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どうする家康 第30回「新たなる覇者」

 信長が光秀に殺された後、織田家の主導権を握り「新たなる覇者」と成ったのは羽柴秀吉であるが、彼は信長とは全く違った種類の権力者である。本多正信の「秀吉は民百姓の人気が凄まじい。みな自分の親類縁者の様に奴の事を思うておる。あれは、人の心を掴む天才じゃ」という評言は、ただ単に民百姓が自分達と同じ(或いはもっと下の)階層から伸し上がって来た秀吉に好感を持っており、しかも秀吉が人心収攬術に長けているというだけの事ではなく、彼が他者の欲望を喚起し、それを己の利益の為に利用する、という特異な才能を持っている事をも示唆している。秀吉が徳川家に年の瀬の贈り物として砂金を届けた時、数正は「打って変わって品の無い事よ」、彦右衛門は「その通り、つくづく下世話な男じゃ」と嘲笑していたが、この誰の目にも見え透いた「下世話な」遣り口こそ、秀吉の「人たらし」たる所以である。賤ヶ岳で一敗地に塗れ、北ノ庄城でお市の方と共に自刃した柴田勝家は、信長の下で筆頭家老を務めた程の武将であり、戦に際して敵を調略する事の重要さを良く知っていた筈である。にも拘らず、秀吉が丹羽長秀、池田恒興、織田信雄、前田利家といった織田家の有力者を次々と調略していくのを、勝家がみすみす手を拱いて放置していたのは、「義は我らに有」るのだから、織田家中の盟友達は自分の味方をしてくれる筈で、わざわざ買収する必要などない、と彼が信じていたからだ。しかし丹羽、池田、信雄、前田といった武将達が幾ら信長に恩義があると言っても、彼らとて「義」だけで生きている訳ではなく、彼らには彼らの生活が有り、彼らなりの欲も有る。恐らく彼らは彼らで、「下世話な」餌で自分を惹き付けようとする秀吉を内心軽蔑し、自分の勢力拡大の為に利用してやろうと考えていた筈だ―だがそれこそが秀吉の付け目であって、一旦秀吉の「下世話な」誘惑に靡いた以上、今更尤もらしい大義名分を持ち出して離れる訳にもいかず(持ち出した所で最早世間は信用するまい)、彼らは疚しさを抱えつつ、秀吉の言い成りになるしかない。調略によって敵を切り崩す事自体はどんな戦国武将も実践している事だが、身も蓋も無い「下世話な」利益誘導によって武士としての誇りを打ち砕き、自分の意の儘にしてしまうという遣り口は秀吉ならではのものである。この様に秀吉においては、調略とは一種の下克上であり、彼はこれによってそれまで自分を蔑んできた織田家の重臣達に復讐している、と見る事も可能だろう。正にそれ故に「秀吉は民百姓の人気が凄まじい」のだ。前回、山崎の合戦に敗れた光秀が小栗栖にて落ち武者狩りに殺害されたのは、勿論、その土地の百姓達が略奪品や恩賞目当てにした事なのだが、ここには百姓達による武士への復讐という側面も無かっただろうか?即ち、秀吉の調略とは、ただ気前良く恩賞をばら撒いたり、相手を褒めそやしたり、様々な地位を約束したりする事だけではなく、他者の心の奥底に潜むありとあらゆる欲望を掻き立てる事で、巨大な力を解放し、それによって自らの社会的上昇を実現させる、という一つの政治手法なのだ。秀吉が動員する欲望の中には、家康に対する茶々の恨みも含まれている。客観的に見るなら、勝家とお市の方に救援を送らなかったのは家康だけではなく、池田恒興もそうであるし、前田利家などは賤ヶ岳において戦線離脱までしているのだから、茶々は寧ろこうした織田家譜代の家臣達を恨むべきであって、元々信長の家臣でも何でもなかった家康を恨むのは筋違いも甚だしいのだが、そこが人間の心の厄介な所だ。「私が幼い頃、母上は良うお話して下さいましたよ…昔話を」と言った茶々は、母が家康へ寄せる秘かな慕情を敏感に感じ取り、以前から家康の事を父を貶める存在と見做して、反感を持っていたのかもしれない(初と江にそうした反感が見られないのは、彼らは父浅井長政の事を殆ど覚えていないからであろう)。それゆえ母に向かって「徳川殿は嘘つきという事で御座います…茶々はあの方を恨みます」と言い放った茶々は、賤ヶ岳の戦いの結果、家康を恨むようになったというよりは、寧ろ賤ヶ岳の戦いの結果、晴れて家康への憎悪を自分に対しても他者に対しても正当化出来るようになった、という事ではなかったか?そう考えるなら、北ノ庄城落城後、秀吉と会見した際、秀吉の手を両手で包み込み、ニッコリ笑って見せた茶々は、恰も自らの憎悪を以て秀吉を手玉に取ろうとしているかの様に見え、秀吉もまた茶々の予想外の振る舞いに虚を衝かれたかの如くであったが、実際にはそうではなく、茶々は織田家の重臣達や民百姓と同様、秀吉という媒体に触発されて、自らの欲望を発散させているに過ぎない。秀吉は茶々の「恨み」をも豊臣政権強化の為に利用していく事であろう。ところで興味深い事に、他者の欲望を喚起する事で自己の権力を増大させていく秀吉には、自分自身の感情が無いかの様に見える瞬間がある。例えば第22回で、信長、家康と共に八剱山から設楽原の戦いを見ていた秀吉は、「最強たる武田兵も、虫けらの如くだわー、ハッハッハッハッハ…」と勝ち誇った様に笑っていたが、信長に「やめよ!」と窘められると、直ぐに真顔に戻って「へい」と畏まっていた。或いは、第28回で、本能寺の変の一報を受け取った時には、「上様ー!上様ー!」と身も世も無く泣き喚いてみせた後で、一転して真顔に戻り、「今直ぐ毛利と和議を結ぶ」と冷徹な意志を見せている。またこの回では、勝家とお市の方の婚約を知った秀吉は、彼らに向かって「お似合いだわー、ああ、昔っから夫婦だったみてえだわー、やー、姫様達も、新しい父上が出来て良う御座えましたなあ」などと口にするのだが、これなどは余りに誠意の感じられない言葉なので、殆ど挑発的と言っても良い位である。同じ様に全ての喜怒哀楽が作為的に見えるのが、このドラマにおける明智光秀であり、彼は常に信長の意を忖度し、例えば第26回では、それに合わせて家康を挑発したり嘲笑したりしていたものだが、光秀の場合、飽くまで信長に迎合して振る舞っていただけの話で、(第28回や第29回での言動を見ると)彼にはそれなりに人間的な感情が有った様に見えたが、秀吉が時折見せる無表情―これは本心を隠そうとする時に出て来る「無表情」という名の表情ではなく、底知れぬ空虚さを感じさせる奇妙な表情だ―はそれとは全く異質なものである。お市の方は「秀吉は、己の欲の儘に生きておる」と言っていたが、あの顔を見ていると、秀吉という男は空っぽの器の様なもので、彼自身には如何なる欲望も、如何なる喜怒哀楽も欠落しており、逆にだからこそ、他者の欲望を引き出し、それを吸収する事で己の空虚さを埋め合わそうとしているのではないか、という気がしてくる位だ。尤も秀吉自身に欲望が無いとしたら、なぜ彼は「欲しいのー、織田家の血筋が」などと言っていたのか?彼は続けて「そうすりゃあ、儂らを卑しい出だっちゅうて、馬鹿にするもんはおらんくなる」と述べていたが、家柄という点で言うなら、織田弾正忠家は大した家ではなく、彼がこの頃側室にした京極竜子の京極家と比べるなら、後者の「血筋」の方が遥かに上であろう。秀吉が「織田家の血筋」に拘るのは、お市の方への憧れや主家である織田家への劣等感というよりは、寧ろ織田家を凌辱し、下剋上を貫徹させたかったからではないだろうか?なぜなら「卑しい出」の秀吉が信長の後継者と成る為には、少なくとも室町幕府以来の社会秩序を一旦引っ繰り返す必要があった筈だからだ。

 このドラマに登場する信長と秀吉の性格を基に、織田政権と豊臣政権を対比するとしたら、前者が万民の欲望を抑圧しようとしていたのに対して、後者は逆にそれを解放させようとしている、と言う事が出来よう。それは上述の様に、秀吉は伝統的社会秩序の底辺から出て来た男である為、覇者となる為には、万民の欲望を解放する事によって、この社会秩序自体を一旦崩壊させねばならなかったからである。この欲望の解放によって、これまで隠されてきた多くのものが姿を現す。この点で極めて象徴的なのが織田家の人々で、これまで織田家の重臣というと、専ら柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉の四人しか出て来なかった訳だが、この第30回にして初めて、丹羽長秀、池田恒興、織田信雄、織田信孝といった人々が登場する。勿論、この人達は以前から信長に仕えていた訳だが、信長存命中はその影に覆われて、主人公家康(更には我々観客)の視野には入ってこなかったのである。更に興味深いのが、この回には、二人の責任者が上手く役割分担する事で運営されている体制―所謂、二頭体制―が幾つも登場する所だ。例えば、天正壬午の乱において徳川家と干戈を交えた北条家は氏政と氏直の二人によって統治されているし、織田家を着々と侵食しつつある羽柴家は秀吉と秀長の二人三脚によって動いており、その秀吉に対抗する織田家はお市の方と柴田勝家を中心にして運営されている。また本多正信が「鷹匠」として帰参した徳川家は、家臣団の合議によって切り盛りされているとはいえ、実際にはその基本方針は家康と正信の二人によって決定されており、奥向きの事はお葉と於愛によって差配されている。勿論、北条家、羽柴家、徳川家が二頭体制によって運営されている事と信長の死とは本来何の関係も無い事ではあるのだが、この回においてこれらが次々と提示されていくという事には何らかの意味が有る筈だ。それは何かと言うと、一つには、信長の死によって頓挫した織田政権が秀吉によって引き継がれ、その秀吉が作り上げた豊臣政権が日本列島を統一する迄のこの期間(1582-90年)は政治的過渡期に当たるが、室町幕府以来の分権体制と信長、秀吉によって推進される中央集権体制との中間にある二頭体制は、正にこの過渡期を象徴するものとして提示されているのであろう。尚且つこのドラマの主人公家康にとっては、二頭体制は信長の専制と「御方様の目指す東国の夢」とを綜合する試みの一つとも言える。他方で、これは徳川家中における勢力関係の変化をも反映しており、羽柴秀吉と柴田勝家の対立に際して、徳川家はどちらに加勢するべきか、という事を話し合う場において、積極的に発言し、議論の流れを決めたのは正信であり、これまで良く似た役割を担ってきた石川数正は寧ろ家康の様子を窺った上で、「明智に続いて柴田をも押し潰す、今の秀吉は破竹の勢い、私も、戦を構えるのは時期尚早かと」と正信に追随する様な発言をしている。或いはこうした家中における力関係の変化が彼の出奔へと繋がっていくのかもしれない。

 そう言えば、秀吉は信長によく「猿」と呼ばれていたが、これは彼の持つ「トリックスター」としての一面を良く表している。「トリックスター」とは「神話や民間伝承のなかで、トリック(詐術)を駆使するいたずら者として活躍する人物や動物。ときには愚かな失敗をし、みずからを破滅に追いやることもあるが、詐術的知恵や身体的敏捷性をもって神や王など秩序の体現者を愚弄し、世界(社会)秩序を混乱・破壊させる」(『ブリタニカ国際大百科事典』「トリックスター」の項目より)存在であるが、こうして見ると、上記の五組の二頭体制の内、羽柴秀吉と秀長、徳川家康と本多正信、お葉と於愛の場合、秀吉、正信、於愛にトリックスター的側面があり、これに対して、秀長、家康、お葉には秩序の体現者という側面があったので、その意味で彼らは良く釣り合いの取れた二人組であったが、北条氏政と氏直、お市の方と柴田勝家の場合、二頭のどちらも秩序の体現者という性格が強く、二頭体制にしては柔軟性に欠けていた所為で、彼らは悲劇的最期を遂げる事となったのかもしれない。さて初期豊臣政権においては、秩序を混乱させる秀吉と秩序を保とうとする秀長が一致協力していたからこそ、本能寺の変の八年後には天下統一という大事業を一先ず完成させる事が出来た訳だが、二頭体制の一翼を担っていた秀長が居なくなってからの豊臣政権は、専ら欲望の解放へと邁進していく事となる。この路線の延長には、漢王朝を開いた劉邦や明王朝を開いた朱元璋の様に易姓革命を実現させる―即ち、完全な無秩序から全く新しい秩序を築き上げる―という選択肢もあった筈だが、仮に秀吉がもう十年生きていたとしても、こうした社会変革を日本列島の住民達は受け入れただろうか?またこれに対抗する家康の中にも、「白兎」という信長が付けた綽名からも分かる通り、潜在的にはトリックスター的側面があった訳だが、他方で、彼には「王道」や「慈愛の心で結び付いた国」を理想とする様な側面もあった。結果として、家康の築き上げた江戸幕府は、織田政権ほど抑圧的でもなく、豊臣政権ほど革命的でもない、中道を行く事となる。

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