コカ_コーラ

沖縄人とコカ・コーラ

今はそれほどでもありませんが、
昔の沖縄人のコカコーラ熱は凄いものでした。
コーラはコーラーと呼ばれ、どこでも
来客用にコカ・コーラが常備されていました。

米軍統治下で急速に広まったコーラ、
その人気にあやかって
十数種類のバッタモンコーラが
出現したのも沖縄だけでしょう。

コーラは豊かさの象徴だった


コカ・コーラは米軍兵士の飲み物として
戦争中から大量に持ち込まれていました。

日本兵が餓えに苦しみながら
生きるか死ぬかの戦争をしている頃
米兵は甘いコーラを飲みながら
戦争をやっていたわけです。

戦後に米軍統治が開始されると、
当初のコーラは瓶から炭酸、原液まで
すべてアメリカ本国から持ち込まれていましたが
1948年からは沖縄にコーラ工場を造り
アメリカからは原液だけを取り寄せて、
キューバの砂糖と調合してコーラ製造が始まります。

1951年日本より早くコーラの民間販売が始まる


販売されたと言っても当初は米兵相手の売店だけに
コカ・コーラは卸されていました。
それが、民間にも販売されるようになるのは、
1951年、朝鮮戦争が不可避になり、
沖縄の米軍統治の固定が決定された年です。

本土では、1957年がコカ・コーラの認可なので、
それより6年早く公式にコカ・コーラが
民間に販売されるようになります。

もっとも、それ以前から県民は
コカ・コーラの味を知っていました。
戦前と言えば、ラムネくらいしか甘い飲み物はなく
炭酸と甘さに沖縄人は豊かさを感じ、
夢中になって飲んだのです。

コカ・コーラの瓶から生まれた芸術


コカ・コーラの販売は、もう一つの副産物を生みます。
頑強に造られたコーラの瓶は、不足していたコップの
代用品としてうってつけだったのです。

まずコーラの空き瓶のくびれの下に針金を巻きつけ
時間を掛けてゴシゴシと擦って熱を帯びさせます。
少し針金が瓶に食い込んだら、これを水の中に放り込むのです。

するとパキッと音がして針金を巻いた部分から
瓶が二つに割れるので、あとは断面を
サンドペーパーで磨いてコップ代用にしました。

また、琉球ガラスは、コーラの瓶などを原材料にして
作成され現在では実用品から芸術品にまで価値が
高まっています。

うちの親父は戦後1年生でコカ・コーラが好きでした。
戦後に復員した伯父さんもコーラが大好きで
多分そういう家系なのか、
ブログ主も清涼飲料水で何を飲むと言われれば
迷わずコカ・コーラです。
10代の頃は夏に500㎜の缶コーラを5本飲んでましたが
さすがに今それをやると糖尿病確定なのでしません。

琉球・沖縄の歴史を紹介しています。

http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/

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