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どうする家康 第37回「さらば三河家臣団」

 小田原征伐により北条家を滅ぼした後(とは言え、北条家はこの後、狭山藩としてその命脈を保つ)、徳川家に関東への国替えを命じた秀吉には三つの狙いがあっただろう。それは先ず第一に、徳川家を馴染み深い旧領五ヶ国から切り離し、領地、領民との特別な結び付きを断つ事である。「一所懸命」(「中世、1か所の領地を命をかけて生活の頼みにすること。また、その領地」『デジタル大辞泉』「一所懸命」)という言葉がある事からも分かる様に、武家にとって自己の所領は何よりも大切なものであったが、家康と徳川家臣団にとっても父祖伝来の地三河は掛け替えの無いものであった。更に今川家、武田家、北条家、上杉家といった周辺の大勢力との三十年に亘る戦いの中で、苦心して切り取っていった遠江、駿河、甲斐、信濃の地に対しても彼らには強い思い入れがあった―いや、それは「思い入れ」などといった生易しいものではなく、石川数正をして「秀吉に平伏すなどと申したら、この国を守る為に死んでいった多くの者達が化けて出ましょう」と言わしめる程の妄執であり、第33回、第34回における徳川家はこうした執着に引き摺られて、危うく北条家の様に滅亡する所であった(数正はこうした執着を戒める為、身を捨てて出奔したのだろう)。それゆえ三河、遠江、駿河、甲斐、(上杉領を除いた)信濃から伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、更に下野と常陸の一部も含めた関東への移封は大幅な加増ではあっても、家康や徳川家臣団にとっては苦労して築き上げてきた領地、領民との結び付きを切断される事を意味しており、これ迄の努力が水の泡と成った様な気がしただろう。だからこそ家康は重臣達に向かって「皆、本当は悔しかろう。無念であろう。この様な事になり…済まなかった…この通りじゃ」と平伏して詫びたのだ。第二の狙いは、家康を僻地に封じ込める事である。秀吉が家康に国替えを命じた際、既に北条家の城下町として栄えていた小田原ではなく、未だ小さな町でしかなかった江戸に住むようわざわざ指示(事実上強制)したのは、豊臣政権の重鎮で東海の盟主でもあった家康を関東の奥地へ左遷し、それによってその影響力を削いでやろう、という意図があったのは明らかだ。また正信が言う通り、「江戸に町を作らせ財を失わせ」るという事も秀吉は考えていたであろう。そして第三の狙いは、徳川家を分断する事である。秀吉が突然「重臣達も独り立ちさせてやれ。城持ち大名にしてやる」と言い出し、しかも「本多忠勝は、上総が良かろう。榊原康政は上野館林、井伊直政は…」とその所領の位置まで細かく指定してきたのは、これまた正信が指摘していた様に「徳川の強みである家中をバラバラにして繋がりをたーつ」事を目的としての事であろう。恐らく秀吉としては、徳川家の重臣達に国境の要地を与え、江戸に居る家康と彼らとの関係を疎遠にすれば、最早徳川家は小牧・長久手の戦いで秀吉の大軍を破った時の様な力を振るう事は出来まい、という腹積りであったのだ。

 それでは徳川家を関東へ移封する事により、徳川家中を分裂させ、家康を僻地へ封じ込め、徳川家と領地、領民との特別な結び付きを断つ、という秀吉の目論見は成功したのだろうか?先ず重臣達の自立性を強める、という秀吉の狙いについて考えてみよう。関東移封を止められなかった事について家康が「この様な事になり…済まなかった…この通りじゃ」と平伏して詫びた時、直政は「お止め下され、なぜ謝る事がありましょうや?また一から始めれば良いだけの事」と前向きに振る舞い、小平太も「その通り。この乱世を、我らはこうして生き延びたのですから。それで、十分」と家康を慰めていた。そればかりか忠世を始めとする重臣達は乱世を生き延びた事に対して「殿、殿のお陰で御座る。有難う、御座いまする」と逆に家康に平伏し、家康もまた「…こちらこそじゃ、こんな儂に…よう付いて来てくれた…よう支えてくれた…皆のお陰じゃ」と彼らに頭を下げるのだから、重臣達が江戸から遠く離れた地に封じられたからと言って、主従の間の繋がりが断たれる事は無い、と見て良いだろう。また直政は上野国箕輪、小平太は上野国館林、平八郎は上総国万喜、彦右衛門は下総国矢作、七之助は上野国厩橋、忠世は相模国小田原といった様に、それぞれ国境に領地を与えられた訳だが、これらの地は上杉家、佐竹家、里見家等といった外部勢力と接しており、重臣達は徳川家領国の境界を守る事で、却って徳川家臣としての意識を強めたかもしれない。そもそも徳川家の新たな領国が関東全域に及んでいる事を考慮するなら、秀吉に言われずとも、重臣達を国境に配置する事は避け難かった筈で、そこから考えても、重臣達の自立は徳川家の分裂というよりは、徳川家が発展していった結果である様に見える。これは例えて言うなら、子供達が成長して親元を巣立ち、それぞれ別の場所に自分の家を持っても、家族としての結び付きは保たれている、という様な状態である。第二に、家康を僻地に左遷するという目論見はどうなったのであろう?秀吉は確かに家康に対して「江戸に町を作らせ財を失わせ」る事は出来たかもしれないが、秀吉自身が「街道の交わるとこじゃ。東国の要にもっっとも相応しい」と言っていた江戸には大きな可能性が秘められており、それは家康の下で大きく開花する事となる。そうなった理由は勿論、その立地条件の良さ、伊奈忠次を始めとする優秀な家臣達の尽力もあるが、家康自身「しかし、町を一から作るとは、楽しいもんじゃな」と率先して町作りに取り組んだ事も大きいだろう。なお「江戸」という地名の由来については、「江戸とは「入江の口」の意味で、「江の門戸」の略語といい、また荏の多く生えた土地、すなわち荏土から出たともいう」(『ブリタニカ国際大百科事典』「江戸」の項目より)と諸説あるようだが、このドラマにおいては第2回以来、「厭離穢土欣求浄土」という仏語が重要な意味を持っており、徳川家の旗印にもそれが掲げられている、という事を考慮するなら、「江戸」が「穢土」を連想させるのは偶然ではあるまい。第9回で三河一向一揆を鎮めた後、「綺麗事にしてはならん…儂は…愚かな事をした…儂が守るべきものは…民と…家臣達であったというのに…」と慙愧の念に苛まれている家康に向かって瀬名が言った「ならば…これから成し遂げましょう…厭離穢土欣求浄土…穢れたこの世を、浄土に」という言葉(「築山の謀略」もまたこの言葉の延長にある)はこのドラマの主題の一つと言っても良いのだから、「今は泥濘だらけだが、儂は彼の地を、大坂を凌ぐ町にしてみせると決めておる」という家康の抱負は、「穢れたこの世を、浄土に」変えていくという年来の夢の実現でもあったのだと思う。家康は辺境での町作りに力を注ぐ事で、却って徳川家発展の種を蒔き、更に自己の原点を見つめ直す契機を得た、と言って良かろう。最後に、徳川家と土地との特別な結び付きを断つ、という狙いについて検討してみよう。旧領五ヶ国から捥ぎ離され、見知らぬ関東の地へ移封された事は、徳川家にとって大打撃であった―だが家康にとって関東地方は全く縁無き土地という訳でもなかったのだ。小田原開城後、北条氏政は「お聞かせ願えますか、何故、もっと早くご決心なさらなかったか」という家康の問いに「…夢を見たから、ですかな。嘗て、今川氏真とその妻である我が妹を通じて、或る企てに誘われました。小さな国々が争わず、助け合って繋がり、一つになるのだと…馬鹿げた話だと思いつつも、心を奪われました。我らはただ、関東の隅で、侵さず、侵されず、我らの民と、豊かに穏やかに暮らしていたかっただけ…なぜそれが許されんのかのお!」と無念そうに答える事で、十一年前に織田政権の下で圧殺されたと思われていた「御方様の目指す東国の夢」が未だ彼の地において生き続けていた、という事を明らかにする。これに対して「他の人が戦無き世を作るなら、それでも良い」と考えるに至った家康は「世は…変わったので御座る」と諭すが、氏政は「…その変わりゆく世に、力尽きるまで抗いたかった!…徳川殿、この関東の地、そなたが治めてくれるのであろう。我が民を、宜しく頼みまするぞ」と応じる事で、家康に関東の地を委ねるのだ。これは単に滅びゆく旧領主が新しく来た新領主に領地の引継ぎをした、というに止まらず、「慈愛の心で結び付いた国」という同じ夢を見た同志として氏政は家康に「我が民」の統治を委任した、と見るべきであろう。家康は言うなれば、関東の盟主北条家の後継者と成った訳であるが、これは平将門、鎌倉幕府、関東公方、後北条家といった上方政権に抗う関東政権の系譜を継ぐという事をも意味しており、潜在的には東国武士を束ねる武家の棟梁と成る資格を得た、という事にもなる筈だ。つまり徳川家を本拠地である東海地方から切り離し、家康を僻地に住まわせ、重臣達を関東諸国に配置する事で徳川家を弱体化させるという秀吉の目論見は、結果として、家康を東国の王に相応しい存在へと押し上げる事になってしまったのだ。

 嘗て項羽は秦を滅ぼした後、劉邦を漢中へ封じる事でその力を削ごうとしたが、却って己の覇権を掘り崩す事となってしまった。秀吉もまた徳川家を関東へ国替えさせる事で、同じ轍を踏む事となったのだ。この回には、秀吉が小田原城近くの笠懸山に秘かに城を築き、完成した時点で城の周りの木々を切り倒す事によって、恰も一夜にして壮麗な城が作り出されたかの様に見せ掛け、小田原城の将兵に心理的打撃を与える、という場面があったが、この所謂一夜城と「江戸に人を多く集めるには、土地が足りませぬ。そこで、良案が御座います。こちらの神田山を削り、その土で、日比谷入江を埋め立てまする」という江戸普請奉行伊奈忠次の大胆な着想とは、見事な対照を成している。前者は派手派手しい手品の様なもので、成程、これによって関東の雄北条家は僅か四ヶ月で屈服する破目に陥ったのだから、見事な策略であったと言えるが、詰まる所、見せ掛けだけで人の心を惑わそうとする一種の詐術である。これに対して、後者は大胆な着想ではあっても、基本的には地道な土木事業であり、人の目を眩ませる様な効果はない。だがそれは百年二百年先を見据えた取り組みであり、後の大都市江戸の礎はこの様にして作られていったのだ。他方で、この時期(1592年頃)の豊臣政権は国外へ膨張しようとしていた訳だが、対する徳川家は江戸の町作りにその全精力を傾けていた。これは国外への領土拡張か、国内での領土開発か(或いは、他者を押し退けて土地を奪うか、自然に働き掛けて土地を作るか)、という二つの選択肢として捉える事も可能であり、秀吉と家康という二人の権力者の違いを浮き彫りにする論点でもある。結果として、秀吉の領土拡張策は豊臣政権の寿命を縮めたが、家康の領土開発策は二百五十年に亘る太平の世の基礎と成ったのだから、この違いは決定的なものであったと思う。

 こうした両者の政策における違いは、彼らの年の取り方から来ている様な気もする。1590年には旭、1591年には秀長と鶴松を亡くした豊臣家からは早くも凋落の気配が感じられるが、秀吉はそこから目を逸らそうとするかの様に壮麗な城閣(一夜城はその典型である)や御殿の建設、壮大な領土の征服へと邁進していく。これに対して、「今は泥濘だらけだが、儂は彼の地を、大坂を凌ぐ町にしてみせると決めておる。吹きっ曝しの粗末な城も作り直すぞ」と意気軒高な家康は、飽くまで町の基礎作りに力を集中させている。ここから窺えるのは、秀吉は自分が死んだ後、豊臣政権をどの様に維持していくのか、という事には一切頓着せず、只々自己が上昇し続ける事ばかりを考えているのに対して、家康は自分の死後も徳川家の領国が繁栄し続けられるよう自分の足元を固めている、という事だ。上手く年を取る―即ち、成熟する―という事が、子や孫の世代を考慮して行動する事を意味しているとするなら、秀吉は成熟する機会を逸してしまった様に見える―これは余りにも短期間に余りにも多くの物を得た事の代償なのだろうか?このドラマの家康はこの時点では未だ「他の人が戦無き世を作るなら、それでも良い」と思っている訳だが、その彼が「他ならぬ自分が戦無き世を作らざるを得ない」という覚悟を固めた時、江戸での地道な土木事業が生きてくるのだ。これこそ上手く年を取るという事である。

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