海賊船

琉球は海賊が建国した!


琉球国は源為朝の息子の尊敦が逆臣の利勇を討ち
建国したのが神話は別としての最初と言われます。

しかし、実際に実在が確実とされているのは、
明王朝の史料に出現する察度王が最初であり
さらに、その統治のプロセスと実体は
詳しくは分かっていません。

文献に残っていない琉球建国を為した人々
それは実は海賊かも知れないのです。

喜界島に拠点を置いた海商集団が浦添に住み着いた


実は、琉球の発展には喜界島に住み着いた
グローバルな海商たちが関与しているという説があります。
喜界島の城久遺跡は平安時代から室町期まで600年栄えた都市で
ここで起きた半農半牧のライフスタイルや、
カムイ焼き、鉄器、滑石製石鍋というような文明の利器が、
沖縄本島のみならず、与那国にまで伝播していき、
それまで採集生活だった琉球の生活を一気にグスク時代へと
変化させたと言われているのです。

喜界島の商人が開けた浦添に住み王国を築いた


喜界島には、日本、朝鮮、中国の様々な商人が
グローバルに雑居して暮らしていました。
彼らが船に商品を満載し、南島で商売する中で、
風待ちや船乗りの慰労などで、天然の良港である牧港に
拠点を置き、そこに建物を建て定住した可能性もあります。

同時に、商人を止めて農業をしながら琉球に住んだ人々が
周辺の琉球人に新しい農耕技術や窯業を教えながら
混血が進んでいき、グスク時代が形成された
そのように考えている人もいます。

浦添ようどれに葬られる琉球人らしくない埋葬者


浦添ようどれの西室の石厨子には
成人、未成人、男性・女性の10体以上もの遺骨が納められ
復元された成人男性の頭蓋骨には、
中世日本人の特徴とされる(出っ歯)が認められ
また、尚寧王陵の4号石厨子のDNA分析では、
母方が中国南部か東南アジア系という王族がいました。
彼らは当時の琉球人より平均身長が5センチ程も高く
明らかに他所から来た人々が混じっています。

浦添ようどれは初期の造営が1270年代頃とされていて、
察度王が登場する100年あまり前です。
この時代に浦添にはグローバルな海商集団がいて
周辺の住民から王として崇められており
すでに琉球国の原型が造られていた
そういう事ではないでしょうか?

沖縄の古諺 物呉ゆしどぅ我御主の意味

沖縄には、暮らしを安定させてくれる人こそが、
支配者であるという意味の諺、
物呉(く)ゆしどぅ我御主というのがあります。

しかし、この言葉は昔はそのまま、
自分達に戦利品を分け与えてくれた支配者に対して
向けられた言葉ではないでしょうか?

浦添の海商達は、貿易で得た利益や、
海賊行為で得たと富の一部を支配地の民衆に与え
人心を得ていたと考えられます。
15世紀の佐敷按司、尚巴志も自分の刀と
船いっぱいの鉄塊を交換して、鉄の農具に打ち直し
農民に分け与えて人心を得ています。

琉球には存在しない珍しく便利なモノをくれる
異国の支配者に対して、土着の琉球人が感じた感想
それが物呉ゆしどぅ我御主では、
なかったかと思うのです。

船団がそのまま国家組織になった琉球


琉球国の組織は、ヒキと呼ばれ、250人単位、
率いるのは、勢登(しどぅ)と呼ばれる隊長と
筑殿(ちくどの)と呼ばれる副隊長でした。

琉球国には、勢登を隊長とするヒキが十二あり
それぞれ当番制で首里城を守っていました。

勢登は船頭が訛ったもので、筑殿も、
九州では副船長を意味する言葉のようです。
やがて勢登という名称は消えますが、
筑殿は残り、下級士族の称号である
筑登之(ちくどん)へと変化します。

どうして、船の組織が王国の組織になったか?
それは琉球国の建国者が海商、そして海賊であった
その為ではないかと考えるのです。

よそ者が土地の支配者になるという図式は、
奇妙に感じるかも知れませんが、
中国などは有史の半分以上は少数派の異民族の支配ですし
東南アジアの国々にも、政争に敗れて落ち延びた
王族が別の土地に拠点を構え、民を支配して
王国を造るというような歴史の流れがあります。

琉球の最初の支配者が琉球人ではなく、
グローバルな海商・海賊であった可能性は
決して小さくないでしょう。

琉球・沖縄の歴史を紹介しています。

http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/

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