遊牧民

交易制限はオイラト族のせい?琉球より百倍図々しい奴ら


琉球国は、1372年より明王朝に服属する朝貢国になり、

一年に一回どころか、半年に一回

数百名規模の人員を送り込んでいました。

ところが、そんな琉球国も1475年には、

中国国内で琉球人が起こした殺人事件を理由に

進貢の回数を制限され、二年一回に削減されてしまいます。

しかし、進貢の制限は、実は琉球のせいではなく
琉球より百倍図々しいオイラト族のせいで、

明王朝の外交経費が半端なく増大したせいなのです。

参考文献:日明関係史研究の最前線と教科書記述

定員50名なのに4000人も送り込んだオイラト族


琉球も進貢の初期は

お世辞にも文明的とは言えない人々でした。

一年一貢など守らず、年に二回来たりし、

また北京で門番相手に派手な喧嘩を起こして

死者を出すなど、乱暴な人々が多かったのです。

しかし、琉球と同じように明王朝に朝貢をしていた

遊牧騎馬民族、オイラト族のごねっぷりは桁が違いました。

オイラトの指導者のエセン・ハンは、
定数50名の人員に対し1440年代には、
1000名を超える人員を送り込んでいました。

当時は、やってきた使者の人数分の贈物を

明王朝が出す習わしだったので、

エセンは使者を大量に水増しし

より大量の贈物を得ようとしたのです。

そのエセンの行動はエスカレート、

1448年には、3598人の使者を送ると明に通告してきました。

それを受け入れた明王朝ですが、実際に確認してみると、

3598人は実際よりも遥かに少ない数でした。

これには明王朝も我慢が出来ず、3598人の使者に対し、

その2割程度の贈物しか与えなかったのです。

エセン・ハンが逆切れし土木の変が起きる


これに対して、エセンは逆ギレ、
モンゴルの大ハーン、トクトア・ブハと協力して

西暦1448年陝・晋・遼の三方面から進撃しました。

これが歴史上有名な土木の変です。

この戦いに明の正統帝は
50万の大軍を率いて迎え撃ちますが、

準備不足の上に、戦争の指揮を
ド素人の宦官王振に任せていました。

これでは、戦争どころではなく、
明軍はオイラトに大敗し

おまけに正統帝は捕虜にされてしまったのです。

これに乗じて、エセン・ハンは
正統帝を人質に北京にまで侵攻しようとしますが、

留守を守った明王朝は、果断にも景泰帝を即位させて

万里の長城を盾に頑強に抵抗します。

結局、オイラトは北京侵攻を諦めて、

正統帝を返還し引き返してしまうのです。

何とか侵略を跳ね返し面目を保った明王朝でしたが、

以後もエセンは、3000人規模の使節を送り込んで、

多額の贈物を要求します。

土木の変自体、贈物をケチった結果である事を

痛感している明王朝は拒否する事が出来ませんでした。

オイラトに手をつけられないそのしわ寄せが

日本や琉球、ベトナムのような

他の朝貢国の進貢回数の削減になったのです。

まさに、エセン・ハンがごねたせいで、

琉球がとばっちりを受けた形になりました。


琉球も、当時、中国では入手しにくかった

馬と硫黄を供給する国として優遇されて、

かなり、中国相手にごねている印象でしたが、

いやはや、流石は略奪を生業にしているオイラト族

ごねっぷりの桁が違います。

琉球と沖縄の歴史を紹介しています。

http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/

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