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どうする家康 第34回「豊臣の花嫁」

 家康がうっかり正信を「数正」と呼びそうになったり、直政が数正について「私は、あの方が好きではなかった」と言いつつも、「敬っておりました」と内心を吐露し、平八郎、小平太も暗に同意していたりする所からも分かる様に、数正の出奔は徳川家中に大きな喪失感を齎した。それゆえ第34回「豊臣の花嫁」は石川数正の出奔という出来事に対する解釈の試みとなる。

 1586年9月、家康と重臣達は大政所の岡崎訪問を前にして評定を開き、そこで秀吉の臣下に入るべきか否かについて議論を闘わせる。この一年近く前、数正が左衛門尉と並んで徳川家の大黒柱であった時にも、彼らは同じ問題について論じ合った訳だが、あの時には家中の大勢は主戦論に立っており、はっきりと講和論を唱えたのは数正のみであった。それが今では、数正出奔後の情勢変化により、左衛門尉と正信も徹底抗戦には懐疑的な立場を取るようになっている。左衛門尉は相変わらず威勢の良い平八郎と直政を「それは本心か?平八郎、直政…本当に戦えると思うか?どんな勝ち筋があると言うんじゃ?」と叱責し、家康に対しても「殿…殿も、本当は分かっておられる筈…我らは、負けたのだと…それを認める事がお出来にならんのは…お心を、囚われているからで御座いましょう」と家康の強硬な態度の根底に在るものを指摘する―それは「今は亡き、御方様と、信康様」に対する家康の負い目であった。家康はそう言われても、「悪いか?…もう誰にも何も奪わせぬ。儂が、儂が戦無き世を作る…二人にそう誓ったんじゃ」と益々意固地になり、平八郎と小平太もそれに同調する。この時、本来評定の場に居てはいけない筈の於愛が入って来て、議論の流れを変えてしまう。彼女は「私には難しい事は分かりません。なれど…御方様が目指した世は…殿が為さなければならぬものなので御座いますか?…他の人が戦無き世を作るなら、それでも良いのでは?」と左衛門尉とは全く違う観点から、家康の主戦論に疑問を呈したのだ。実際、自害する直前の瀬名が残した言葉は、先ず平八郎と小平太に向かって「平八郎、小平太、殿をお連れせよ…そして殿と共に、そなた達が安寧の世を作りなさい」と命じ、それに対して「そんな事…そんな事、儂には…」と駄々をこねる家康には「出来ます…[木彫りの兎を家康に渡し]いいですか…兎はずーっと強う御座います…狼よりもずっとずっと強う御座います…貴方なら出来ます…必ず」と激励するものであり、彼女自身が家臣や夫に「天下を取れ」と言った事は一度も無かったのである。この於愛の指摘は意固地に成っていた家康と家臣団に再考を迫る力があった。これを受けて、左衛門尉は「数正には…それが見えておったのかもしれんな…自分が出奔すれば…戦はもうしたくても出来ぬ。それが殿を!皆を、延いては徳川を!守る事だと」と述べ、数正は出奔する事で家康に講和を促したかったのではないか、という考えを示唆する。正信もまた「だから、誰も巻き込まず、己一人で間者と成った。罪を、全て一人で背負った。殿の、御迷惑に成らぬ様に」と左衛門尉の考えを補足し、数正の真意を推し量る。更に於愛は数正が自邸に置き去りにしていった仏像、平たい木の箱に入った「正信念仏偈」、この箱の底に詰められていた押し花を取り出し、これらの物に込められた数正の思いについて、「私にも分かりませぬ。でも、もしかしたら…今は無きあの場所を、数正殿は、ここに閉じ込めたのではありませんか?…何時も、築山に、手を合わせておられたのではありませんか?」と推測し、それらを家康の負い目と成っていた瀬名の思い出と結び付ける。仮に数正が「何時も、築山に、手を合わせておられた」とすれば、それは彼の忠誠心を証し立てており、彼の出奔もまた単なる「裏切り」では無かった事になる。それゆえ正信は「…何とも、不器用な御方じゃな」と数正の真心に感嘆してみせ、左衛門尉は「それが、石川数正よ…殿…お心を縛り付けていた鎖…そろそろ、解いても宜しいのでは?…これ以上、己を苦しめなさるな!」と家康に呼び掛ける。この築山を「閉じ込めた」押し花の箱は、その懐かしい香りによって徳川家の人々の心に築山の思い出を蘇らせ、結果として主戦論に立っていた家康、平八郎、小平太、直政らの強張っていた心を解きほぐし、彼らに「天下を取る事」を諦めさせ、秀吉に跪く事を決断させる事となる。尤も家康が「天下を取る事」を真剣に考えるようになったのは1579年の築山殿事件が切っ掛けであり、この時から1586年9月の評定に至るまで、信長暗殺を計画したり、秀吉と天下を争ったりしていた家康は、自分の柄にもない事をしていたのかもしれない。現に天正大地震の夜、家康は自分が数正に殺される夢を見るが、これは第27回で信長を悩ませていた夢に酷似しており、家康が危機的な精神状態にあった事を示唆している。それゆえ上洛するに当たって於愛に「関白を操り、この世を浄土とする。それが、これからの儂の夢じゃ」と語った時の家康は、寧ろ前よりも寛いだ顔をしており、豊臣政権の一員として「安寧の世を作」る事に前向きに成っていた事が分かる。

 しかしながら、数正の真意は、本当に仏像、「正信念仏偈」、押し花から読み取れるものなのだろうか?或いは、数正はなぜこれらの物を置いて行ったのか、と問う事も出来るだろう。 1586年9月迄の徳川家においては主戦論が優勢であったが、於愛が評定に闖入した事で流れが変わり、そこに数正出奔に対する左衛門尉、正信の再解釈が加わり、更に於愛による押し花の提示を経る事で、家中は一転して講和論に向かう。だが数正自身は劇中、自分が出奔した理由について一度も釈明した事は無い為、徳川家の評定において左衛門尉、正信、於愛が述べた事は、何処まで行っても彼らの解釈でしかない。また図らずも徳川家を講和論へ導く事に成功したこの三人は、数正が仏像、「正信念仏偈」、押し花の箱を一揃いの物として―換言すれば、三つで一つの意味を担う物として―意図的に置いて行った、と考えていた節があるが、これは正しい理解だろうか?何しろこれらの物は、「関白殿下是天下人也」と書かれた書置き同様、燃やされていた可能性もあったのだ。先ず於愛が「拙くて可愛い仏様。数正殿が、手ずからお彫りになった物じゃないかしら」と言っていた仏像だが、これを数正本人が作ったという証拠は何処にもない。他方で、第17回、第19回において家康が摩利支天像を作る場面があった事、第19回において数正がこの摩利支天像に言及する場面があった事などを思い起こせば、これは寧ろ家康が手ずから彫って数正に贈った物ではないのか、という気もするのだが、この説にしても証拠がある訳ではない。次に「正信念仏偈」だが、これは「正信偈」とも呼ばれ、「親鸞の著書『教行信証』の「行の巻」所収の偈文。「正信念仏偈」の略称。早くから真宗僧俗の間で朝暮の勤行として諷誦され、いまも行われている。三国七高僧の行実や教義によって、真宗の要義大綱を七言60行120句の偈文にまとめたもの」(『ブリタニカ国際大百科事典』「正信偈」の項目より)であり、一向宗門徒にとっては極めて大切なものである。実は石川家には熱心な門徒が多く、三河一向一揆の時には一揆側に付いた者達もいた位だが、数正は彼らには与せず、この時、浄土宗に改宗したと言われている。しかし数正が「正信念仏偈」を大事に持っていた事から、彼が内心では一向宗への信仰を失っていなかった事が分かる。これは言い換えるなら、数正の心には、数十年来の付き合いである左衛門尉や家康でさえ窺い知れない部分が在った、という事である。この「正信念仏偈」を収めた木の箱の底には押し花が敷き詰められていたが、於愛はこの花を「今は無きあの場所を、数正殿は、ここに閉じ込めたのではありませんか?…何時も、築山に、手を合わせておられたのではありませんか?」と読み解き、それを仏像と「正信偈」に結び付ける事で、数正の忠誠心を証明してみせた訳だが、考えてみれば、この花が築山の花であるという確証は何処にもない。尤もこの回には数正の妻鍋が花を生ける場面が二回出てくるが、これ迄このドラマの中で生け花に取り組んでいたのは専ら瀬名(又はその教えを受ける亀姫)であった事を思うと、確かに押し花は築山への暗示には成っている。とは言え、仮に押し花が築山の花であったとしても、それを仏像と「正信偈」に結び付け、「何時も、築山に、手を合わせておられた」とまで言うのは、少し飛躍があるであろう。詰まる所、於愛が仏像、「正信念仏偈」、押し花を一纏まりの物として捉え、そこに数正の伝言を読み取ろうとしたのは、それが出奔後の数正邸に纏めて置き去りにされていたからであった。だが考えてみれば、そこにはもう一つ残されていた物があった―それは数正が寧々から拝領した櫛の入った箱である。この箱が置き去りにされていたのは、それが数正と鍋にとって無用の物であったからだ。ならば他の三つの物に対してもそう解釈する事が可能であろう。即ち、数正は徳川家家老石川数正としての己を殺す覚悟で出奔へと踏み切っているのだから、これ迄の彼にとって大切な物であった仏像、「正信念仏偈」、(ひょっとすると築山の花から作ったのかもしれない)押し花を敢えて捨てて行ったのかもしれない。つまり数正は徳川家の為に己の名を捨て、「死者」と成ったのだから、最早往生したいという願いさえ擲ったのだ…勿論、これとて僕の解釈に過ぎないのだが、ここで言いたいのは、どの解釈が正しいのかという事ではなく、このドラマにおいて石川数正出奔という出来事は「開かれたテクスト」として提示されており、そこに明確な答えはない、という事である。徳川史観において数正出奔は「裏切り者」の逸話であったが、小説、ドラマ、映画等においては、時に「忠義者」の逸話として解釈される事もあった。だが『どうする家康』では、第33回において数正の覚悟を見せる事で、一旦この事件を「忠義者」の物語として提示した上で、そこに多義的な三つの物を付け加える事により、「開かれたテクスト」を作り出しているのである。

 この回の評定において描かれていたのは、この「開かれたテクスト」に対して左衛門尉、正信、於愛がそれぞれ自分なりの解釈を試み、それによって徳川家中を講和論へと導いていく過程であった。数正がなぜ仏像、「正信偈」、押し花を置いて行ったのか、という事は、結局の所、曖昧な儘だが、それは結果として徳川家が方針転換する役に立ったのだから、数正にとっては本望であろう。しかしこの「開かれたテクスト」は全く別の観点から解釈する事も可能だ。例えば、於愛は例の仏像をまるで赤ん坊の様に布に包んで抱いていたが、この無防備な赤ん坊を思わせる仏像は、石川数正の境遇を暗示している様にも見える。「私は何処迄も、殿と一緒で御座る」と言いつつ秀吉の下へ出奔し、大坂で「飼い殺し」にされている数正は、己を敢えて犠牲にした訳だが、これと良く似た状況に置かれているのが、「長年連れ添った旦那様と、無理矢理離縁させられて、来たくも無い国へ来て、殿の御正室に成られた」旭である。また評定において、左衛門尉、正信、於愛の解釈により数正の忠誠心に気付いた徳川家の人々が、泣きながら数正を口々に罵る(事で反語的に数正と和解する)場面があるが、これ自体は可笑しみのある感動的な場面ではあっても、この行為には厄払いを思わせる側面もあり、それは婚礼の宴で「正に、秀吉の妹だわ」、「えらいの押し付けられて殿もお気の毒に」と言われていた旭を想起させる。二人は共に豊臣政権と徳川家の駆け引きの中で蔑ろにされているが、数正は徳川家の為に敢えて自分を犠牲にしたのに対して、元々只の農婦であり、偶々兄が天下人と成った所為で家康と無理矢理結婚させられる破目になった旭は、権力者に蹂躙される民衆そのものである。それゆえ於愛が家康の命に反して、数正の仏像を大切に取って置いた事と(因みに、この赤ちゃんの様な仏像は、徳川家の新生を象徴している可能性もある)、於愛と於大の方の諫言により旭の境遇に思い至った家康が彼女に謝った事は、どちらも重要な意味を持っている。それはこのドラマが歴史的事件を「裏切り者」、「忠義者」、「猿の妹」の物語として消費するのではなく、「開かれたテクスト」として捉え直す事により、そこで「蔑ろにされる者」の言葉にならない思いに近付こうとしているからである。

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