鉄砲隊

1分で理解、琉球が薩摩に敗北した理由


1609年の薩摩、島津氏による琉球侵略は、
多くの沖縄県民の知る所です。
しかし、どうして敗北したか?については、
たった一言、
「平和に慣れた琉球人が
野蛮な島津氏に対抗できなかった」

だけで片付けられているに過ぎません。

この程度のコメントでは敗戦を分析しているとは、
到底呼べないので、1分で分かる琉球敗北の理由を
当ブログでは解説しましょう。

敗因1 上陸ポイントを那覇に限定し過ぎた


海上から上陸してくる軍隊を撃退するなら水際でやるのがベストです。
しかし、外からの侵略に慣れていない琉球は、倭寇の延長でしか
侵略を捉えておらず、那覇港に正規軍3000名を配置して、
鉄壁の防御と考えていました。


ところが、島津氏は、今帰仁港、渡具知港、牧港、那覇港など
複数ポイントから上陸し、那覇港以外のポイントでは、
すべて大きな抵抗なく上陸に成功しました。
陸上戦に慣れた島津軍を上陸させた事は致命傷だったのです。

敗因2 鉄砲の運用方法を知らなかった


島津氏の侵略時、すでに琉球には鉄砲はありました。
しかし、島津氏が700挺余りに対して、琉球は200挺で数が少なく、
おまけに琉球は、鉄砲を集中運用する事を知らず、
長篠合戦以前の狙撃用の武器、弓の延長としか思っていませんでした。

島津氏は、鉄砲を集中運用して、飛び込んでくる琉球兵を撃ちまくり
労せずして、先に進む事が出来たのです。
一般には、武勇に優れた島津兵が強調されますが、
事実は鉄砲の集中運用が出来ているかどうかが勝敗を分けたのです。

 敗因3 首里城には兵糧倉庫がなく籠城できなかった


島津氏は、首里城を包囲しましたが、尚寧王は城に籠らずに
あっさりと開城してしまいました。
一番の理由は、首里城には食糧倉庫がなく、籠城など出来ないからです。
例え、堅牢な城壁があっても首里城は厳密には城ではないわけです。

まとめ


つまり、上陸ポイントの想定ミス、鉄砲の集中運用を知らない事
さらには、首里城に籠城の機能がない事が結果的には、
薩摩藩の琉球征服を容易にし、薩摩藩が琉球貿易を介した富で
潤う事になったという事です。

それも全て突き詰めると危機意識の無さになり、
そうなると平和ボケしていたという事になるのは仕方ありません。


今日のニュースを語ります。