(或いは、短兵急な所)、後者の柳に風(或いは、腹に一物ある)といった風情を良く表している。とは言え、理想主義と現実主義という対立項は、普通考えられているほど単純なものではない。理想主義が理想主義に止まるのは、その「理想」が私一己の観念に止まっているからであり、その「理想」を現実化したいと願うのであれば、人はそれを現実社会の様々な関係性の中に置く必要がある。ところがそうした瞬間、丁度三成の考える「理想」がそうであった様に、その「理想」は様々な矛盾を露わにし、当初考えていたものとは似ても似つかぬものへと変質していく。しかもそれは予期に反して、極めて醜悪な側面を見せる事もあるのだ。だがそうしない限り、「理想」は生命の無い影の様なものに過ぎない。他方で、現実主義という言葉は、周囲の状況へ臨機応変に対応していく態度を意味しており、人間は実社会の中に居る以上、そうやって生きていかざるを得ない。だが何の「理想」(或いは、原則、展望)も持たず、ただその時々で周りの状況へ対応していくという生き方には矢張り限界があって、そうした「現実主義者」はいずれその「現実」にも対応出来なくなっていく筈だ。この回においては、秀吉死後の豊臣政権を運営するに当たって、三成は理想主義者として、家康は現実主義者として振る舞い、深まる政治危機の中、自身の意に反して後者が前者を政権から追いやっていく過程が描かれているが、それでは家康は単なる「現実主義者」なのかと言うと、それもまた違う。政治家家康について毛利輝元は三成に「治部、そなたは極めて頭が切れる、が、人心を読む事には長けておらぬと見受ける。人の心には、裏と表が在るものぞ」と意味深長な顔で注意し、茶々もまた三成に対して「私はそなたよりも、あのお方の事を、よーく知っている積りだがのう…あのお方は、平気で嘘をつくぞ」と警告していたが、この裏と表、或いは嘘と真という二項対立は、現実主義と理想主義という二項対立とぴったり一致する。〈裏/嘘/現実主義〉と〈表/真/理想主義〉という二項は互いを排斥し合うものではなく、両者を一つに合わせる事で、言葉の真の意味での「現実」が姿を現すのだ。そしてこの「現実」は秀吉や家康が問題としていた「天下」に等しい。それを良く表しているのが、この回の最後近くにおいて、家康が自室で薬を作りながら、己の来し方を振り返る場面である。そこには家康がこれ迄に出会った様々な人々が現れ、彼に様々な遺志を託していく。先ず桶狭間の戦い直前、今川義元は(当時は元康と名乗っていた)家康に向かって「戦乱の世は、もう終わらせなければならん」という己の抱負を語る。これは家康にとって終生追い求めるべき目標と成る。次に深夜の安土城において家康と対峙した織田信長は、「俺は覚悟は出来てる。お前はどうじゃ」という言葉を家康に投げ掛ける。これは「王道」や「御方様の目指す東国の夢」といった遠大な理想を掲げるだけではなく、「それを成し遂げる為にお前は自分の手を汚す覚悟が出来ているのか?」という厳しい問い掛けである。次いで武田信玄が源三郎に託した「弱き主君は害悪なり、滅ぶが民の為なり」という言伝が来る。これは民の為を思うなら君主は力を持たねばならぬ、という戒めである。その後、無一物から成り上がり全てを手中にしながら、最後は精も根も尽き果てて、弱々しく「天下はどうせ、おめーに取られるんだろー」と言うしかなかった豊臣秀吉が回想される―これは秀吉から委ねられた天下に対する家康の責任を表しているだけではなく、天下を私しようとする者はこうした末路を辿る、という戒めともなっている。そうしてこれまで家康と共に戦ってきた徳川家臣団が回想され、最後に「天下を、取りなされ!」という酒井左衛門尉の激励が思い出される。こうした人々の言葉を反芻した後、家康は薬の入った茶碗を右手で掴むと、薬湯を一口啜り、更にもう一口飲むと、茶碗を下に置き、朝日に照らし出されながら、その目をゆっくり上げていって、遂には燃え上がる様な暁の空を見据えるのだ。実はこの薬湯を啜る身振りは、第26回の最後にも見られたもので、その時には、家康は目の前に揃った重臣達に向かって「信長を殺す…儂は…天下を取る」と言うのだが、彼が「天下を取る」という言葉を口にしたのはこれが初めてであった。また第40回最後の場面では、豊臣政権の主導権を握った家康が、己に平伏す諸国の大名達を前にして、穏やかな顔で真っ直ぐ前を見据えているカットが有るが、これも第26回最後のカットと良く似ている。しかし第26回と第40回には、どちらも家康が薬湯を啜るカットと真っ直ぐ前を見据えるカットがあるとはいえ、決定的な違いがある―それは後者に見られた来し方を振り返る場面が前者には無い事である。この違いは何を意味しているのかと言うと、第26回から第28回の頃の家康を動かしていたのは、「御方様の目指す東国の夢」という観念に過ぎなかったのに対して、その17年後に家康を「天下人」の座へ導いたのは、最早単なる観念でも、周りの状況への狡猾な対応でもなく、義元、信長、信玄、秀吉、左衛門尉といった人々から引き継いだ大業であったという事だ。そしてこれこそが裏と表を一つに合わせた「現実」である。「天下は一人の天下にあらず乃ち天下の天下なり」という言葉もある通り、「天下」は一人の人間の所有物ではなく、全ての人がそこに生きる場なのだから、それを預かる「天下人」と成った家康は、「理想」を現実に押し付ける「理想主義者」であっても、「現実」に鼻面を引き回される「現実主義者」であってもならず、理想を現実の中に見出し、現実を理想へと高める「王」と成らねばならない。群臣を見据える家康からは、そうした「天下人」としての覚悟を窺う事が出来る。

 この回最後の場面において、葵の紋の屏風を背にした家康は、穏やかな顔で諸大名を見回しながら、「治部少輔の儀、真に残念な事であった。だが、これより我ら一丸と成り、豊臣家と、秀頼様の御為、力の限り励まねばならん。天下の太平乱す者あらば、この徳川家康が、放っておかぬ。宜しいな」と口にするが、正にこの瞬間、江戸幕府はその胎動を始めた、と考える事も可能だ。しかし未だ「豊臣家と、秀頼様の御為」という豊臣政権の正統性に依拠せざるを得ない所に、家康率いる豊臣政権が徳川政権へと脱皮する事を妨げる最後の矛盾が現れている。この矛盾は家康に反感を持つ諸勢力を結集させる事となり、ここに天下分け目の戦いが始まる。

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