親泊朝省

【親泊朝省】ポツダム宣言をぶち壊しかけた沖縄人


ポツダム宣言受諾という日本史上最大の国難を描いた
「日本の一番長い日」という映画があります。

この作品の主人公は陸軍大将の阿南惟幾ですが、
こちらの事件には、一人の沖縄軍人が関わっていました。
大本営陸軍部報道部長だった親泊朝省大佐です。

教育者 親泊朝擢の長男として産まれる


1903年、親泊朝省は、教育者として著名な
親泊朝擢の長男として生まれます。
先祖は尚真王の嫡男であった尚維衡で、尚家の王族。
その血筋からは尚寧王も出ています。

軍人畑を歩き、1925年陸軍士官学校騎兵科を主席で卒業
その後、陸軍大学馬術教官、参謀本部副官、騎兵学校教官を経て
1942年、第38師団の参謀としてガダルカナルの戦いに参加、
深刻な飢餓に見舞われた中で何とか帰還を果たします。

1945年には陸軍大佐、阿南陸軍大臣秘書を兼ね、
終戦時は大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官でもありました。
これは、ポツダム宣言受諾に向かう日本の中枢に親泊がいた
という事実を意味しています。

親泊は戦争については批判的な考えを持ちながら、
ポツダム宣言の受諾には天皇の地位の保全が銘記されておらず
国体の護持が出来ないという危機意識を持っていました。

それが、その後の親泊大佐の行動にも影響を及ぼします。

親泊朝省、終戦におわせるNHKの放送に介入


1945年、8月10日、内幸町の放送会館は緊迫しました。
それは、ポツダム宣言受諾の下準備として、下村宏情報局総裁が
終戦をにおわせる談話を午後7時のニュースで発表する事に
なっていたからです。

巷では、表向き、徹底抗戦の空気が支配的で下村談話が、
どのような影響を及ぼすか予測不可能でした。
下村は国賊として殺される覚悟を持って臨みます。

下村談話の内容の一部

今や真に最悪の状態に立ち至ったことを認めざるを得ない
正しく国体を護持し民族の名誉を保持せんとする
最後の一線を守るため、政府は固より
最善の努力を為しつつあるが、
一億国民にありても国体の維持のためには
あらゆる困難を克服してゆくことを期待する


このように戦局の不利を認め、日本国を守る為に降伏を含めて
戦勝国の占領によるあらゆる困難を国民に克服するように
呼びかけています。

陸軍将校が放送デスクへ乱入し放送の差し変えを強要


しかし、午後7時の放送前に親泊大佐の代理の陸軍軍人が、
放送会館に乗りこみ、2Fのデスク席に陣取り
「全国民倒れるまで抗戦せん」という
阿南陸軍大将の布告を持ちこみ、下村談話の前に
放送せよと圧力を掛けてきたのです。

一軍人が独断で国営放送のプログラムを変更しろ等というのは
当時としても暴論でしたが、相手は暴発寸前の陸軍軍人、
拒否すれば、何をするか分からないという事になり、
プログラムは強引に差し替えられます。

こうして、下村談話は徹底抗戦を叫ぶ阿南布告に挟まれ、
チグハグになってしまい、インパクトを弱めてしまいました。
午後9時の放送までには、迫水書記官長が阿南陸相を説得して
下村談話を先、阿南布告を後にする事で決定したが、
新聞も記載がマチマチになり、大混乱しています。

               柳沢恭雄著『検閲放送』

もちろん、徹底抗戦を唱える親泊大佐の狙いがそこにあったのは
言うまでもない事でしょう。

偽の大本営発表 ポツダム宣言受諾が御破算に・・


親泊大佐の策謀は、これで終わりではありませんでした。
何と、ポツダム宣言自体をご破算にするべく、
偽の大本営発表を書いていたのです。

それが、


「皇軍は新たに大命を拝し、米英ソ支4ヵ国に対して作戦を開始せり」


という一文で、8月13日、13時15分には大本営陸軍部報道部長から
各新聞社、そして放送局に配布が済んでいました。

しかし、朝日新聞の柴田敏夫記者がポツダム宣言受諾に逆行する
発表に不信感を覚え、閣議に出席していた迫水書記官長に確認を取ります。

慌てた迫水は阿南陸相に確認すると、阿南も「知らない」と返答、
さあ偽発表だと大慌てになった迫水は、すぐに新聞社及び、
報道に連絡を飛ばします。

こうして、14:00に流される筈だった偽大本営発表は
寸前で廃棄されました。

もし、これが電波に乗って連合国に傍受されていたら、
ポツダム宣言の受諾は不可能になり、もう少し戦争は継続する事に
なっていたかも知れません。

迫水書記官長の手記では、この偽大本営発表は親泊大佐が書いた
と記録されています。

日本降伏の日、日本の将来を憂いて自決


1945年9月2日、戦艦ミズーリ号の甲板で日本が連合国に降伏した日。
親泊は「草莽の文」と題した遺書を陸軍内に配布し、
敗戦に至った陸軍の反省と日本の将来を憂う言葉を残し、
妻、子供二人と共に拳銃自決しました。

未発表の書簡では天皇への恨み事も・・


作家澤地久枝の「自決こころの法廷」では
親泊の未発表の関係書簡が紹介されています。

それは朝省の妻である英子の兄で親友でもある菅波三郎の書簡で、
この中で朝省最後の言葉として、天皇への恨み事が
綴られていました。

終戦の間際 天皇、皇太后ら全く意気地なし。
みずから戦を宣しておきながら真先きに軟化して敗戦に至る。
終生の恨事

親泊の最期には、「子供まで巻き込まなくても」という批判もあります。
しかし、この時代を生きていない人間の批判には自ずから限界があると
思います。
恵まれた現代の常識で亡国の淵にあった当時を測る事は難しいでしょう。

日本の命運がかかったポツダム宣言受諾を巡る一部始終に、
沖縄人が関わっていたのは驚きですし、日本と沖縄の浅からぬ
因縁を感じます。

親泊は沖縄人として生まれ、日本人教育を受けて、
帝国陸軍軍人として、生涯を自決という形で閉じたのです。

琉球・沖縄の歴史を紹介しています。
http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/

今日のニュースを語ります。