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どうする家康 第33回「裏切り者」

 第33回の題は「裏切り者」であるが、この回の登場人物の内、徳川家から見て「裏切り者」となるのは、織田信雄、真田昌幸、石川数正の三人である。だが徳川家が秀吉と戦う際、名目上の総大将として担ぎ出されたという面もある信雄や、元々徳川家の家臣ではないのにも拘らず、沼田領を北条家に引き渡すよう迫られた昌幸からすれば、「裏切り者」呼ばわりは不本意であろう。この両者が秀吉によって調略された事は、秀吉と対立する徳川家にとっては痛手であり、忌々しい事ではあっても、彼らは飽くまで一時的な利害の一致によって手を組んでいた勢力に過ぎない。これに対して、石川数正は家康が今川家にいた頃から仕えていた重臣であり、酒井左衛門尉と共に徳川家を支える大黒柱であったのだから、彼の出奔は家康にとって、信雄、昌幸の裏切りとは比較にならない程の大打撃であった。しかし数正は本当に「裏切り者」なのだろうか?ここではこの問題について、先ずは数正が上田合戦の後の評議、左衛門尉との対話、家康との対話において何を語ったか、という事に焦点を絞って考えてみよう。

 上田城で屈辱的な敗北を喫した後、徳川家の重臣達は岡崎城に集って評議を開くが、そこで問題となったのは、今後秀吉との戦いをどの様に進めていくのか、という事であった。1584年の11月には織田信雄が秀吉と和睦し、1585年の4月迄には紀州征伐が終了、7月には長宗我部元親が降伏、8月には越中の佐々成政も降参する事で、正信が提唱していた「畿内の秀吉を日の本全土でぐるりと取り囲む」策は完全に破綻し、今や徳川家の方が秀吉方の勢力に北と西から圧迫され、極めて危機的な状況に置かれていた。これに対して、徳川家中の大勢は主戦派であり、例えば平八郎は「三河岡崎の地を捨てるなど有り得ん。岡崎決戦じゃ。この岡崎に残り、民百姓が何年も戦い続ける、それのみ!」と意気盛んである。しかし平八郎の様な豪傑はいざ知らず、日々の暮らしに追われる「民百姓が」彼らに付き合って「何年も戦い続け」てくれるだろうか?また小平太は「籠城ならば二年、いや三年は耐えられる」と主張するが、これと同じ事はこの五年後、豊臣政権と対決する破目となった北条家も考えていた筈だが、彼らは開戦後、四ヶ月で降伏へと追い込まれている。更に直政は、豊臣政権が行き詰まるまで「耐え忍び、じわじわと調略を進める。さすれば十分に勝機はある」と言うのだが、秀吉の様に豊かな富を持たない徳川家がどうやって秀吉方の諸勢力を調略するというのか?この様に主戦派の主張は余りに楽観的であり、彼らは1585年秋の時点での日本列島における客観的情勢が理解出来ていない。彼らとは全く対照的な認識を示したのが石川数正であり、彼の目には「秀吉は関白なんじゃ、信雄様も既に臣下に入られた、名実共に織田家を超えたんじゃ…大坂の町はこの世の全ての富を集めて作ったが如く、彼の城は安土を超え、我らの城が幾つあっても足りゃぬ巨大さと美しさ…最早、秀吉の天下は崩れぬ」という状況が見えていた。数正に言わせれば、長久手での快勝でさえ「勝ってはおらん!あんな勝利は些細な事…今の我らと、秀吉の有り様を見れば、何方が勝ったのか誰の目にも明らかじゃ」という事になる。自身「敵を切り崩し、岡崎決戦に備える」と主戦論に立っていた家康は、「数正…儂は…秀吉に及ばぬか?…秀吉に劣ると申すか?」と問い詰めるが、数正は「…みっともない訛りをわざと使い、無様な猿を演じ、人の懐に飛び込んで人心を操る。欲しい物を手に入れる為には、手立てを選ばぬ、関白迄も手に入れた。あれは、化け物じゃ…殿は、化け物には敵いませぬ。秀吉の臣下に入るべきと存じます」と秀吉との講和を訴える。当然ながら、ここでの秀吉評は、数正自身が大坂で関白秀吉と対面した時の経験から来ているのであろう。あの時、秀吉は真田との連携をちらつかせつつ、「家康は直ちに来て余に跪くべし、そして、人質をもう一人差し出すべし…長丸か福松じゃ。さもなくば、三河も、遠江も…焼け野原と考えよ」と威嚇しておきながら、その直後、寧々の口から「旦那様、その様な物言いはお止しなさいまし。勘違いなさってはいけませぬよ。一百姓の出である事をお忘れあるな」と窘めさせ、彼女から「詰まらぬ物でごぜえますが、奥方へ」と数正の妻への贈り物をさせた上で、尚且つ「えー女子でしょー、儂はこの世の幸せは、女子だと思うとる…女子が、きれーなべべ着て、白粉塗って、あめーもん食って、笑っとる…それが、幸せな世だわ」と飽くまで下世話な「幸せ」について語っていた―これは教養ある者ならば、内心眉を顰めるであろう見え見えのあざとい遣り口である。だがこの遣り口はだからこそ効果的なのだ。ここで秀吉の威嚇に肝を潰し、その人懐こい笑顔に胸を撫で下ろし、寧々の真心(実際、それは真心なのであろう)に触れ、秀長の「お互い、そろそろ重てえ具足を脱ぐ時では御座らんかな」という言葉に安堵した者は、たとえ内心はまだ「こーんの卑しき猿が天下人とは笑わせるなー」と思っていたとしても、最早関白殿下の虜なのだ。数正自身は羽柴家総出の猿芝居に感銘を受ける事は無くとも、その巧みな人心掌握術には舌を巻いた筈だ。それゆえ彼は己の主君に敢えて「殿は、化け物には敵いませぬ。秀吉の臣下に入るべきと存じます」と説いたのである。この時、家康だけではなく、他の重臣達も愕然としていたのは、数正の意見が徳川家中においてそれだけの重みを持っていた、という事だ。まただからこそ、平八郎、小平太、直政は数正の言葉にあれ程の反発を示したのである。他方で、左衛門尉と正信は数正の言葉に感情的反発を見せてはおらず、そもそも家康が「敵を切り崩し、岡崎決戦に備える。一同、異存ないか?」と尋ねた時にも、彼らは「異存なし!」とは答えていなかった。そこから考えるに、「秀吉の臣下に入るべきと存じます」という意見は、この二人にとって少なくとも選択肢の一つではあったのだろう。とは言え、これは家康には到底受け入れられない考えであり、言い争いの末、家康から岡崎城代の任を解かれた数正は、黙って主君の前から退出する。

 これに続くのが、自邸に戻り、庭を向いてぼんやりしていた数正を左衛門尉が訪問し、上述の問題について二人で論じ合う場面である。先程の場面では蝉の声が聞こえ、こちらの場面では祭囃子が聞こえて来る所から見て、この二つの場面は連続している様に見えて、実はその間に数週間が経過している可能性もあるのだが、それはさて措き、ここで問題と成っていたのは、これからの世の中はどうなっていくのか、そこで我々はどの様に生きていくべきなのか、という事だ。大勢を見て取った数正は家康に「秀吉の臣下に入る」よう促したが、左衛門尉は「だが、秀吉に跪けば、これまで苦労して手に入れた全てを失う」と反論する。これに対する数正の答えは思いも寄らないものであった―「国…国なんてものはなくなるかもしれんぞ」「世は変わろうとしておる。大坂に行けば良く分かる。秀吉が、天下を一統するという事は、日の本全てが秀吉のものに成るという事だ。三河であろうと、遠江であろうと、我らの国であって我らの国でない…そういう世になる」。つまり数正の見立てでは、日本国は秀吉の下で鎌倉幕府以来の封建的分権体制から抜け出し、中央集権体制へ向かうというのである。そしてそこでは戦国大名にとっての「国」―即ち、各地の戦国大名が自律的に支配する領国―は否定され、中華帝国や律令時代の古代日本、或いは版籍奉還以降の近代日本の様に、全ての地、全ての民がたった一人の君主のものと成るのだ。「そんな事、あってはならん」と言う左衛門尉に対して、「乱世が終わるというのはそういう事だ」と返す数正からは、この新しい国家を見てみたい、という強い欲求が感じられる。こうして見ると、数正は「人たらし」としての秀吉からは然程大きな感銘を受けなかった様だが、絶対君主としての秀吉には惹かれるものがあったのかもしれない。だとすれば、数正は秀吉に買収された、とは言えないにしても、秀吉に調略された、という側面もあるにはあった訳だ。それは兎も角、数正に向かって「国を守らぬ大名は、生きてはいけぬ」と主張する左衛門尉の国家観は、この時代の人間としては常識的―言い換えれば、保守的―であると言って良いだろう。この言葉に対して左衛門尉を真っすぐ見据え、「それだけが理由かのう?」と問い掛けた数正は、寧ろ我々はこの新しい統一国家を言祝ぎ、そこに新しい生活を打ち立てるべきではないのか、と言いたかったのかもしれない。因みに、先の評議では、正信も数正の講和論を否定してはいなかったが、仮にこの「三河であろうと、遠江であろうと、我らの国であって我らの国でない…そういう世」(これは我々近代人にはお馴染みの世界だ)について意見を問われたら、彼は何と答えただろうか?正信は自ら進んで門徒衆や伊賀者の「軍師」となって、大勢力と戦ってきた男なので、ひょとすると左衛門尉とは全く別の立場から、「そんな事、あってはならん」と答えたかもしれない。何れにしても、数正の洞察力に驚いた左衛門尉は彼に「数正、お主には、見えているものがあるんじゃろう。殿と話せ」と言って、家康と虚心坦懐に話す事を勧める。

 左衛門尉の勧めに応じて岡崎城に参上した数正は、そこで夕映えの中、家康との対話に臨む。ここ迄見てきた様に、数正は1585年秋の時点での客観的情勢を見据えた上で、家康は「秀吉の臣下に入るべき」であると考えており、しかもそれだけではなく「三河であろうと、遠江であろうと、我らの国であって我らの国でない…そういう世」に順応して生きていくべきである、と考えている節があった。家康は数正の考えを「そなたの言い分は、分かっておる積りじゃ」と一旦受け止めた上で、「だが儂は…こうする他ないんじゃ…勝つ手立てが、必ずやある。そなたが居れば…そなたが居なければ…出来ぬ…数正…」と飽くまで秀吉との戦いに協力するよう数正に要請する(或いは「懇願する」と言った方が良いかもしれない)。この言葉に数正は幾らか心を動かされたかもしれないが、彼は決して情に流される事無く、冷徹な目で物事を判断する事の出来る人だったので(案外こういう所が、左衛門尉、小平太、正信といった重臣達と数正との違いなのかもしれない)、己の考えを変える事は無かっただろう。寧ろ「そなたが居なければ…出来ぬ」という家康の言葉を聞いた時、彼は初めて出奔する事を思い立ったのかもしれない。ここで注目すべきは、数正が家康の呼び掛けには直接答えず、「大高城の兵糧入れがついこの間の事の様で御座る。数え切れぬ程の戦をして参りました。実に多くの仲間を失いました。今も、夢に良う出ます、あの顔や、あの顔や、あの顔が…あの、弱く優しかった殿が、斯程に強く、勇ましく成られるとは、さぞや…さぞや御苦しい事で御座いましょう」と死者達の話をしている所である。しかも先程の「そなたが居れば…」という家康の台詞の直前には鐘の音が聞こえ(恐らく岡崎城下の寺から響いて来るのであろう)、この音はこの後、数正と家康の対話を通して何度も何度も聞こえて来るのだ。恐らくこの鐘の音は、数正と家康が共有する死者達の記憶を暗示している。この死者達というのは生者を励まし力付ける事もあるが、同時に生者に負い目を感じさせる存在でもある。それゆえ数正は「さぞや御苦しい事で御座いましょう」と家康の苦衷を思い遣ったのだ。これに対して「…苦しい事などあるものか…儂は…戦無き世を作る、この世を浄土にする、そう心に決めてきた!…苦しくなどない」と反論した家康と、「そう、お誓いなさったのですね、亡きお人に」とこの言葉に応じた数正は、(ここに佐鳴湖畔で別れる家康と瀬名のカットが挿入される事を見ても分かる様に)共に瀬名の事を念頭に置いている。しかしこれでは家康(とそれに従う徳川家)は死者達の軛に縛り付けられ、雁字搦めにされている様なもので、乱世の後に来る新しい世において生きていく事は出来ない―数正はそう考えたのではなかったか?それゆえ彼は「王道を以て覇道を制す!…儂には出来ぬと申すか!数正!」と問い詰める家康に対し、三年前、家康が信長暗殺計画を断念した時の様に「今はまだ、まだその時ではないということ許り」と言って慰める訳でもなく、或いは、王道の体現者であったにも拘らず、殷の紂王の下に服していた周の文王の故事を引いて、臥薪嘗胆を勧める訳でもなく、敢えて反語的に追従する事で、徹底抗戦を断念させようとしたのである(逆に言うと、数正は「王道」なるものを信じていなかったのかもしれない)。数正の「秀吉に平伏すなどと申したら、この国を守る為に死んでいった多くの者達が化けて出ましょう。危うく忘れる所で御座った、殿を天下人にする事こそ!我が夢であると…覚悟を決め申した!もう一度、この老体に鞭打って大暴れ致しましょう!…私は…何処迄も…殿と一緒で御座る…羽柴秀吉何するものぞ!我らの国を守り抜き、我らの殿を天下人に致しまする!」という言葉は全て逆の意味を持っており、数正は正に「私は…何処迄も…殿と一緒で御座る」と言った時、出奔する決意を固めたのだ。そして家康もまた、数正が自分に今生の別れを告げている事をその只ならぬ雰囲気から感じ取り、涙を流していたのだ。だがこの直後、今まさに去らんとしていた数正の口から洩れ出た「殿、決してお忘れあるな…私は何処迄も、殿と一緒で御座る」という言葉は、先程と殆ど同じ言葉ではあっても、全く別の意味を帯びていただろう。数正はこの時、自分が出奔する事で、徳川家が秀吉と対抗し続ける事が出来ない様な状況を作り出し、それによって家康と徳川家を守ろうとした訳だが、同時に家康に自分の真意をそれとなく伝えておきたくなったのだ。だが数正の出奔後、その屋敷に駆け付けた者達の内で、その真意に気付いていたのは左衛門尉と正信だけであった様に見える。

 ところで、この回冒頭のアニメーションは、白い画面に墨汁の様な黒点が滴り、それがやがて松の枝を思わせる形になるも、最終的には画面全体が黒く塗り潰されてしまう―というものであった。松の枝は寧々が鍋に贈った豪華な櫛の装飾を想起させる為、このアニメーションは秀吉による数正調略を暗示しているのであろう。「調略」というのは、下世話な欲望に付け込んで人を丸め込む事だけを狙っているとは限らず、たとえその対象となった者が調略に応じなかったとしても、その者を家中において孤立させ、相手方に分断を齎そうとする策である事もある。この事は(家康にそういう意図はなかったと思うが)第10回で今川氏真に殺された飯尾連龍や第31回で織田信雄に誅殺された三家老の運命を見ても分かる事で、秀吉にはそういう意図もあったと見て良いだろう。仮に調略されたという疑いを掛けられた者が主君の命によって成敗されたり、(数正に斬り掛かろうとした直政の様な)同輩によって殺害されたりした場合、殺された者の一族郎党は殺した相手を恨むだろうし、殺した者達の間には一層の疑心暗鬼が広がる可能性もあろう。そう考えるなら、家康に「そなたが居なければ…出来ぬ」と言われた数正は、自分の出奔によって徹底抗戦を困難にするだけではなく、敢えて自分一人が「裏切り者」の汚名を着る事で家中の分断を未然に防いだ、という側面もあっただろう。他方で、家康との最後の対話において、数正は己の真意を決して言葉にする事無く反語に終始しており、「関白殿下是天下人也」と書かれた書置きでさえ反語の様に見える所から、彼が実際に何を考えて出奔したのか、という事については、如何にもはっきりしない所がある。それゆえ最後に、数正とその妻鍋による言葉にならない二つの振る舞いを見る事で、その真意に出来る限り近付いてみる事としよう。

 先ず彼らが出奔する夜の振る舞いを見てみよう。数正は木彫りの神像に向かって手を合わせて祈り、書置きを神像の前に置くと、振り返って妻の鍋に「良いな?」と尋ねる。すると鍋はただ「はい」と答え、寧々から贈られた櫛の入った箱を神像の前に置くと、夫と同じ様に神像に向かって暫く礼拝する。そうして二人は供の者を連れて邸から立ち去っていく。この神像は第31回で初めて登場した物だが、第17回や第19回において家康が作っていた神像を連想させる(とはいえ、あの時の像は猪に跨った摩利支天像であったが、数正邸のそれは違う形をしている)事から、若しかすると家康から贈られた物なのかもしれない。また翌朝、数正邸に家康や家臣達が駆け付ける場面には、於愛が木彫りの神像に目を遣ると、神像の左には櫛の入った箱、右には無地の平べったい木の箱が置かれている、というカットがあるが、第17回において家康が築山で木彫りの兎を作っている場面でも、この平べったい箱(家康はそこに小刀を仕舞っていた筈だ)に似た物が出て来た様な気がする。ここから類推するに、この神像は数正に寄せた家康の信頼感、そして家康に寄せた数正の忠誠心―即ち、二人の固い絆―を象徴している様な気がしてならない。なぜ数正はこの神像を置き去りにしていったのだろうか?それは数正が自らこの絆を断ち切り、家康とは別の世界へ向かう決意をしたからではなかったか?次にこの回には、数正が大坂城の廊下を歩く場面が二回出て来るが、何方も真昼間であるにも拘らず、薄暗い廊下に蝋燭の灯った異様な雰囲気の場面であった。特にこの回の最後、「石川出雲守吉輝」と成った数正が退去する場面では、彼の後ろを歩いていた鍋が突然不安に駆られたかの様に後ろを振り返り、数正も振り返って彼女を見るが、直ぐに目を落とし、再び前を向いて歩き出す、という場面がある。第27回で徳川家の一行が訪れた安土城の内部も薄暗かった事を思い起こせば(尤も、僕自身姫路城の天主に登った時の体験から言うなら、日本の城の内部というのは暗いものである様だ。とは言え、このドラマにおける岡崎城や浜松城が陽光に照らし出された明るい空間である事を考慮するなら、ここには演出上の意図がある筈である)、この暗さは専制君主に特有の「暗さ」なのかもしれないが、この回における大坂城の廊下の「暗さ」には別の意味もあるだろう。ここでもう一度、数正と家康の対話において、「王道を以て覇道を制す!…儂には出来ぬと申すか!数正!」と問い詰める家康に向かって数正が「…秀吉に平伏すなどと申したら、この国を守る為に死んでいった多くの者達が化けて出ましょう。危うく忘れる所で御座った、殿を天下人にする事こそ!我が夢であると…」と答えていた事を思い起こそう。数正はこの場面では終始、死者達の話をしているが、それにしても「儂には出来ぬと申すか!」と問う主君に対して「秀吉に平伏すなどと申したら、この国を守る為に死んでいった多くの者達が化けて出ましょう」と応じるのは些か唐突な印象を与え、家康もこの時の数正の態度には困惑していた。この直前に家康が抱える死者達への負い目に対して、「さぞや御苦しい事で御座いましょう」という言葉を掛けていた数正は、寧ろ死者達の軛を断ち切るよう家康に勧めていた様に見える。それがここでは一転して、「…秀吉に平伏すなどと申したら、この国を守る為に死んでいった多くの者達が化けて出ましょう」と死者を引き合いに出す事で、家康の主戦論に対して偽りの賛意を示すという事は、ここには全く別の意味が込められている、と考えるべきだろう。思うにそれは、私は己の「死」を以て、「この国を守る為に死んでいった多くの者達」と共に黄泉の国へ降りていく(即ち、忘却される、公の歴史から姿を消す)から、どうか家康と徳川家は新しい世で新しい生を送ってくれ(言い換えれば、石川数正の「裏切り」を奇貨として、徳川家は死者達への負い目を断ち切り、彼らを忘却すべし)、という願いではなかったか?秀吉の臣下と成り、「石川伯耆守数正」(史実では石川伯耆守康輝)から「石川出雲守吉輝」と改名した事は、正に数正の「死」を意味している。それゆえ「…秀吉に平伏すなどと申したら」から「羽柴秀吉何するものぞ!我らの国を守り抜き、我らの殿を天下人に致しまする!」に至る口上を述べている間、数正は何とも言えない不思議な笑みを浮かべていたのだ―あれは己を「殺す」決意をした人間の顔なのである。そして「死者」と成った人間には最早守り本尊も無用である為、彼は自邸に神像を置き去りにしていったのだ。数正にとって「石川出雲守吉輝」と成る事は「死ぬ」事なのであり、だからこそ大坂城の廊下はあんなに暗かったのである。あそこは数正にとって黄泉の国へ通じる道なのだ。そしてだからこそ廊下を歩いていた鍋は、一瞬、強い不安に駆られたのである…尤も、出奔する際、「良いな?」と問う夫に「はい」と答えた彼女は、自分達が黄泉平坂を歩いているという事を知っていた筈なのだが。

 「岡崎決戦に備え」ようとしていた矢先に、数正の出奔によって出端を挫かれた徳川家は、紆余曲折を経た挙句、結局この事件の約一年後、秀吉に臣従する事となる。だが徳川家が(長宗我部家、島津家、北条家とは違って)その勢力を温存する事に成功したのは、矢張り小牧・長久手の戦いに勝利し、しかもその後、大敗する事無く(言ってみれば、勝ち逃げしたまま)、交渉によって有利な地位を確保する事が出来たからである。それは結果として、長久手における大勝利と数正出奔(そしてそれに続く天災)のお陰であり、その意味で、「この世に無用の事など、一つも御座いませぬ」と言っていたお万は正しかったのだ。他方で、数正出奔という大事件は徳川家の歴史に断絶を齎し、その在り方そのものを大きく変化させていく。例えば、軍制を武田式のものに改めた事や、1586年12月に本拠地を浜松城から駿府城へ移した事などは、数正出奔の帰結であったと言われている。だがそんな事よりもっと重要な変化は、徳川家が「今こそ、我らの手で天下を掴む時ぞ!」という野心を一旦捨て、豊臣政権の下で一大名として生きていく道を選んだ事である。徳川家は織田政権にも服していたとは言え、あの時は戦乱の真っ只中であり、当時の家康や徳川家臣団は兎に角ただ生き残る事だけを考えていた。ところが豊臣政権の下では、小田原征伐の後、(朝鮮出兵があるとはいえ、国内においては)平和な世が十年続く事になる。この平和な十年の間に成し遂げた事業(例えば、江戸の町の建設)が、後の幕藩体制の礎となるのだ。また「そなたが居なければ」と頼りにしていた数正が去った事で、家康自身、君主として、また人間として成長せざるを得なくなった筈だ。その意味で、数正出奔という出来事は、徳川家と家康を大きく成長させる切っ掛けとなったのである。

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