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枯れ果てていても、山のにぎわいの一人

無力感を味わうことって、そこそこ、あると思います。

何の役にも立って無くて、ただ、そこにいるだけの自分を見て、何もできてねえなあ、って思うことってあると思うんです。

だけど、私は、枯れ果てていても、山のにぎわいの一人だと、思います。

去年ことですが、祭りって、何が楽しいか、近所の祭りに行きながら、考えてみたんです。

コロナで、ずいぶん、祭りが制限されてましたからね。去年は、とても、活気がありました。今年は、もっと、元気が良くなると思います。

そんな、祭りなんですが、ビールは高えし、売ってるものなんて、翌日家で見たら、なぜこんなものを買ったのか?と、疑問になるものばかりです。

それでも、祭りが楽しいのは、人がたくさんいるからです。

富士山制覇のような明確な計画と目的があるわけではなく、祭りに行って、祭りから帰ってきただけです。

祭りは、人がたくさんいることのために集まるとも言えるのでは無いでしょうか。私は、そう思いました。

で、あるならば、祭りというものが楽しいのであるのならば、人が集まること自体もまた楽しさがあると思うのです。

だから、自分が何の役にも立ってねえなあ。と思った時に、無力感を味わうとは、思うのですけれども、一回、

枯れ果てていても、山のにぎわいの一人

と思い直しても、良いのでは、と考えました。

才能もセンスも若さも、やがて枯れていきます。でも、にぎわいそのものに楽しさがあって、そのために頑張ってるってのも、ありなんじゃなかろうかと思います。


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