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「東方」が好きなやつなんてほとんどいない

自分の限界集落しか認めることのできないないやつ、一体何なんだ?

神主朝廷

東方Projectとは完全に神主のものである。
王国と言っても良い。

作品の供給は完全なるトップダウンで、ボトムアップの意見など届きはしない。
ただ下々の者が絵や漫画を描いたり、曲を作ったり歌ったり、泡沫noteで毒を吐いたりしているに過ぎない。

では下々の活動が何に定義されるのか。
ここでは「東方Project」(神主のもの)と「東方」(東方Projectを含めた全体の活動)を区別する。

自分はところどころ「東方には限界集落がたくさんある」という表現を使ってきた。
原作、イラスト、同人誌、アレンジ、MAD、まぁ何か他にも色々。
原作とアレンジの両方にまたがってる人もいれば原作にのみ定住する人もいる。

それらの人々や限界集落を統べるのが神主であり、統治方法が「東方Project」なのである。

じゃあ原作をやってないやつは非国民なのか?と言われればそれもまた定義上国民なのである。
それはただ「俺の属してるつよつよ限界集落の民じゃない」と言ってるに過ぎない。原作やってなくても東方が好きならどこかの限界集落に属しているのだろう。
その感性がないやつが多い。

適当な総体

Amazonとか探せば無数にコミュニティ論の本が出てくるのでコミュニティを定義するのは難しい。
自分が昔読んだ本だと

こういうのとか。

一応この本から引用すると

ニューパワー(注釈:コミュニティの力の意)はアップロードして分配するもの。水や電気のように、大量にどっと流れるときに最大の力を発揮する。ニューパワーを手にする者たちの目的は、溜め込むことでなく提供すること。

NEW POWER これからの世界の「新しい力」を手に入れろより

と書いてある。

この本が合ってるかは知らんし、そもそも海外事例だから「東方」ほど適当ではない。
が、まぁ色んな同人活動とか創作活動見ていれば何となく頷けるのではないだろうか。何となくで良いから頷ける……と思う。

何にせよ「東方」の総体的な在り方とは「適当」なのだ。
だから定期的に警察も湧くし、その時々によって守るものも変わるし、何の解決にもならないお気持ちを表明したりするし、何かサークル間でどうでも良いゴタゴタが発生したりする。
まぁそれも「東方」らしいと言えばそうなのだが。

とりあえず「東方」における各コミュニティを「それぞれの限界集落」と定義することにしよう。
なぜなら少なくともそれらの限界集落内では特定の話題について集団化しているからである。
じゃあ「東方」は?
「神主朝廷」の統べる国なので、一種のコミュニティとも言える。

ただまぁ蝦夷とか琉球とか「君にとって」未開拓の集落も包括していることは理解しなければならない。

緩やかな連合体「東方」

限界集落の民は隣の限界集落を見て、自分たちの限界集落以上の魅力を感じない。
たくさんの限界集落の集まりである「東方」という国を愛せない。

だから原作限界集落の民は何か気取って自分たちがすごいと勘違いするし、オーエンアレンジばっかり聴いてるどこかの民のキッズたちは原作に興味を示さない。
どっちも自分のことばかり話している。ましてや「自分たちの方が優れている」などと勘違いする者もいる始末。

「東方」ファンであるか否かはこの緩やかな連合体「東方」を愛せるか?の問題なのだ。

多分ほとんどの人は愛していない。
彼らにとっては自分の属している限界集落のみが「東方」であり、他は「東方のまがい物」程度にしか考えてないからだ。

少なくとも言えるのは、緩やかな連合体「東方」を愛していないならそれは「東方」ファンではない。
「東方Project」ファンかもしれないけどね。最初に定義を示したけど一応再度注意喚起ね。

ドリブルクソ野郎

ここで冒頭の問いに戻る。
自分の限界集落しか認めることのできないないやつ、一体何なんだ?

それについてはこの記事が良いことを書いている。

ドリブルクソ野郎なのだ。
そしてドリクソ(ドリブルクソ野郎)はコミュニティを壊す。ただしこの場合は、緩やかな連合体「東方」に害をなす。

なぜか?
ドリクソが「東方」のコミュニティ化を阻害するからだ。
阻害の結果「東方」は限界集落の緩やかな集合体へと引き落とされ、そして限界集落たちは物資交流を絶たれて貧困化する。

全ては「自分の属す限界集落が最高だ」と思っているドリクソから始まっている。

※補足:「今は東方が広がりすぎて」論について
これ提唱する人すごく多いのだが、ここでは全然違う話をしている。
この提唱は「全ての限界集落に属す・見渡すのは難しい」という話をしているだけで、隣の限界集落を貶めるのとは全然話が違う

「東方」が好きなやつなんてほとんどいない

ドリクソが全ての害なのである。
が、自分はドリクソも含めてそれが「東方の文化」だと思っている。
イキった限界集落の民が自分語りを始める。それもまぁいいじゃないか。マジで害悪だと思うけど害悪をも「幻想郷は受け入れる」である文化であってほしいと思う。
しかしコミュニティの力というのは大量にどっと流れるときに最大の力を発揮する。

ドリクソのせいで限界集落点が点在化しているのは間違いない。世代も集落も断絶している。
それが「東方」の本来出せる面白さを阻害してしまっている。

まぁ「東方」がそこまでのものならそれで諦めるしかない。これ以上面白くならないなら、原作でしか楽しめないなら、アレンジが進化しないなら、諦めるしかない。

そうなったとき「東方」を乗り捨てればいい。かつて多くの警察やドリクソがやってきたように。
結局は自分の限界集落が本当の限界を迎えたとき(面白くなくなったとき)に他ジャンルとかに乗り捨てをする。
自業自得なのに。もっと広く見れば「東方」を楽しめたかもしれないのに。集落がつながればもっと大きなパワーで面白くなったかもしれないのに。

これなんだよなぁ

君が「東方ファン」を名乗るとき、「東方ファン」として何かを語るとき、一度胸に手を当てて考えてほしい。

「東方」が好きなやつなんてほとんどいないのである。そして多分君も「東方」が好きではない

例大祭も東方ステーションも、あのサークルもあのクリエイターも、君もそして自分も、きっと神主も「東方」が好きではない。

「東方」が好きではない。本当に難しい問題だ。
見えない限界集落の存在まで愛しきれるか?自分の限界集落を嘲笑する連中の態度も愛しきれるか?
君はそう言い切れるだろうか?自分はそう言い切れるだろうか?

このnoteの最後をウィトゲンシュタインの有名な一節で締めようと思う。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

論理哲学論考より

本当に終わり。

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