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どうする家康 第39回「太閤、くたばる」

 この回において、死を前にした豊臣秀吉は次の「天下人」について三度意思表示を行う。それは言うなれば、秀吉の遺言である。それゆえそれを受け取った石田三成、徳川家康、茶々の三人は、その三人の後継者という事になろう。

 この三つの意思表示を順に検証してみる事にしよう。秀頼に羽根を渡そうとしていた秀吉が意識を失い、縁側から転落したのは、恐らく慶長三年正月(1598年2月初め頃)の事である。そこから考えて、三成が秀吉の寝所へ駆け付けたのは、その少し後という事になる筈だ。己の死を覚悟した秀吉は三成に「秀頼は余りに幼い。誰じゃ?誰が天下人に成る?」と問うが、三成はこれに対して「…天下人は、無用と存じまする…豊臣家への忠義と、知恵有る者達が話し合いを以て、政を進めるのが、最も良き事かと」と答える。三成は既にこの五年前、「…力ではなく、知恵。天下人を支えつつも、合議によって政を為す。志あり、知恵豊かな者達が話し合い、皆が納得をして事を進めていく。そうなれば、天下人の座を、力で奪い合う事もなくなりましょう。お笑いになるでしょうが、その様な政がしてみたい、それが、私の夢で御座います」と家康に語っていたので、これは彼の年来の主張であった訳だ。「天下人」とは『ブリタニカ国際大百科事典』にある「天下人」の項目を見ると、「戦国の乱世を終息させて天下を統一し支配する人のことで、織田信長により主張され、豊臣秀吉にも受け継がれた」云々とあるが、詰まる所、日本全国を一元的に支配する専制君主と理解して良いであろう。三成が死の床にある主君に向かって敢えて「天下人は、無用と存じまする」と述べたのは、技術官僚(technocrat)として豊臣政権を運営してきた彼にとって、「志あり、知恵豊かな者達が話し合い、皆が納得をして事を進めていく」合議制が理想の体制であったのも然る事ながら、晩年の秀吉を見ていて、一人の人間に権限を集中させてはならない、という事を痛感したからでもあろう。秀吉はこの提言に「…儂も同じ考えよ。望みは偏に、世の安寧、民の幸せよ。治部、良い、遣ってみい」と応じる事で、三成の構想する合議制に賛意を表する。これは天下人秀吉の「建前」である。と言うのは、たとえ三成が優れた行政官であり、その言う事が理に適っているとしても、秀吉にしてみれば、信長の死後、合議制で遣ってゆく筈であった織田政権を自分自身が(第30回、第31回で描かれた様に)権謀術数によって乗っ取っている以上、三成の構想は絵に描いた餅にしか見えなかっただろう。人間の欲望を巧みに利用する事で天下人と成り果せた秀吉にしてみれば、三成の人間観は合理的過ぎるのだ。「遣ってみい」と言った後の秀吉が虚ろな目で虚空を見ているのは、彼自身、自分の「建前」を信じていないからである。

 この後、いよいよ病状が悪化した秀吉は家康を寝所へ呼び出す。この秀吉と家康の最後の対話に際して、後ろで杜鵑が盛んに鳴いていた事から考えて(これは当然、「鳴くまで待とう」という句を暗示しているのだろう)、その時期は今の暦にして五月から六月頃と見て良いだろう。すっかり病み衰えた秀吉は天下国家の事など忘れ果てたかの様に、家康に向かって「秀頼を、頼む」と懇願する許りであった。業を煮やした家康が「殿下…この戦を如何なさるお積りで?世の安寧、民の幸せを願うならば、最後まで天下人の役目を全うされよ!」と叱責すると(これは当然、秀吉が三成に語った「望みは偏に、世の安寧、民の幸せよ」という言葉を念頭に置いている)、秀吉は「そんなもん、嘘じゃ。世の安寧、など、知った事かー。天下なんぞ、どうでもええー。秀頼が幸せ、なら、無事に暮らしていけるなら、それでえー。どんな、形でもええ、ひでー事だけは、のお、しねーでやってくれ。の、頼む…」と三成への遺言をかなぐり捨てるかの様な事を言いながら、家康に倒れ掛かり、家康は彼を抱き止める―この時、誰かが傍らに居たとしたら、まるで秀吉が家康に縋り付いているかの様に見えただろう。凭れ掛かったまま力無く「うー、天下はどうせ、おめーに取られるんだろー」と口にする秀吉を家康は畳の上に座らせてやりつつ、「そんな事はせん。儂は、治部殿らの政を支える」と宥めるが、秀吉は「白兎が、狸に成ったか?知恵出し合って、話し合いでする?そんな、上手くいく筈がねえ。おめーもよお分かっとろう?今の世は、今のこの世はそんなに甘くねえと…豊臣の天下は、儂一代で終わりだわ」とその紛れもない本音を露わにする。この時、秀吉が「白兎」という信長が家康に付けた綽名で呼び掛けているのは、(往年の「人たらし」としての能力を振り絞って)家康を挑発する事でその本心を引き出し、そこに自分の本心をぶつける積りであったのだろう。この無責任な言い様に激怒した家康が「だから放り出すのか?唐、朝鮮の怒りを買い、秀次様を死に追いやり、諸国大名の心は離れ民も怒っておる!こんな滅茶苦茶にして放り出すのか!」とこれまた本音で詰め寄ると、秀吉もまた「おー、そうじゃ。なーんもかんも放り投げて、儂はくたばる。後は、おめーが如何にかせい」と恥も外聞もなく開き直ってみせる。これに激昂した家康に胸倉を掴まれた秀吉は(これは第38回とは逆の状況である)、家康を弱々しい声で嘲笑っていたが、矢庭に咳き込むと、横様に倒れ込み、ぴくりとも動かなくなる。家康は秀吉が死んだと思い込み、愕然としていたが、これはお芝居で、秀吉は再び息を吐く。「猿芝居が!大嫌いじゃ!」といきり立つ家康に秀吉が投げ掛けた「儂はー、おめえさんが好きだったにー」という言葉は、これまた紛れもない本音なのであろう。彼はこれに続けて「信長様は、ご自身の跡を引き継ぐのは、おめーさんだったと、そー、思ってたと思われるわ。悔しいがな」と口にするが、ここで突然信長の名が出て来るのは、恐らく先程口にした「白兎」という綽名が呼び水となっており、その意図する所は、(今となっては誰にも分からない)信長の意思を引き合いに出す事で、「天下人」という公の地位を家康に引き渡す、という意思表示なのであろう。これを受けた家康が秀吉に「天下を引き継いだのは、そなたである…真に、見事であった」と返したのは、秀吉によって「天下人」の地位を委託された家康が、前任者に掛ける労いの言葉だ。そうして夜も明け、雀が囀り出した時、秀吉は改まった様子で家康に「…うーん、うん…済まんの…上手く遣りなされや」と語るが、この言葉が何処か他人事の様に聞こえるのは、一方では、前の「天下人」として今の「天下人」に掛ける言葉であったからであろうが、他方では、この時点で秀吉は既に彼岸に片足を踏み出しており、そこから此岸を振り返って投げ掛けた言葉であったからでもあろう。これに対して家康は「…二度と、戦乱の世には戻さぬ。後は、任せよ」と応じる。この一連の遣り取りは天下人秀吉の「本音」である。そしてこれは秀吉の独断によるものではない。なぜなら家康が立ち去った後、寝所の敷居に現れた寧々に秀吉は微かに頷いてみせ、寧々もまた秀吉に小さく頷いていたからである。

 だが秀吉の意思表示はこの二つだけではなかった。彼が息を引き取ったのは1598年9月18日の事であるが、この時、枕元に居た茶々は発作に苦しむ秀吉を冷然と見下ろし、彼が従者を呼ぼうとすると振鈴を手で遠ざけた上で、彼の顔を両手で挟み、「秀頼は、貴方の子だとお思い?…秀頼は、この私の子。天下は渡さぬ…後は私に任せよ、猿」と言い放つ。この「秀頼は、この私の子。天下は渡さぬ」という言葉が意味しているのは、「お前は三成や家康に勝手な事を言い残していたが、私はそんな事は認めぬ。私は秀頼を天下人にしてみせる」という茶々の意志である。そして茶々の手に両頬を挟まれ、泣いている様な笑っている様な物凄い形相になった秀吉がこれを聞いて小さく笑い、そのまま事切れてしまう所から見て、秀吉はこの茶々の言葉に賛同した、と考える事も可能であろう。この小さな笑いを「遺言」と呼ぶ事は出来ないのかもしれないが、これもまた一つの意思表示ではある。既に見てきた「建前」と「本音」は何れも「天下人」秀吉によって発せられた公の言葉であったが、最後の最後に秀吉が見せた意思表示は、言ってみれば、一私人秀吉の茶々に対する「情」を表している。これに対して、「後は私に任せよ、猿」と言った時の茶々の表情は、父と母の仇秀吉に対して漸く復讐を果たした、と言っている様に見えるが、他方で、息絶えた秀吉に抱き付いて嗚咽している茶々を見ると、この二人の間にあった感情的結び付きは、愛情とも憎悪とも言い切れない複雑なものであったのだろう。秀吉が最後に見せた笑いは、自分を踏み付けにする愛妾に向かって「その意気や良し!三成や家康を手玉に取って、お前が天下を取ると言うのならば、遣ってみるが好い」という激励であったのかもしれない。

 三成が奉じている秀吉の「建前」から見るなら、家康も茶々も反逆者であるが、彼らとて秀吉によってその後継者としての地位を認められているのだから、事はそう単純ではない。秀吉が互いに矛盾する三つの意思表示を行ったのは、彼自身の中にあった分裂を反映したものであろうが(彼にはこれを綜合する力が残っていなかったのだ)、家康の中にも全く同じ分裂がある。これは彼においては、三成の理想への共感、天下への義務感、そして秀吉、秀頼への情という形を取る―この内、三番目の情は未だ潜在的なものに止まっている。皮肉な事に、三成の「夢」には嘗て家康が信じていた「築山の謀略」に似た所もあるのだが、今度は家康自身が自分の意思に反して(あの時の信長の様に)それを破壊する破目になってしまう。言い換えれば、この先待ち受けている三成との闘いは、家康にとっては自分自身との闘いでもあるのだ。それを良く表しているのが、この回の最後(恐らく秀吉死すという知らせを聞いた直後)、暗い室内に一人座る家康の心中で、三成への共感と天下への義務感が葛藤する場面である。この内、前者は「力ではなく、知恵。天下人を支えつつも、合議によって政を為す。そうなれば、天下人の座を、力で奪い合う事もなくなりましょう。それが、私の夢で御座います」と理想に燃える三成によって、そして後者は「天下を、お取りなされ。秀吉を見限って、殿が、お遣りなされ」と勧める左衛門尉によって体現されている。この後者の勧めに対して家康は「天下人など、嫌われる許りじゃ。信長にも、秀吉にも出来なかった事が…この儂に出来ようか?」と問うが、ここで家康が「嫌われる」という言葉で意味しているのは、単に諸大名に恨まれるとか、三成に嫌われるとかそういう次元の話ではなく、自分の嘗ての理想を踏み躙ってまでして、それは成し遂げねばならない事なのか、という問い掛けである。そしてこれに対する左衛門尉の返答が「…殿だから、出来るので御座る。戦が嫌いな、殿だからこそ…嫌われなされ。天下を、取りなされ!」という言葉であり、この言葉を二年経った今、暗い室内で反芻する事で、漸く家康は天下取りを決意するのである。ここから見ても分かる様に、家康の「天下取り」という志向は個人的野心ではなく、寧ろ天下に対する義務感から来ている。とは言え、家康の分裂は秀吉のそれとは違い、五年に亘る逡巡の中で一つに綜合されていく。名護屋に居た家康が「志あり、知恵豊かな者達が話し合い、皆が納得をして事を進めていく」という三成の構想に共鳴したのは、この時、日本と明国との和平案が話題になっていた所から見て、1593年の事である。これに対して、左衛門尉が家康との最後の対話において、「天下を、お取りなされ。秀吉を見限って、殿が、お遣りなされ」と勧めたのは、この三ヶ月後に左衛門尉が世を去る所から見て、1596年9月頃の事である(因みに、彼が「最後の海老すくい」を舞うのは、秀忠と江が祝言を挙げた1595年10月頃の事であろう)。そうして秀吉が死ぬのが1598年なのだから、家康はこの五年の間、秀吉の専制が行き詰まりつつあるのを見ながら、それに代わる体制について考え続けていた事になる。こうした逡巡の末に家康が天下取りを決意するに至るのは、彼が「志あり、知恵豊かな者達が話し合い、皆が納得をして事を進めていく」理想政治よりも「戦無き世を作る」という実現すべき目的を重んじたからである。そしてこういう目的意識こそ、「政は斯くあるべし」という原則は明確であっても、その政によって「如何なる世を齎すか」という事については不明確な三成や(因みに、瀬名はその理想を説くに当たって、「私達は何故、戦をするのでありましょう?」という問いから出発していた。彼女が提唱した「一つの慈愛の国」は一見余りにも理想主義的に見えるのだが、三成の合議制に比べて、遥かに明確な目的を持っていた)、「秀頼は、この私の子。天下は渡さぬ」という強烈な権力志向はあっても、矢張り天下を取った後の事は考えていない茶々に比べて、家康が一頭地を抜いている点である。

 三成が提唱する合議制と秀吉に委託された専制との間で逡巡する家康が見出した解決策とは、当面の難局は専制で乗り切り、その間に合議制の礎を作る、というものであった。そうして作り上げられていった仕組みが、後の江戸幕府である。だが家康はこの時、「秀頼は、この私の子。天下は渡さぬ」と言い放った茶々の事を忘れていた。関ヶ原の戦いを潜り抜け、名実共に天下を握った家康の前に立ちはだかるのが、豊臣家とどう共存していくのか、という課題である。このドラマの最終章では、「秀頼が幸せ、なら、無事に暮らしていけるなら、それでえー」という秀吉の遺言を受けて天下人と成った筈の家康が、なぜ豊臣家を滅ぼしたのか、或いは、なぜ豊臣家と共存する事に失敗したのか、という問題が描かれる筈である。

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